第29話

 城山さんがPCを操作し、モニター画面に取得中のデータがリアルタイム表示された。


「今、何の物質も溶かしていない、純粋なメタノールを注入しました。本来なら、何も検出されずにクロマトはこんな風にベースラインを這ったままの形になるはずなんですが……」


 私は過去の試験記録の中から、「ブランクデータ」を安倍さんに示してみせる。


 製品の試験をする一連の流れの始めには、ブランク、つまり何も溶かしていない液を注入して、何も検出されない、ということを必ず証明する。


 期待通りに採取できた過去の「ブランクデータ」は、X軸の上で綺麗な水平線を描いていた。


 だが……。


「あー、やっぱり出てきた」


 城山さんが小さくつぶやきながら私に目配せする。


 画面上の黒い線が不規則な曲線を描き始めた。小さくいびつなピークがぽこ、ぽこ、ぽこ、と絶え間なく出現する。


「これが、製品試験を始められない原因ですか」


 安倍さんの問いに、私が頷く。


「何もないはずのものから何かが出てきちゃう状態で分析を続けてしまったら、その後に得られたデータが正しいとは言えなくなってしまうので」


 安倍さんが頷くと同時に、城山さんが私の方に振り返る。


「言われたとおり流路を洗浄して、移動相作り直して、カラムも新品のに取り替えたけど何も変わらなかったよ。次はどうすればいい?」

「ええと……あと、サンプル入れる用のバイアルは新品を開封して貰ったんでしたっけ」

「うん」

「思いつくのこれぐらいなんだけどなあ……」


 無いはずのピークが出るというのは、つまりは何も無いと思っているところに実は何かある、要は意図せぬ汚染コンタミネーションが起きているということだ。


 特に、別の製品の試験分析をした後の機械の洗浄に不足があると、前の分析に使った薬品などが次の分析中に検出されてしまうことがある。


 だが今回の場合、使っているHPLCはそもそも天神メディック製品専用機なので、別のものが検出されるということは考えにくい。


「ピークの出る位置と大きさは毎回違って予測不能ってことは、少なくとも主成分のキャリーオーバーじゃないんだよな……」


 腕を組み、頭をひねる。城山さんは黙りこくっている。安倍さんも黙りこくっている。


「……一応、システム再現性は取れそうなんでしたっけ?」


 システム再現性というのは、規定された「標準溶液」を同じ条件で繰り返し分析したときに、ばらつきのない安定したデータが取れるか、という検査で、これも製品試験をスタートする一連の流れの中で必ず証明しなければならないものである。


「昨日、一回やったときは、ギリで判定値外れた」


 城山さんが淡々と答えながら、紙に印刷されたそのときのデータを見せてくれた。


 招かれざるピークが不規則に出現し、いくつかが目的とするピークに重なってしまったようで、それぞれのピーク面積値にばらつきが生じている。


「計算に使うの、面積値ですもんね。せめて高さだったら……」

「面積だよ」


 城山さんの、いつもの小さめの声が、私の希望を断ち切った。


 私はラボの壁に設置してある時計を見る。もうあと30分で、定時だ。


 平安製薬(株)の分析技術担当者は、だいたい基本、定時に帰っている。製薬企業の品質管理課で定時に退社……? と、入社当初は驚いたものだが、長年そういう風習になっていて、よほどのことがなければ残業はしない。まあ、残業はない方が良いにもちろん決まっているし、時には怪我や火傷をする危険も伴う作業を業務時間外に一人で担当させる、という状況は、決して奨励して良いものではないわけだが……。


「とりあえず、考えられる対処は一旦やってもらったんで、あとはこっちで、もう少し対処法考えてみます。オートサンプラーの中にはお願いしてたサンプル、入れてくれました?」

「うん、これ」


 手書きで、セットしたサンプルとバイアル番号がわかりやすいように一覧になっている。こういうところ、親切だし、信頼できるな、と思う。


 重度の人見知りでなければ、この歳でリーダーの役職についてても良かったのでは、と思う。でも彼女は重度の人見知りで、コミュニケーション力に難があり、特に見知らぬおじさん相手ではまともにコミュニケーション取れるようになるまでかなりの時間を要するし(今現在、背後にいる安倍さんに緊張しているのがありありとわかる)、小さな部署内でもリーダー職なんて多分、かなりの負担で、本人も望んでいないだろう。


 それは私のような、平安製薬(株)に入社して日の浅い人間より、古い付き合いをしている同僚のみなさんの方がよくわかっている。


「ありがとうございます。私のIDで入り直すので、一度城山さんはログアウトして貰っていいですか?」

「めんどかったら私のパスワード教えるけど」

「ダメダメ!」


 思わず声を上げてから、後悔した。あー、しまった、反射的に焦って、感じ悪い言い方をしてしまった。


 それにしても、分析機器のユーザーIDとパスワードの管理。田舎の中小企業のセキュリティ意識が低すぎる……。


「前回更新したパスワードからは、個人で管理して、他の人には知らせないようにって、坂上課長から注意されましたよねっ」

「めんどい……」

「めんどい……のはわかるけど……お願いします……! 私が怒られちゃうので……」


 少しコミカルめな口調で、目尻を下げて弱気な表情も作りながら、腰を落として目線を低くして、訴えた。


「……わかった」


 時々こうして、坂上課長の「改革」を、感情がついて行かず受け入れられない古株の社員たちの前で、課長の機嫌を取らなきゃいけないので私を助けると思ってとりあえず協力してくれ、などと言ってなんとかかんとかご機嫌を取っている。繰り返していて、疲れないわけではない。


「じゃあ、後は、私がこのHPLC借りるので、城山さんは他の……片づけとか、データの整理とかして、定時にあがって下さい」

「うん」


 小さく言うと、城山さんは立ち上がった。割と無表情で、何を考えているか、見た目だけでは推測しづらいな、というのは、安倍さんと一緒だ。でも多分、実際に何を考えているかは、だいぶ違うんじゃないかと思う。私もまだ心を十分に開いてもらっていないので、知らない面がまだまだ沢山ありそうな同僚だ。


 城山さんがラボを出て行くと、いつの間にか他の作業員も一人もいなくなっていて、部屋の中は私と安倍さんの二人きりになっていた。


「山城課長代理」

「はい」


 突然、神妙な感じで名前を呼ばれ、私はちょっとビビりながら返事をした。


「今回、現場を見せていただいたのは、実のところ、単に品質管理課さんの日常業務を見学させてもらえれば、と言う考えの方が大きかったのですが」

「はあ」

「……この、液クロと呼ばれる機械」


 安倍さんは左手で、移動相を送るポンプがうなり続けている、問題のHPLCを指さした。


「明らかに、不吉な気配が漂っています」

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