第28話

 分析機器のコンディショニングでトラブルがあり、製品試験が開始できない、という状態について小野部長に報告しに行く私に、何故か安倍さんは着いてきたのだった。


 無言の安倍さんに見守られながら、原因究明と対策について自分の考えた計画を陳述し、小野部長からOKを貰ったところで、安倍さんが突然、予想外のことを言い出した。


「今回のトラブルに伴う原因究明と対処について、私も同席してよろしいでしょうか」

「ほう?」


 小野部長は相変わらず何を考えているのかわからないテンションの低さで、軽い相づちをうつ。


 いつかの生産計画会議のときの高市課長のように、「総務の手伝いとかいらねえから!」と拒絶することはなかった。


「現在、社長の指示で、各課の日常業務の様子について聞き取り調査や社内視察をしています」

「うん、聞いているよ」


 聞いてるのか……。


「それに併せて、本件について当方がお役に立てることもあるかもしれませんし、是非とも立ち会わせていただければと思います

「うん、良いんじゃない」


 よくない気もするが、社長の名前が出てきて部長に許可されては私が断るすべはない。




 ――というわけで、ラボの中に初めて、安倍さんが入室した。


 品質管理課のラボに入室する場合、実際に実験作業をしないときでも、安全のために保護ゴーグルと白衣を着用しなければならない。安倍さんにもちゃんと身につけて貰った。


 あくまで薬品などから保護するための簡易的なものなので、製造現場に入るときのように更衣に厳密な手順があるわけではない。


 白衣にごついプラ製メガネを装着した安倍さんの姿は、普段と違うように思えて見慣れない反面、思いの外似合っているような気がしないでもない。


「なんか……白衣を着こなしてる感ありますね」

「陰陽師は現代でいう科学者のような位置づけと考えれば、白衣と縁遠い存在でもありません」

「それ、本気で言ってます?」


 常に真顔なので、冗談のつもりなのかマジのテンションなのか、全くわからない。


 時刻はもう夕刻で、ラボの中の、HPLCが並んでいるエリアには、ほとんど人がおらず、送液ポンプが作動する音だけが響いている。


 8台すべてのHPLCが、オートメーションで分析、データ採取をできるようになっているため、午後にプログラムをスタートして一晩機械を運転させておき、翌朝データの確認と解析をする場合が多いのだ。使用中の機械には「終夜運転中」の札が下げられている。


 並んだ機械の様子を安倍さんがしげしげと眺めている。


「8台中7台は同じメーカーのものと聞いていましたが、どれもちょっとずつ違う形をしていますね」

「購入時期によって、古いタイプと新しいタイプのものが混在していたりするので……でもまあ、外観が違って見えるだけで、ほとんどの仕組みと操作方法は一緒ですよ。あと、制御とデータ解析は、すべて最新のソフトウェアを使うように統一しています」

「なるほど」


 安倍さんが頷くと同時に、城山さんがラボに入室してきた。見知らぬ男性がラボにいることに、驚きと警戒心を露わに硬直している。


「……誰?」


 救いを求めるように私を見てくる。


 40歳過ぎぐらいの彼女は、人見知りが激しく内気な人だ。私も、気楽に会話してもらえるようになるまでかなり苦労した。


 その分、仕事も黙々とこつこつと真面目にやるタイプなので、歴代の責任者にも色々な分析業務を任せられるようになり……今や結構な負担がかかっているような気もしなくもない、心配な相手だ。


 とはいえ仕事を任せる側に立つと、わかっていても結局そういう人にばかり頼ってしまう……難しいところだ。


「ええと、こちらは、総務部に先月から配属になった、安倍さん。品質管理の仕事を見学したいってことで、案内してるんですけど……天神製品の分析でエラー起こしてるHPLC、見せてあげて欲しくて……」

「なんで?」


 なんで。まあ、当然、聞くよね……。


 他部署の人が品管の中を見に来るなんて、これまで滅多になかったのだから。人見知りの城山さんが全身で見知らぬ男に警戒しているのがわかる。


「ええっと、その。こういう、機器のトラブルの原因究明とか解決とか、各部署でどんな風に解決しているのか、社長命令で調査中なんだそうです。で、今、うちではOOSも逸脱も起きてないから、とりあえずこの液クロの不調の様子見て貰おうかなあって……。すみません、安倍さんへの解説とかは私からするので、城山さんはとりあえず、いつも通り機械の操作しててください」

