第32話

「フノネン……えっ、何?」

「いや、あの……」


 突然の安倍さんの登場と不可解な言葉にキョロキョロする藤原さんと、頭が痛くなってくる私である。


「お荷物も重そうですので、ひとまず、中にお入りください」

「いやいや、まるで自分の所属の部屋に案内してるようなノリですけど、そこ、私の部署なんですが……」

「てか安倍さん、白衣似合いますねー」

「そうでしょうか? どうもありがとうございます」


 安倍さん、藤原さんに対する返答が、さっきの私に対するのとなんか違うんだけど、なんで?


 と突っ込みたいのを押さえて、私はとりあえずラボの中に入った。藤原さんが勝手知った様子で、外部者用の白衣を羽織っている。


「……そういえば、怨念が弱まっているとか言ってたの、どうなりました?」


 こっちとしてはオカルトな解決じゃなくて、誰にでも説明できるような原因を見つけたいのだが、一応、安倍さんの見解も聞いてみる。


「なになに、品管さん、怨念に取り憑かれてるの?」

「怨念ではなく、残思念のようなものですね。カフェインの分析を始めてからどんどんと弱まっている気配がします」

「うーん」


 PCを操作し、資料を取ってきている間に取得が終了していたカフェインの分析データを確認する。念だか怨念だかのことはわからないが、確かにカフェインの分析に関しては異常は発生していない。ベースラインは安定し、異常なピークは見あたらず、注入再現性や直線性も綺麗な値に収まっている。


「機械の性能に大きな問題はなくて、天神さんの製品を分析したときにだけ異常が起きるってことなのか……」

「天神メディック製品が呪われてるってこと?」


 藤原さんの無邪気な問いに、私は思わず頭を振る。何が呪いだ、他人事だと思って。


「一応……製品がおかしいわけじゃないはずなんですよね。製品の分析を開始する前からおかしな現象が起こるので……」

「そうですね。負の念は分析サンプルではなく分析機械から漂っています」

「じゃあ、さわさんの怨念てこと?」


 藤原さんの言葉に、安倍さんが興味深げに視線を動かす。


「さわさん、とは、どなたのことでしょう?」

「んー、昔、平安製薬にいた人で。天神さんの製品分析担当してたみたいなんですよね」

「この製品や機械に対して負の感情を抱いていそうな事情があったのでしょうか?」

「いやー、俺はよく事情知らないんすよ。昔のことだし……。さっき山城ちゃんが話題にしたから、なんか関係あるのかなって」

「あ、いや、私は別に……メンテナンスの記録とか見てたらよくお名前があったから、どんな人なのかなって思っただけで」


 慌てて疑惑を否定する。退社後に怨念で機械に不具合起こしてるのでは、と疑われるとか、自分がその立場だったらめちゃくちゃ不名誉だ。……嫌な気持ちになって会社辞めた経験は、自分にもあるけれど。


「とりあえず機械の状態を製品分析が始められる状態に戻しますね」

「そうですね。機械の状態によって念がどう変化するかも確かめたいです」


 安倍さんの言葉に曖昧に頷くと、私はポンプを一時停止し、移動相とカラムを交換する。移動相ボトルを交換するために踏み台に乗っていると、背後から藤原さんの脳天気な声が聞こえてくる。


