第30話

 真顔で言い切った安倍さんを、じと目で睨んでしまった。


「えー……また、怨霊とか、幽体離脱した取引先のおじさんの魂が機械にとり憑いてるとか、そういうことですか……?」

「霊とか魂、とは少し違う気配ですね」

「と……いうことは?」

「どちらかというと、「念」に近い感じがいたします」

「怨念ってやつですか?」

「怨念というと、生きている人間の強い「恨み」の感情を指すことが多いですが、この場合……過去の強い情念が、この場に留まってしまっている……そんな気配を感じます」

「はあ……」


 なんと返せばいいのやら。気の抜けた返事をしながら、私は機械のメンテナンス記録を開いた。


 この分析機を平安製薬(株)に導入した時点からの、定期的なメンテナンス、部品の交換、故障時の対応の履歴が記されている。日付、担当者、メンテナンスの実施概要。


 ここ数年、大きな故障やトラブルの記録は特に見あたらない。消耗しそうな各部品も、きちんと適切な時期に交換されている。


 メンテナンス担当者は、ここ1年は城山さん、その前の数年が、最近退社してしまった城山さんよりもベテランだった女性社員、その更に前は5年近く、私の把握していない人の名前が記されていた。うーん、須藤さん。あんまり社員同士の噂でも聞いたことがない。


「ひとまず」


 安倍さんの言葉で、私は我に返って顔を上げた。


「この「念」、時間の経過とともに強くなっている気配がいたしますので、山城課長代理とともに、しばらくこちらで様子を見学させていただきます」

「ええ……まあ、良いですけど……結構、遅くなるかもしれませんよ」

「時間については、当方は構いません。ですが、山城課長代理は早めに切り上げた方が良いかと」

「え、なんで?」


 私、もしかして怨念に呪われるのだろうか。


「山城課長代理。今月も残業時間が60時間を越えれば、産業医との面談をセッティングしなければなりませんよ」

「うっ……」



 ***



 というわけで、定時のチャイムが鳴り、閑散としたラボの中で、安倍さんと二人きり、HPLCの様子を見守っている。が、かつての包装機のように、突然見知らぬおじさんが出現したりすることはなかった。


 小さくため息をつくと、膝を叩いて気合いを入れ、立ち上がる。


「とりあえず一旦、機器の再点検してみるか……」


 私は動いている送液ポンプを止め、カラムを外し、分析ラインを簡易洗浄した。


「何をされるのですか?」

「一旦、別のものを分析したときにも同じことが起こるのか、試してみます」


 あらかじめ、城山さんには必要なものを用意して貰っている。


「HPLCの機能を点検するとき、カフェインという物質をサンプルとして分析することが多いんです。シンプルな移動送と固定相の組み合わせで、短時間の分析ができるので」

「ほう」


 前回の定期点検のときの詳細な記録を参照しながら、セッティングしていく。カフェイン分析用の移動相を流してもポンプに過剰な圧力は係らず、ベースラインはすぐに安定してノイズもない。


「ここまでで問題ないってことは、ポンプからカラムまでの流路には異常はないと思って良い……よね……?」


 誰に聞いたわけでもないつぶやきには、もちろん、誰の返答もない。手探りでやっていくしかない。


 城山さんに作っておいて貰った、機器点検の分析プログラムを作動させる。オートサンプラーが動き出すモーター音が聞こえ出す。トクトクトク、ウィーン。


 もちろん、最初は何も溶かしていない「ブランク試料」の分析から始める。


「D2ランプエネルギー安定、カラム圧の大きな変動なし、ベースライン安定ノイズなし、ヨシ」


 思わず安全推進委員会みたいな口調で指さし確認してしまった。画面上でも何も異常は起きない。この分析系だと、ブランクの分析でゴーストピークが出現しないことがわかった。


「これだと何も出ないのか……。うーん……。直線性とシステム再現性も見るか……」


 自動注入プログラムを選択し、カフェインが溶けた液を繰り返し分析する。


「……見た感じでは、さきほどまでの謎のピークは出てきませんね」


 画面を見ながら、そう言う安倍さんに、私は頷いた。


「一回一回の分析時間短いからかなあ……。ちょっと私、今のうちに、過去のメンテナンスとかバリデーションの記録を資料室から取ってきます」

「わかりました。私はこちらで引き続き機器の様子を観察しています。先ほどから、念の気配が少し弱まっているのを感じますので」

「えー、あー……はい」


 資料室に向かう廊下を歩き出す。定時を過ぎると、室内灯が落ちて薄暗くなる。夏なのでまだ窓から明かりが入っているけど、なんだか寂しい光景だ。


 そう思った瞬間、急に、背筋がぶるっと震えた。


「寒っ!?」


 無意識にそう口をついて出た自分の言葉に、自分で違和感を覚える。


 ――真夏なのに、寒気を感じた……?


 無人の薄暗い廊下を見渡す。


 この会社での深夜残業なんてもう慣れっこになったはずなのに、急に誰もいない社屋の景色が、不気味に思えてきた。


 真っ暗な会社で一人で残業とか怖くないの? なんて、学生時代の友人と雑談していると問われることもあるのだが、今まであんまり気にしたことがなかった。


 私は元々幽霊とか心霊現象とかに興味がないタイプだった。安倍さんが召喚したあの包装機のそばで錠剤を破壊していた長岡薬業の田辺さんや、実家に現れた式神の美少女なんかは、リアル過ぎて神秘や不思議さを感じられず、そのまま受け入れてしまった。


 ――何もない場所に、漠然とした怖さみたいなの感じるの、生まれて初めてかもしれない……。


 私は慌てて頭を振った。


 いやいや、幽霊が怖くて仕事に手がつかなくなるとか、そんなこと社会人にあってはならない!


 ふん、と鼻から勢いよく呼気を噴射して自分に気合いを入れると、私は品質管理課用の資料室の扉の鍵を開け、ドアノブを回し――


「うらめしやー」

「ぎええええああああああああ!?」


 突然、頬にひどく冷たい物体が当てられると同時、背後から男性の声が聞こえて、私はとんでもない悲鳴を上げてしまった。

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