「うん」


 慌てて説明すると城山さんは小さく頷いて、PCの前の椅子を引き、腰掛けた。マウスを動かすと、HPLCの運転制御・データ採取を行うソフトウェアの画面がすぐに現れた。


 すかさず安倍さんがそこに目をつける。


「スクリーンセイバーにロックはかけてないんですね」

「えーっと、査察で指摘事項になったら考えなきゃいけないとは思ってるんですが……一応画面が見えても、分析・解析ソフトはそれぞれの使用者のIDがないと操作できないことになっているので、そこまで喫緊の問題にはならないかと……」


 また査察の練習みたいな雰囲気になってきたな。


「あの、何か質問がありましたら私がお答えしますので……」

「ええ、お願いします。別にいきなり作業員に話しかけて無理強いしたりしませんよ。FDAの査察官ではないので」


 FDAというのは、アメリカの厚生省みたいな機関のことだ。


 海外と取引があるような製薬会社は、そういった欧米の官公庁や団体からも監査を受けなければいけないのだが、欧米の査察官というのは、現場で何か気になることを発見すると、案内している責任者レベルの人間ではなく、作業中の明らかに若手な人間に突然話しかけて、「これについて説明しなさい」と口頭試問を始めたりする。らしい。噂で聞いたことがある。


「まずは、機械の基本的な構造や機能について教えてもらえますか」


 安倍さんがそう言うので、私は既に2日ほど前から城山さんがああでもないこうでもないと動かし続けている機械の前に立って、説明した。


「あ、はい。ええとですね。HPLCは、液体の中に溶解している物質を分離する機械です。まず、ここにある、「移動相」という液体が」


 私は機械の上に置いてある3リットルサイズの褐色瓶を指さした。


「ポンプで吸い上げられて、機械の経路に入っていきます。ポンプを制御してるのがこっちの機械です。プランジャー式のポンプで、一定量で経路に液体を送り込んでいます。この「移動相」の流れに、各製品に定められた手順で調製された分析サンプルが注入されます。サンプルはこの機械の中にあらかじめセットしてあり、自動のサンプラーによって定量が吸い上げられ、流路に注入されます」


 説明しながら、私は「カラム恒温槽」の扉を開ける。ただの箱のようなシンプルな機械だ。箱の中には、「分析カラム」という、金属の棒のようなものが入っている。


「サンプルは移動相に乗って、この「固定相」と呼ばれる分析カラムに運ばれます。カラムの中には特殊な吸着剤が配列されていて、液体の中の分子が大きさや極性の偏りによって分離していきます。吸着剤と意図した反応が起こるように、カラムを一定温度に保っているのがこの装置です」


 恒温槽は現在40℃に保たれている。触れてしまうとちょっと熱いので要注意だ。


「分離された成分の中から、目的の成分をこの検出器で検出します。今回は紫外吸光光度計を使用しています。重水素ランプから照射された光学エネルギーが、各分子を通した後にどれだけ減衰したかを算出します。この装置で取得されたデータがPC内のソフトウェアでこのように可視化されます」


 現在のPCの画面上には、分析機器の制御パラメータが表示されているので、過去の試験記録書からクロマトグラムのデータを開いて見せた。


 縦軸に検出感度、横軸にサンプル注入からの経過時間を取った二次元グラフに、一つの大きなピークが描き出されている。


「この波形から得られた数字を用いて、物質の濃度や不純物の有無を計算するわけです」

「なるほど……それで、今起きている問題というのは、説明していただいたこれらの機械の動作中のエラーが起こっているのではなく、このグラフのようなものが出てくるときに何か問題があるということですね?」

「ええ、そういうことです。……城山さん、今、ブランク試料の注入、試しにやってもらえますか?」

「うん」


 城山さんがこちらを見ずに小さく返事をすると、PC上で分析プログラムを操作した。程なくして、サンプルの自動注入装置が動き出すモーター音が聞こえてきた。


 ドクドクドク、ウィーン。

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