「わー、山城ちゃんが分析機械いじってるの、地味に初めて見たかも」

「……私、ここでは急に監督職になっちゃいましたけど、元々は長いこと分析屋やってたんですよ」


 作業しながら、背中越しに会話をする。


「確かに山城ちゃん、試験管振ってるのとか似合いそうだよね」

「試験管振ってるの似合う、の意味がわからないですけど……まあ実際、コツコツ分析作業やってる方が好きだったってのは、本音ですね……」


 最近、実感したことだ。そう思うと、私は小さい企業で正社員になるより、技術系派遣社員として働いている方が向いていたのかもしれない。……今更、どうしようもないが。


 うーん、なんかちょっと、テンション落ちてきたな。今後の人生設計、悩める。私は何がしたいんだろう。


「あ……そういえば、さわさんが似たようなこと言ってたの、聞いたことあるかも」


 ぽつりと、藤原さんが呟いた。作業を終えた私はステップから降りて振り返って尋ねる。


「え、その須藤さんて、一般作業者じゃなかったんですか? 管理監督職ってこと?」

「いつからかは知らないけど、俺が入社してから退職するまでは係長級だったよ」

「係長……?」


 今の品質管理課内にはないポジションだ。首を傾げる私に、藤原さんがぽんと手を打つ。


「あ、そうそう。一回、大きな組織改編があったんだよね。あの頃はまだ、品管さんの中に製造環境の検査する専門の部隊があったんだよ。そこのリーダーさんだったはず。微生物試験係の係長だっけな」

「微生物試験? でも須藤さんて、このHPLCの立ち上げから定期メンテまで全部担当してるのに……?」


 微生物試験とは、文字通り細菌とか真菌とか、微生物の試験のことだ。製造環境に不適切な汚染がないかとか、場合によっては原材料に雑菌が生えてないかとか、そういう検査をする。


 今操作しているHPLCを用いた分析などは、「理化学試験」と呼ばれることが多い。


 だいたいの会社では、これらの分析の担当者は別々になっている……のだが、現在の平安製薬(株)の品質管理課では、どちらも同じチームで担当していた。


 元からだと思っていたが、昔は別々のグループに分かれていたのか……。


 しかし、分かれていたら分かれていたで、何故微生物試験担当の係長だった須藤さんが理化学分析の履歴に多くの名前を残しているのか、よくわからない。


「ふむ」


 私たちの会話を黙って聞いていた安倍さんが、タブレットを懐から取り出して操作しだした。


「須藤さわさん、とおっしゃるのですね、その方は」

「はい。確かずっと独身だったから、在職中の名字の変更とかもないと思いますよ」

「ああ、ありました」


 どうも、社員のデータにアクセスしているようだ。


「入社後、微生物試験係に配属された後、課内での異動も特に無いようですね」

「……変なの」


 と呟いてみたものの、よく考えたら課長代理が一人で残業して機械のメンテをしているのも、変なことなのかもしれない。


 ――人手が足りなくて、仕方なく他のチームの仕事を手伝ってたとか……?


 ……まあ、その辺は、考えてもわからないし、今となってはどうでもいいことだ。


 私はパソコンの前に座って、天神メディック製品の分析プロトコルを起動する。


「じゃあ、もう一回、天神製品の分析、やってみますね」

「お願いします」

「お、俺、液クロとか言うやつが動くの初めて見るかも」


 興味津々、といった様子で藤原さんが声を上げる。


「藤原課長代理も、いずれ立場が変われば、品管業務についてある程度把握しなければならなくなると思いますが」

「いやいや、俺、もう出世とか勘弁ですよー。管理職試験に落ちたときに心折れました。一生課長代理で十分です……」


 おどけているが少し沈んだ藤原さんの声が背後から聞こえる。たまに管理職連中のおじさん達にからかわれているので事情は知っていたが、本当は結構傷ついていたのかもしれない。


 なんか慰めた方がいいのかな。こんなときの無難な言葉みたいのが、特にレパートリーにないので困る。


 などと思っていたら、機械のコンディションが安定したらしく、オートサンプラーが動き出す音がした。


 トクトクトク、ウィーン。


 PCのモニターを、機械の操作画面から採取データのリアルタイムモニター画面に切り替える。


 その瞬間だった。


「うっ……!?」


 急に、ぐらりと頭を強く揺さぶられるような衝撃が来た。


 ぐるんぐるんとひどいめまいに襲われ、吐き気がこみ上げてくる。


「山城課長代理……ッ!? まずい、これは……!」


 安倍さんの、珍しく焦った声が聞こえた。


 そして、そこで、私の意識は、途切れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

社畜陰陽師ッ! @madokanana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