第25話

 呆然としながら、私は目の前に立つ式神の少女を見上げた。


 ルームライトがちょうど彼女の背後になって、逆光になっている。影のかかった、能面のような表情で見下ろされると、窓の外に居たときの三割増しでホラーめいて見える。


 もう一度彼女は手のひらをこちらに向け、何かを渡せ、というような仕草をした。それが、今通話を終えたスマホを要求していることにようやく気付いた。戸惑いながらもおそるおそる差し出すと、少女はそれを手に取り、慣れた様子で何やら操作しだした。


「ちょっ、あの、何やってるんですか、変なサイトにアクセスとかしないですよね……?」


 ちら、と黒目がちな眼が一瞬こちらを見たが、返事はなかった。式神は喋れないのだろうか? そういえば、登場してから10分ほどのこの間、彼女の声を一言も聞いていない。


 と、思った瞬間。


「ええええええっ!?」


 私は思いもよらぬ展開に思わず声をあげた。


 式紙の美少女は、相変わらず無表情のまま、こちらに抱きついてきた。着物越しの白く細い腕が、寝間着姿の私の首筋に巻き付いている。


 視界の中では完全に私たちは密着しているのだが、生きている人間らしい体温や体臭は全く感じられず、頭が激しく困惑している。


 と、同時に。


『おぉーーーーーーーん……』


 部屋の中に、知らない男性の声が響きわたった。


「え、な、何!?」


 恐怖で声をあげるが、式神さんは何も答えてくれないし、私を抱きしめる腕も解いてくれない。しかも、触れられている感覚はないのに、何故か身動きが取れない。ゆるい金縛りに遭っているかのようだ。


『おぉーーーーーーーーーーん……』


 もう一度聞こえてきた気味の悪い声が、自分の背後から発されていることに気付いた。というか多分、式神さんが手にしている私のスマホだ。さっき何らかの操作してたのは、私のスマホで音声ファイルを再生しようと準備していたのかもしれない。


「あの、これ、何なんですか、不気味なんですけど……」


 答えがないのはわかっているのだが、ただ黙っているのも恐怖なので、私は声を出して聞いてみた。予想通り、ひとつの返事もない。


 そして謎の音声は追い打ちをかけてきた。


『ノウマクサンマンダ バサラダンカン……』

「お経!?」


 美声で、節があるのだが、しかし歌というには淡々とした調子の音声が始まった。お経に似ているが、本当にお経なのかどうかもよくわからない。私は今まで仏事に興味がなくて、お通夜や法事でも真面目にお経を聞いてこなかった。


 私を抱きしめる白い着物の美少女(体温・体臭なし)、スマホで再生されているお経っぽい謎の音声、そして、エキゾチックなラベンダーのお香の香り、というわけのわからない組み合わせで、久々に帰った実家の寝室は満たされていた。


「え、これ、いつまで続くの?」


 真剣に答えが欲しいのに、その問いかけがむなしく響いて、消えていく。


 何の言語なのかもよくわからない不思議な呪文は、途切れる気配がみえない。もしかしたら無限ループに入っているのかもしれないが、言葉が聞き取れないとどこが切れ目なのか聞き分けることもできない。


 一体どれぐらいの時間が経ったのだろう。部屋のデスクの上に置いていた目覚まし時計は、私が実家を離れていた間に電池が切れていたようで、明らかに今そんな時間じゃないだろ、という位置で針が止まっている。


 安倍さんは、今夜一晩をやり過ごせば、危機は去る、みたいなことを言っていた気がするが……。


「ちょっと待って……朝が来るまでこのままの状態で過ごせっていうこと?」


 もちろん誰も返事などしてくれない。


 不自然な体勢に耳のそばで鳴り続ける不穏な呪文、抱きついてくる人外、こんな状況で眠れもしないし――と思っていたが、ちょっと酒が入っていたこと、連日の超過勤務で蓄積していた心身の披露、そして充満する一般的に安眠効果があると言われるラベンダーの香りの相乗効果か、私はいつの間にかうとうとしていたらしかった。


