第27話

「えーっと、天神メディック向けのスケジュールだよね」


 菅原さんが、A3の用紙にカラー印刷された超複雑で文字が細かいスケジュール表を、会議室のデスクの上に広げた。


 部長がいつも、字が細かすぎると悪態をつきながら老眼鏡とルーペで確認しているエクセル方眼紙は、天神メディック側で作っているものだ。情報量の過多なデータに更にマクロなどの機能まで合わさったマイクロソフト・エクセル上級者向けのファイルには、多くの社員たちが辟易している。


 ――そう思うと菅原さん、もうすぐ定年を迎えるっていうのにこのエクセルをちゃんと使いこなしてるの、なかなかすごい適応力だな。


 極小のセルに一日ずつの単位で原料の入荷から製造、検査、出荷までの細かいスケジュールが指定されている。ちょっとだけ、うちは別に、おたくの子会社じゃないんですけど、と思わなくもない。


「それで、どんな問題が発生したのでしょうか?」


 スケジュール表を囲んで菅原さん、安倍さん、私の3人で囲んで、座った。


 安倍さんが淡々とした口調で私に話を振ってくる。


 まあ、陰陽道で解決できるかはともかくとして、どうせ部長を始めとした関係各所に知らせなければいけないことなので、今全部説明してしまってもいいのかもしれない。


「分析系のトラブルです。この製品、HPLC高速液体クロマトフィーという分析機器を使って、定量……つまり、錠剤の中に、有効成分が意図しただけの量が仕込まれているかを分析しなければいけないんですけど、その液クロという機械が一昨日からずっと異常な挙動をしていて、分析が開始できないんです」


 安倍さんは無表情で私の話を聞いている。前に製造機器のトラブルに関わったときも詳細に説明せずとも対処していたし、医薬品の製造に関連することには知識や経験が豊富なのかもしれない。


 一方の菅原さんは、小さく頷きながら、ちょっと考える仕草をした。


「ええっと、確か、天神さんの製品を分析する液クロは、特殊な装置なんだよね」

「特殊な装置というか……マイナーなメーカーの機械なんですよね」


 HPLCは、ほとんどの医薬品の分析に使用される、品質管理に必須の装置だ。平安製薬(株)品質管理課では計8台のHPLCを所有しているが、そのうち7台はこの業界の分析屋なら誰でも知っているような大手メーカーの製品で、残りの1台だけがそれとは別のメーカーから購入したものだった。


 伝え聞いた話では、天神メディックからの仕事を受託する際に、先方の品質管理部が使っているのと同じメーカーの機械を使うことにして、わざわざ購入した、らしい。


 確かに、試験方法を引き継ぐ時にお互い同じ機械を使っていれば、説明も受けやすいし機械の違いによる試験値の誤差も小さくなる可能性が高いから、楽ではある。


 だが、ラボの中に一台だけ違う機械が混じっていることによる弊害もあった。


「……だから今、品質管理課の中でこの製品の分析ができる作業者が一人しかいないんです」


 すべての分析作業者は、品質管理課に配属されたらまず、7台ある方のHPLCが操作できるように教育訓練OJTを受ける。これが操作できるようになれば、ほとんどの仕事ができるようになるからだ。


 そしてその後十分な経験を積み技術と実力をつけた社員に、天神メディック製品の分析方法と品質管理課内唯一のHPLCの操作方法を教育し、業務担当に指名する。


 過去、数人の社員が天神製品の担当となり、しばらくすると会社を辞めていき、今は部内で2番目に古株の中堅女性社員しか扱えない業務になってしまっている。


「今は城山さんが担当だっけ」

「ええ、そうです」


 菅原さんの言葉に私は頷いた。さすが、社歴が長いので、他部署の事情や従業員にも精通しているようだ。


「その機械のメーカーの人を呼ぶわけにはいかないの?」

「最終的にはそうするしかないんですけど、あの会社の技術担当者、いつもレスポンスが遅いんですよね」


 先方が他のメーカーよりやや規模の小さい会社だというのもあるが、なにより平安製薬(株)が小さい会社で、相手からしても優先順位の高い客ではない、というのも大きいのだと思う。


 これまでは大手の会社にいたから、分析機器のメーカーのサービスマンが何かにつけて迅速で丁寧な対応をしていてくれるのに慣れすぎていて、今の会社に来てから、取引先からの態度に驚くことが多い。


「具体的にはどのような問題が起きているのでしょう。部品の故障で正常に作動しない、などでしょうか?」


 尋ねてくる安倍さんに、なんと説明したものか少し、考えあぐねる。専門外の人に、何をどこから説明すれば良いんだろう。


 まあ良いや、思いつくままに説明して、わからないことは質問してもらおう。


「えーっと、ハードの方に異常というか、エラーがでているわけではないんです。立ち上げは上手くいって、移動相の送液も問題はなくて……サンプルのテスト注入をしたところ、出るはずのない波形が出現して――ええと、ゴーストピークって、我々は呼ぶんですけど」

「ゴースト……え、何、幽霊が出るの?」


 きょとんとした顔で菅原さんが言う。その隣で、無表情だった安倍さんの目が、きらりと光った。気がした。


「あ、あの、そういう、ミームっていうか、用語です。陰陽道的なやつじゃないと思います。多分」

「陰陽道? ああ、そういえば安倍さんの配属された課、そんな名前になってたね」

「陰陽道に関係ないとは、まだ決めつけられませんよね」

「いや、これは、あくまで科学と工学的な問題というか……」


 咳払いをすると同時に、菅原さんがおっとりした口調で本題に戻る。


「つまり、分析を始める前におかしなことが起こって、仕事が進まないってことだね。原因究明と解決に時間が係りそうだから、出荷までのスケジュールを確認したい、と」

「はい、そういうことです」

「一応、試験は今週末に上げてもある予定で組んであるけど、変更管理とかの出荷前QA処理もないから、3、4日は更に時間は取れると思うよ。断言はできないけど今回のは長期予測に基づく発注で、現時点で天神さんの方の在庫がカツカツってわけでもないらしいから、最悪の場合でも多少融通は利くんじゃないかな」

「ありがとうございます……とりあえずその情報も含めて部長に一旦報告してきます」


 私は平安製薬(株)の社員としても、品質管理課の責任者としてもまだまだ新米なので、小さなトラブルでも逐一、直属の上司である品質部門長の小野部長へ報告している。


 これまで勤めていた大きめの会社では、だいたい上層部の管理職、経営職は、品質管理に関わる部署の人でも分析技術の細かいことについては素人であることが多かったので、最初に些細なことでダメもとの相談してみたとき、小野部長が打てば響くように解決案を提案してくれたときは、なかなかびっくりしたものだ。


 とはいえ、お忙しい人なので、これまでの責任者たちはなんでもかんでも相談しにくるな、と怒られたり、かと思えば、自分たちで解決しようとした矢先になんですぐに報告・相談しないんだ、と怒られたりしていたようだが……。






「――で、なんで、こうなったんでしたっけ……?」


 私は分析機器室で、頭を抱えていた。


 隣では、本件の試験担当者である城山さんが制御用PCの前に困惑した顔で着席しており、その背後に安倍さんが当然のような表情で立っている。

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