第18話
藤原さんとの会話が一段落して駐車場にやってきたときは、辺りはだいぶ薄暗くなっていた。と、同時に、辺りに可愛らしい女性の声が響いた。
「あー、藤原と山城みっけー!」
立ち話をしていたらしい女性二人がこちらに手を振っている。私たちの名前を呼んだのは越智さんだ。続いて日向さんが、
「おつかれー。仲良く残業か?」
とニヤニヤしながら尋ねてくる。
「玄関先でたまたま一緒になっただけです」
「山城っち、その回答、真面目過ぎるんよ」
日向さんが、お笑いのツッコミの人みたいに手刀を胸元に食らわせてくる。
こういうノリがおじさん的には「女の子らしくなくて若い部下に嫌われるのでは」と心配になるんだろう。日向さん自身は上層部男性陣にも好かれていると思うのだが。
「そーだ。山城がなんか凹んでるって日向から聞いたからー。甘いものでも食べて元気出しな?」
甘ったるいゆるい口調で、ニコニコしながら越智さんはそう言うと、鞄の中からなにやら小さな包みを取り出した。
「え、もしかして手作りクッキーですか?」
「うん。旦那が最近お菓子づくりハマっちゃって」
「越智さんのじゃないんだ」
「私はそんなめんどくさいことしないもーん。藤原にもついでだからあげる」
「マジっすか!」
藤原さんが嬉しそうに、可愛いキャラクター柄がプリントされたセロファンの袋を受け取った。
かさり、という音がする。小さめのサイズのクッキーが2枚、入っている。あたりが薄暗くてよく見えないが、チョコチップと紅茶味だろうか。
「んじゃ、あんたたちも早く帰りなさいよー」
越智さんと日向さんが、それぞれのマイカーに乗り込み、走り去るのを見送った。完全に視界から2台の車が消え去ると同時に、藤原さんがぽつりと言った。
「あのさ、もう一つ、オフレコにしてほしいことがあるんだけど」
「えっ? このタイミングで一体何ですか?」
藤原さんはものすごく気まずそうに顔をゆがめながら、今仕方受け取ったばかりのクッキーの包みを私に差し出す。
「俺、他人が手作りしたもの、食べられないんだよね……」
「あー……」
まあ、そういう人がいるのは、わかるし、私は責めたりしない。
頷くと、私はそれ以上は何も言わずに受け取った。
***
他人の手作り品を食べることに心理的抵抗のない私が越智さんの旦那さん手作りのチョコチップクッキーを1枚、美味しくいただいた2日後、出社すると猫捕獲器が撤去されていた。
「さきほど保護団体に引き渡してきたところです」
昼休みに廊下で遭遇した安倍さんに尋ねると、無事にあの白黒模様の猫を捕獲できたということだった。
「動物病院で健康チェックをして、保護団体内で様子を見た後、里親を探すことになるそうです」
「そっか、健康診断とかもしなきゃいけないんですね」
「寄生虫や猫エイズなど、他の個体や人間への危険もあるので」
先日の藤原さんの話に加えて、またも野良猫への認識を改めた。外で生活するというのは、思わぬリスクが沢山あるのだ。
「猫の保護って手間とかお金とかかかりそうですね」
「今回については、必要経費を当社からお支払いする予定です」
「え、そんな予算降りたんですか」
「衛生管理の必要経費として。稟議書も不要の範囲ですので」
「そこまでは高額ではないんですね?」
「元々私が賛助している団体であったこともあります」
さらっと告げられた言葉に、私は思わず目を見開いた。
「ええっ。猫の保護団体に、安倍さんが?」
「はい」
「つまり……安倍さんは、猫派なんですか?」
「いいえ」
安倍さんは表情一つ変えずに冷たく否定した。
「野良猫を始めとして、古来より陰陽道では鳥獣が人の住むエリアに出現することを凶事の徴と捉えます」
「そういえばそんなこと言ってましたね……」
「そのため、動物愛護団体や自然保護団体に普段からパイプを持つことにしているのです」
「な、なるほどマジか……」
「工場周辺をうろつく猫を捕まえたことで、当社の凶事は一つ避けられたと見て良いでしょう」
いやいや本当かよ、と突っ込みたくなったが、口にはしなかった。
まあ、敷地内で糞までするようになった猫を捕まえたんだから、衛生面での問題を一つ避けられた、というのは真実だとは思う。
「……そういえば、シミキエールWの製造も再開して、うちの課での製品検査も無事に進んでるし、運が上昇してきたのかな」
あれから第三製造課では工程の遅れもなく、日々順調に製造スケジュールが進んでいるようである。私には他部署の作業者の出欠状況まで把握はできないが、工員が不足して困っていた件は解消されたのだろう。
立て続けに作業員が病欠していたのは偶然だったのかもしれない。
「その件の原因についても無事に解決したので、本日中に掲示がされると思います」
「えっ、そうだったんですか! 掲示……というと?」
まさか安倍さんが裏で解決していたとは思わず、声が裏返った。偶然ではなく、明確な理由があるトラブルだったのか。
「端的に申しますと、原因は軽度の食中毒でした。詳細については掲示板か、臨時社内報メールをご覧ください」
それだけ言うと、話は終わったと言わんばかりに、安倍さんは背中を向けて颯爽と私の前を立ち去った。
それを見送りながら、私はちょっと衝撃的なキーワードに動揺を隠せずにいる。
「食中毒……!?」
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