「――はっ!?」


 思わず声を上げながら、私は意識を取り戻した。


 ベッドの上で横になったまま、重い頭を傾ける。すぐそばで、スマホの着信音が鳴っていた。通話ボタンを押し、スピーカーフォンに切り替える。


『おはようございます、山城課長代理。安倍です』

「おはようございます……私は一体……」


 こんな漫画のワンシーンみたいな台詞を口にする日が自分に来るとは思いもしなかった。痛む頭を押さえながら、窓の方に視線をやる。カーテンの向こうから太陽の光が差している。


『身固をし、真言を唱えたことで、昨夜は山城課長代理に係る災いを防ぐことができました』

「みがため……」

『私が直接伺うのが一番確実ではありましたが、深夜に女性の寝室へ伺うのも憚りがありましたので、こちらがお送りした式神が代行いたしました』

「えーっと」


 動きの鈍い頭でその言葉を咀嚼しながら、ふと足下を見ると、人型に切られた白い神が落ちていた。


「なんか切り絵みたいのが落ちてるんですけど」

『式神の依り代よりしろだったものですね。私の霊力が尽きて形を保つことができなくなったのでしょう。そちらで捨てていただいて結構ですよ」

「これを普通に燃えるゴミに出すの、それはそれでちょっと怖いんですけど!?」

『ただの紙ですので畏れるようなことはありませんが、ご心配でしたら休日明けに受け取ります』

「お願いしますよ!」


 よくわかんないけどこの白い紙がついさっきまでのあの美少女のコア的な存在だったってことだとしたら、自分で捨てるのは怖すぎる。私は人形とかぬいぐるみみたいなちょっと生き物の形を模したものを捨てるのすら心が咎めるタイプの人間なのだ。


『それでは、今後は安心してお過ごし下さい。夏期休暇明けにまた会社でお会いしましょう』

「えっ、あっ」


 素っ気なく言うと、安倍さんは唐突に電話を切った。


「一体、なんだったんだ……」


 目の前には、見慣れた実家の私室の風景がただ、ある。あの美少女の唐突な訪問なんて、全部、夢だったんじゃないかと思えるぐらいだ。


 ただ、手元にある白い紙と、燃え尽きて全部灰になったお香が、やっぱりどうも夢じゃなかったようだ、と私に思わせた。



 ***



 墓参りだの親戚周りだので短い夏期休暇はあっという間に終わっていった。


 8月下旬の早朝は、うだるような暑さだ。


 いつものように社員用駐車場に、就業時間より早めにたどり着くと、ちょうど六条さんと遭遇した。


「おはようございます、六条さん。今日は早いんですね」


 設備・システム課もなかなかに多忙な部署だとは聞いているが、六条さんとは今まで朝の早い時間に遭遇したことはなかったので、珍しいな、と思って声をかけた。


 いつもクールな雰囲気で、ちょっとだけ顔色も悪いイメージの彼女だったが、なんだか今朝は少しはつらつとしたオーラを発しているような気がする。気のせいかな? と思ったら、にこり、と笑いかけられた。


「おはようございます。なんだかこのお盆休み中に、早起きできる体質になっちゃって」

「えー! 良いですね。私、朝弱くて、毎日起きるのつらいんですよ。何かきっかけがあったんですか?」


 他愛もない会話をしながら、私たちは一緒に社屋の玄関へ向かって並んで歩き出す。


「いえ、特に何かしたわけじゃないんですけどね……。なんだかお休みに入ってから急に、夜、よく眠れるようになって……」


 そのとき、夏の朝特有の、少しだけ湿り気を帯びた風が一筋、吹いた。六条さんの艶やかな黒い髪を靡かせる。


 それと同時に私の鼻腔をくすぐったのは、あの夜、一晩中、私の部屋を満たしていた、ラベンダーの香りだった。

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