第15話
「あ、猫だ」
ゴミ捨て場で作業をしながら、私はふと、道路の先に4つ足の獣の姿を見つけて思わず呟いた。数日前に残業の後に見かけたのと同じ、白と黒の模様が入り交じった猫だ。たぶん、安倍さんが捕獲器で捕獲を試みているターゲットはあれだろう。
私の言葉に、隣にいた部下、大野さんと近江さんが顔を上げた。
二人は今日の昼休み後、実験室の掃除で集めたゴミを捨てる当番だった。いつもより少し量が多いから大変そうだね、と声をかけて、捨てに行くのを手伝っているのだった。
日向さんに、「腰を落ち着けて時間をかけて話し合うのもやり方」と言われた後、考えた。中途入社で、品質管理課に急にやってきた私は、まだまだ古株の社員たちに信用されていなくて当然だ。若くて社会人歴も浅い大野さんが、二人きりの場に呼び出されたら、それだけで心を閉ざしてしまうのは自然な流れかもしれない。
まずは私という人間と会話をすることに慣れてもらう必要がある。
そういうわけで、こう言った些細な雑事を積極的に手伝うことで、一緒に過ごす時間を増やしていこう、と企んだのだった。
猫は、50メートル近いだいぶ遠い距離にいたが、こちらの視線に気付いたのか警戒したように動きを止めている。
「ほんとだー、猫ですね」
呟いたのは近江さん、20代半ば女性社員で、大野さんも慕っている、割とおっとりした印象の子だ。
「あ、逃げた」
続いて、大野さんも、素早くよその会社の建物の陰に逃げ込む猫を目で追っている。
猫に気付いたのは偶然だったが、これは無難な雑談に繋げられそうだ。
「ちなみに二人は、犬派? 猫派?」
積み上げられたゴミ袋の山のてっぺんから、シュレッダーごみが詰められた袋が転がり落ちてきそうになってきたのを慌ててキャッチしながら、私は話を振った。
まとめた段ボールをゴミステーションの隙間に押し込みながら、近江さんが少し考えるように視線をさまよわせる。
「そうですね……どっちかっていうと猫かなあ。小さい頃、近所の犬がめっちゃ吠えてきて怖くて、犬ってちょっとトラウマなんですよね」
「あー、大きい犬に吠えられるのは怖いよね。最近はあんまり、外で犬飼ってる家も見なくなったけど……」
「えー! うちは田舎だからまだまだ近所に外で飼ってる家ありますよ。さすがに放し飼いはないですけど」
「そうなんだ」
近江さんとの会話が続いている間、大野さんは黙々とゴミステーションにゴミ袋を積み入れている。
「お、大野さんは……猫は、好き?」
「いや、別に……」
凄まじく低いテンションで、ぼそぼそっと返答され、既にこの時点で心が折れそうだ。
「あれ? 大野さん、猫飼ってるんじゃなかったっけ」
更なるボディブローが、無自覚に近江さんから繰り出された。猫、好きなんじゃねえか、私と雑談したくなくてはぐらかしたのか? 完全にくじけそうだ。
「飼ってるけど、別に、好きとかじゃ……」
「あ、はは……そんなこと言っちゃ猫ちゃんかわいそうじゃん……可愛がってあげなよ……」
持てる限りのエネルギーを絞り出し、おばさんぽく冗談めかして見せて、会話を切り上げた。
ノックしてGMP推進部に入ると、デスクには一人の社員しかいなかった。
「お疲れさまです……部長は経営者会議中です……」
私の顔を見るなり、一人でパソコンに向かっていた男性社員の春日さんが、疲れ切った声で言い放った。人のこと言えないけど、顔色がめちゃくちゃ悪い。そのせいかひどく老けて見える。まだ20代だったと思うのだが、私の同窓会に紛れてても違和感がないかもしれない。
「あ、いや、小野部長に用があったんじゃなく、書庫の鍵を借りたくて」
「そうですか……」
声がめちゃくちゃ小さい。大人しい人だとは思っていたが、こんな愛想の悪さではなかった気がする。
忙しいから疲れているのだろうし、あまり構わない方が良いのだろうか。それとも、やはり気遣うような声をかけてあげた方が良いのだろうか。ちょうど、二人きりになったところだし。
ちょっと迷った末に、先ほどのゴミステーションでの犬派猫派事件で落ち込んでいたこともあり、後者を選択した。誰かとちょっとした会話をすることで鬱屈した敗北感から立ち上がりたかったのだ。
「春日さん……だいぶ、お疲れですか」
「うーん、ええ……あー」
言葉にならないうわごとが飛び出て、マジでこの人やばいんじゃないか、という気がしてくる。
「忙しいんですか? ……何か困ってます?」
当たり障りのない雑談でもすれば、少し緊張がほぐれるかと思って話を振っただけだったのだが、なんだかこのまま放っていたら良心の呵責を感じそうだ。
「いや、特には……」
「愚痴ぐらいなら聞きますよ。今、ちょうど誰もいないみたいだし」
「工程照査チームは別室でミーティング中で、GMP推進チーム他の二人は製造現場に行ってるんです」
「皆さん忙しいですね」
「……そう、見えます?」
「え?」
「でも、僕も忙しいんですよね」
