第19話

 大急ぎで事務室に戻ってくると、私はデスクの下から2番目の引き出しを開いた。


 そこには水分補給用のお茶を入れた水筒と、残業がかなり長引いた時のための非常食カップ麺、仕事中にちょっと小腹が空いたらこっそり食べるお菓子を入れている。


 そのお菓子の袋の中に、実は、越智さんからもらった例の手作りクッキーがまだ入っていた。


 私は食に関してはケチんぼなところがある。越智さんの旦那さんの手作りクッキーが美味しかったので、また残業中にお腹が空いたら食べよう、とほくほくしながら、藤原さんにもらった分をこの非常食コーナーに入れて大事に取っていたのだった。


 待て待て、食中毒? 越智さんの部下たちが? 先週立て続けに?


 手作りクッキーを旦那さんが沢山作ってそれを越智さんが持ち歩いていたなら、当然、部下にも配っているだろう。


「まさか……」


 人からもらった手作りの料理は食べられない、と言っていた藤原さんの言葉も同時に脳裏を過ぎる。


 手作りクッキー。小麦が生焼けだったとか、ラッピングのときに素手で触ったところから雑菌が繁殖したとか、ちょっと考えるだけで無数の可能性が思い浮かんでくる。


 そしてその程度なら、元々お腹が弱い人とそうでもない人で症状が出る人とそうでない人も分かれそうである。


 私はどちらかというと、胃腸が弱い方だと自分で思っていたんだけれど……今のところ、特にお腹が痛くなったり、体調不良の気配はない。いや、もしかして、まさに今私の胃腸の中で黄色ブドウ球菌が急速に繁殖しているところなのか!?


 色々と想像が膨らんでいくうちに、本当にお腹が痛いような気がしてきた。いや、これは下痢が起きたときの痛みとはちょっと違うような……不安で胸がドキドキしてくる。


「橘さん」


 背後で大野さんの声がして、私は我に返った。


 いつの間にか事務室に入ってきていた大野さんが、デスクワーク中の橘さんに話しかけていた。


 私は振り返らずに黙って聞き耳を立てる。


「昨日入荷したこの原料って、いつまでに受け入れ試験すれば良いですか」

「んー? 私のところには催促の連絡とか来てないけど……一応、山城さんにも確認した方が良いんじゃない?」


 私は素早く、小さく咳払いをすると、ゆっくりと振り返った。


「な、なんだろう、何の原料かな?」


 どうにも数日前の、猫派の会話が失敗した件が私の中でわだかまっている。緊張で声がわずかにひっくり返ったが、いつも冷静沈着な橘さんも、なんだか覇気のない大野さんも完全なる無反応だ。あくまで真面目な視線が痛い。


「……ステアリン酸マグネシウムです」


 愛想のない声でそう言うと、大野さんは何やら紙ぺらを一枚手渡してきた。


 昨日入荷した原料の一覧が印刷されている。在庫管理システムから出力したものだ。一覧の一番端に「試験終了期日」という欄があり、すべての原料に入荷日から2週間後の日付が記されていた。これは多分、システムを操作した人が何も入力しなかったため、自動的にこの日付が表示されているのだと思われる。


 大野さんが気にしてる原料以外にもいくつか、2週間以内に使用予定があるものがあったはずだ。


「原料の使用予定のメール、第一製造課から来てたから、それ印刷するね。遅くとも使用予定日の一日前には試験が終わるようにして。使用予定日がの連絡がまだないものは入荷からだいたい2週間を目処に終わらせて欲しいんだけど――」


 私はメールボックスを検索して、原料を使用する第一製造課の「原料秤量チーム」からのメールを開き、印刷ボタンを押した。


 プリンターが動くのを待っている間、ちらりと中を確認する。


「ステアリン酸マグネシウムは使用予定なさそうだから、2週間後ぐらいまでに終わって欲しいんだけど、できそう?」

「……はい」


 私は立ち上がってプリンターから吐き出されたA4の紙を手に取った。


 数日前、試験の締め切りを適切に把握できずにトラブルになったとき、頑な態度だった大野さんが、今回は着手前に上長へ確認しに来てくれたのは、私としてはほっとしたし、嬉しい出来事だった。私に自分から話しかけるのは難しいのか、橘さんを一度挟んできたのは少し寂しいが、それでも進歩だ。


 ここはポジティブな言葉をかけ、褒め、讃えたい、そうすべきだ、と思ったのだが、かけるべき言葉が咄嗟に思い浮かばない。確認しにきてえらいね! と言うのも上から目線ぽくて嫌がられそうだし……聞いてくれてありがとう、というのもなんだか、逆に卑屈すぎて良くないだろうか。


