第16話

「何の資料を探してるんですか? 手伝いますよ」


 製造、品質管理に関わる書類がまとめられた書庫は常に施錠されていて、鍵は部屋の管理部署であるGMP推進課で保管されている。


 入室するとほんの少し、埃と古くさい紙の臭いが混じった空気が押し寄せてきた。


 管理部署で整理整頓をする時間が足りないらしく、かなり雑然としていて、慣れないとどこに何の資料があるのかわかりづらい。


「ありがとうございます。探しているのは、第三製造課の健康管理と、環境モニタリング検査の記録です」

「製造現場の健康管理表はこの辺ですね。環境モニタリング検査の記録は品質管理課で保管してます」

「ありがとうございます、それでは後で品質管理課さんの方へ向かいます」

「はい、案内するので、声かけてくださいね。ところで……第三製造課の……ってことは、あれですか。今朝、藤原さんが話してた」

「ええ」


 安倍さんが棚からファイルを一つ取り出して開きながら、私の問いかけを肯定した。


「勤怠表を見たところ、確かにここ1週間、検査チームの休暇率が高いことがわかりました。念のため、健康管理の記録を確認しようかと」


 医薬品の製造現場を出入りする作業員は、必ず自分の健康状態を申請して、記録することになっている。ただ、これは便宜上そういうシステムを作っているだけで、実際はみんな何も考えずに「健康に問題なし」と書き込んでいて、問題なしと言った直後に体調不良で早退するなんてこともざらだ。


 どこの会社でもあるあるなのか、安倍さんもそれは承知のようで、ぱらぱらと該当のページを確かめた後、ファイルを棚に戻した。


「健康管理表については特に問題はないようですね。環境モニタリングについて見せていただけますか」


 平安製薬で作っているのは、錠剤などの固形剤なので、製造環境を無菌にする必要はないのだが、それでも医薬品を作る場所に雑菌が生えていたら大問題なので、定期的に清浄度が保たれているかを検査する。それを環境モニタリングと呼んでいる。


 検査は品質管理課が担当しているので、検査結果は品質管理課に保管されているのだった。


 私の記憶では、ここ数年、特筆すべき変化はなかったし、作業員が体調不良を起こすレベルで衛生の異常が発生していたことが今更発覚となったら、とんでもない問題なのだが……。


 自分が必要としていた資料を見つけだして写しを取ると、私は安倍さんを品質管理課の事務室へ連れて帰った。春日さん同様、安倍さんとほぼ初対面だった橘さんがやや動揺している。


「今年度に入ってからのモニタリング記録がこのファイルです。それ以前の年度のはこっち」

「ありがとうございます、拝見します」


 空いているデスクに腰掛けると、安倍さんは資料をめくり始めた。


「モニタリングはどれぐらいの頻度で行っているのですか?」

「こっちの表にまとめてあります。代表するポイントを月に2回、プラス数カ所を月に1回、全ポイントの検査を半年に1回です」

「合格の基準はどのように?」

「あくまでモニタリングなので、合否判定ではなく、直近のトレンドからアラートレベルを設定している形です。アラートレベルは一年に一度、年次照査のタイミングで見直しています」

「なるほど。拝見する限り、第三製造課の作業エリアを含めたどこでもトレンドに大きな変化は見られていませんね」

「はい。……なんか、査察対応してるみたいですね」


 公的機関や取引先のプロフェッショナルが工場や品質管理エリアを見学に来て、色々とチェックしていくことがある。査察という。そういうとき、今みたいな問答が行われる。今までは課長の坂上さんが対応していた。


「これからは坂上課長の補佐や代理で山城課長代理が表に出ることもあるでしょうから、練習と思っていただいても良いのではないでしょうか」

「はあ」


 経験もないしその辺の引継はろくにされていないのに、いざ矢面に立たされて失言でもしてしまわないか心配だ。だいたい、元来小心者な私には、部署や会社を代表し命運を背負って外部の人の対応をするなんて壊滅的にむいていない。が、しかし、責任者の代理をやっている以上、今、査察が入ったら対応しなければいけないのは私なのは確かだ。


 正式に課長代理という肩書きになって以来、何かある度に、坂上さんだったらどう対応していただろう、と思い出し、イメージする。


 彼にも担当業務にそれぞれ得手不得手があって、何もかもが完璧というわけではなかった。坂上さんが上手くやれていなかった一部の仕事が、今になって不具合として具現化し噴出しているフシもある。とは言え、査察対応に関しては明らかに坂上さんは上手くやっていた。堂々たる口先八丁、はったりで厳しい態度の査察官をも圧倒するさまには、頼りがいすら感じた。


 でもああ言うのは、場慣れすればある程度は上達できる気もする。どんな査察官も、医薬品工場について追求する重要な事項というのは基本的には同じで、それを説明する練習さえしておけばいいだけなのだから。


 管理・監督職で一番重要なのはやっぱり、部下をいかに管理できるかだ。信用を得て、仕事を回し、成果をあげる。


 だが今のところ、その辺に暗雲がたれこめている。


 昨日から続いている大野さんとの不穏な関係を思いだし、私は思わずため息をついてしまった。


「ひどいため息ですが、そんなに査察対応が不安ですか」

「あ、すみません、別のことを考えてしまいました」

「そうですか」


 会話の途中にため息なんて、ひどく失礼な行為だ。私が他人にやられたらめちゃくちゃビビるし落ち込む。やってしまった、と思ったが、安倍さんは顔色一つ変えず、何を考えているのかわからない。


「ええと、製造現場の衛生環境には問題なさそうということで、結論、ですかね」


 慌てて話題を本題に戻すと、安倍さんは小さく頷いた。


「はい。まあ、こちらは念のために確認しただけですので……」

「そうなんですね。まあ、製造現場の衛生環境と作業員の腹痛が因果関係あったらあったで大問題なので、良かったです」

「腹痛、ですか?」


 私の言葉に、訝しげに安倍さんが聞き返す。いつも淡々としている安倍さんにしては、少しだけ感情が露わになったようで、新鮮な表情だ。


「あ、いや、私も詳しくは知らないんですけど、日向リーダーからそんな話を、さっきちらっと」

「なるほど」


 口にしてしまってから、あんまり他部署の噂話みたいな話を人に聞かれたら良くないな、と思って部屋を見回すと、たまたま橘さんは席を外していて、今は私と安倍さんしかいなかった。


 安倍さんはまた落ち着いた様子で、小さく頷いた。


「やはり当事者に直接聞き取りをした方が良いのかもしれませんね」

「まあ、そうですね」

「情報ありがとうございます。それからこの件は他言無用でお願いします」


 それだけ言うと、安倍さんは颯爽と当課の事務所を立ち去っていった。

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