「えっ? あ……」
なんだ、このデジャビュ。
「いやいやいや、春日さんがデスクにいるのは忙しくないからだなんて思ってませんよ!?」
「でもなんか、僕だけ扱いがぞんざいな気がするんですよ」
「そんなあ」
GMP推進課はここ数年新卒新入社員が入っていなくて、春日さんが一番年下だ。小野部長は無愛想で何を考えているかわかりづらい人ではあるが、春日さんのことは育ててやろうと思って可愛がっているような印象を持っていた。まあ、具体的に部長の言動のどこが……と言われると、咄嗟に答えられないものがあるが……。
「えーっと、何か、先輩方に冷たい態度をとられたんですか……?」
質問してしまってから、なんだか悪口を聞き出そうとしているみたいで良くないな、と思ったが、時、既に遅し。
「違いますよ!」
気分を害したかと思われた春日さんは、予想に反して食いついてきた。憤りを露わに、張りのある声をあげる。
「部長ですよ、小野部長」
「小野部長、春日さんに厳しいんですか?」
まあ、気遣いや優しさを前面に出すタイプでないことはわかる。
「……葛井さんですよ」
少し気まずいのか、声のトーンを落として、春日さんが言う。
葛井さんとは、今はこの部屋にいない、彼の同僚だ。確か私と歳が近かったはず。半年ほど前に中途入社した男性で、薬剤師免許を持っていることと、業界経験者であったことで、最初から管理者候補だったのだろう。つい先日、入社半年でGMP推進チームのリーダー職に昇格している。
「別に彼、すごく仕事ができるってわけでもないじゃないですか。なんであんな特別扱いなんですかね。僕の仕事なんて、彼以下ってことですか?」
「いやあ……別に、小野部長が春日さんんと葛井さんを比べた結果の人事じゃないと思いますよ……単純に葛井さんは薬剤師免許持ってらっしゃるから……」
「薬剤師免許ってそんなに偉いんですか? 実務のクオリティを上回るほど」
「うーん」
平安製薬では、時々こう言った声が漏れ聞こえることがあるのだが、私は大企業の医薬品工場を経験したためか、どうにも認識にギャップがあるなあ、と思ってしまう。
製薬企業にはいくつか、薬剤師免許を持っている人だけが就ける役職がある。そのため大きな会社では薬剤師免許を持っている人を定期的に採用するし、その人たちはその人たち同士で出世のコースを争っている。
しかし地方の弱小企業で待遇もよくない平安製薬に、わざわざ6年も大層な薬学の勉強をして難しい国家試験をパスしたような優秀な人間が、やってくるはずがなかった。
かくして今、小野部長をはじめとする当社の薬剤師免許保有者は全員50歳を越えていて、このままでは彼らが定年になった後は会社の存続自体が危うくなってくる。
そんな中、何故か大手から突然転職してきたのが葛井さんだった。絶対に手放したくないと上層部が彼を大事にするのは当然の展開である。
「いや、そこ、比べることじゃないですよ。なんていうか……薬剤師免許持ってる人は別格だから……あんまり扱いを比べないで、春日さんは春日さんで自信持ってくださいよ」
「いえ、私は春日さんの意見を支持します」
突然、音を立てて部屋の扉が開け放たれ、私たちの会話に声が割って入った。
慌てて振り返る。聞く人によっては陰口にも思われかねない内容だった。まずいな、と思って焦ったが、入り口に立っていたのは、まさかの安倍さんだった。
「え、わ、あ、総務部の中途さん……でしたっけ?」
あまり仕事上の関わりがないからか、安倍さんの顔と名前がまだあまり一致していないらしい。春日さんが露骨に動揺している。
「総務部陰陽課の安倍と申します。山城課長代理のおっしゃる通り、薬剤師免許を保有する社員が当社にとって貴重な人材であることは確かです。しかし、それは各社員の業務とは無関係であるべきです。同僚が不公平感を抱くのであれば、それはひいては社全体の不利益に繋がります」
「え、あ、はい、まあ、そうですね……」
立て板に水のごとく語る安倍さんに、圧倒されて何も言えない。安倍さんは私たち二人を見比べた後、春日さんに向き直った。
「ただし春日さん、このようなご意見は、意図しない人間に聞かれて誤解を招いたりすることのないよう、口にする時と場所はもう少し選ばれた方がよろしいかと」
「あ、は、はい……」
これは頷かざるを得なかったらしく、春日さんがしゅんとして頷いた。
「えっと、安倍さんは何しにこの部署へ? 部長は会議で離席中みたいですけど」
「書庫で確認したい資料がありまして、鍵を借用しに参りました」
総務の人が、何故GMP関係の資料を……? と思いつつ、私は既に手にしていた鍵を顔の横で振って見せた。
「あ、私も書庫に用があったんで、一緒に行きますか?」
「はい、ご一緒させてください」
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