「ええーっと、あの、他に何か、ついでに確認しときたいこととか、ない?」


 ないです、と素っ気なく言われるだろうな、と予想していたが、大野さんは少し考えるような仕草をした。


「あの……これ、ガスクロの試験がめんどくさくて……まとめて試験できる原料他にもあるなら、知りたいんですけど……」

「ああ、ガスクロの……。ステアリン酸とか、ステアリン酸カルシウムとかか」

「はい」


 私はその2つの原料に近々入荷予定があるかを在庫管理や発注予定表を見て確認した。確かに、一度にまとめてできる作業を、入荷予定を把握していなかったせいで何度も繰り返させられることになるのが精神的にしんどい気持ちは、よくわかる。


「あー、ごめん、特に近いうちに入荷予定はないみたいだわ」

「わかりました」


 相変わらずテンション低めの声でそう返ってきて、がっかりしたのかな? と思ったが、大野さんはすぐにはその場を立ち去らずに、わずかにもじもじしていた。私はちょっと首を傾げながら、大野さんが何かを言い出すのを待った。


「……前に」

「うん?」

「これのガスクロの試験終わった次の日に、ステアリン酸が入荷したことがあって」

「あー」


 それはめっちゃがっかりするな。


 と心の中で呟いてから、ここは声に出して共感すべきだと思い直す。


「それはめっちゃ、がっかりするよね」


 大野さんはまた、もじもじっとした。


「それから、めんどくさい系の試験、あんまり入荷してすぐやらないようにしてて」

「んー」


 その言葉の意図がすぐに飲み込めずに、数秒逡巡した後、私はひらめいたのだった。


 これはもしや、3日前、期限までに試験が終わっていなかった一件に関する、言い訳的なやつか? 入荷してからしばらく手つかずの試験項目があったのは、単純にさぼってたんじゃなくて、過去の経験から自分なりに思うことがあったからなのだ、と。


 うむ、それが正しい訴えだとは思わないが、心を開いて自分の気持ちを吐露しようとしてくれたのだから、まずはそれを受け入れる態度を示すべきだ、と私は奮い立った。


「うん。うん、うん、なるほどね」


 無難な相づちを打ちながら、私は急いで頭を回転させる。この場をなんとか和やかな雰囲気に持って行って会話を終了させるべきだ。そうすることでひいては業務改善の方向に導くことができる。


「そういう、まとめて試験できる原料の、入荷スケジュールが事前に知れたら、大野さんも計画立てやすいし、効率上がりそうだよね」

「うーん……そうですね」


 悪くない。悪くない反応だ。テンション低めだが、最初に会話を始めた時よりは私の話をしっかり聞いて、考えた上で、頷いてくれている。


「うん、とりあえず、このステアリン酸マグネシウムの件は、購買部に念のためもう一回確認しておくね。それから、今私の権限で見られる来週の入荷予定表も印刷しておこうか」

「あー、はい」


 再び印刷ボタンを押し、紙を大野さんに手渡す。


「こういう予定表、大野さんも見たいときに見れるようにできないか、システムの方に聞いてみるけど、とりあえず、また知りたいことあったら、私に聞いてね」


 私に聞いてね、は、ちょっと主張が強すぎる言い方だったかな、と思ったが、大野さんは少し落ち着かない風に、視線をさまよわせただけだった。


「はい、……ありがとうございます」


 そそくさと、白衣姿の背中が事務室から出て行った。


 お礼を言われた!? あの大野さんから!?


 私はなんだか脱力して、椅子の背もたれに全体重を預けた。


 安物の椅子が悲鳴のように軋んだ。




 壮大なミッション……でもないが、気の張る会話を終えた私は、いまいち力が入りきらない身体をのろのろと動かしながらメールボックスを開いた。新着メール一覧の中に


「臨時社内報」


 の件名が目に入る。ああ、さっき、安倍さんが言ってた奴か。食中毒疑惑。すっかり忘れていたが、まさか越智さんのクッキーが……。


 再び、直前までとは違う緊張に、私は椅子の上で姿勢をただしながら、ダブルクリックしてメールを開いた。


「芦原町××番の飲食店××で7月中に飲食をした方で、体調不良の自覚がある者は念のために医療機関を受診してください」


「へっ? 居酒屋の食中毒!?」


 地元の新聞のオンラインニュース記事へのリンクが張られている。


 その下に、簡単な経緯が書かれていた。


 食中毒の発生は2週間前の土曜日と見られ、原因はカンピロバクターであることが判明、既に当該飲食店は保健所の指導で営業停止処分となっている。


 当日、この店舗では、県内の薬業高校の小規模同窓会が開催されていたという。平安製薬の従業員にも、この高校の卒業生は多くおり、総務部の聞き取り調査の結果、この同窓会に参加した一部の従業員が軽度ではあるが腹痛などの諸症状を訴えているとのことである。


 記事の最後には、カンピロバクターに関する簡単な情報も記載されていた。


 特に鶏肉の加熱が不十分な場合などに食中毒の原因になりやすいとのことだった。


「そういうことだったのか……」


 パワハラも手作りクッキーも何の関係もなかった。


 全く、人の思いこみや噂とは、恐ろしいものである。


 安心しきった私は引き出しから例の手作りナッツ入りクッキーを取り出し、ポリポリ食べ始めた。

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