第23話
人生で、泣きながら男に電話をしたのは、26歳のあの夜が最後だった。
「
初めて派遣で勤めた北関東の製薬企業は、元は地域密着型の中小企業だったのが、数年で急激に大企業へ成長した、いびつな内部事情を抱えた会社だった。
それをいびつだと感じたのは後から社会人経験を更に重ねてからで、当時の私は何もわからず振り回されてばかりだったわけだけれど。
あの女性マネージャーは、そういえば当時36歳。今の私と同い年か、と気付き、思わず苦い笑いがこぼれる。
その日まで、彼女のことを心から尊敬していた。技術も知識も一流で、部下たちへが気配りが上手く、年輩の男性ばかりな経営者層からは信頼を勝ち得ている。若い頃からイメージしていた「出来るキャリアウーマン」像そのものだった。
その彼女から、期待している、正社員を目指して欲しい、と言われたとき、本当に嬉しかったのだ。
だからこそ、その後、普段なら出席しない忘年会でその会社の常務に引き合わされ、挙げ句「機嫌を損ねないように、ね」と耳打ちされたとき、まだ若かったあのときの私は、すごく傷ついた。
「偉い人」に強気に出る勇気も、その女性マネージャーの立場を危うくする勇気も出せず、結局、女性の多い部署の飲み会に急に乱入してきた経営職の男たちのご機嫌取りをして、そのまま二次会に行くことも断れず、小さなスナックで気分が良くなったおっさんたちに身体まで触られて。
あのとき、あの女性マネージャーは、どんな気持ちでいたんだろう。
「常務、香子ちゃんのこと、気に入ってくれたようだから。絶対、次の人事の時に正規雇用の推薦、承認してもらえる。頑張ったね」
新卒で就職ができなかった女は、こんな思いをして仕事を手に入れなくちゃいけないのだろうか。見てもらえるのは、大学で修めた学問とか研究の経験とか、2年間この会社で働いてきた実績とかじゃなくて。飲み会に参加して仕事と直接関わりのないおじさんの機嫌を損ねずにやりたい放題やられる都合の良さだけ?
自分自身にあったと思っていた価値が、すべて、世界から否定された気分になった。
ようやっとタクシーで帰ってきた、当時一人で住んでいた賃貸アパートの隅で、私はひとしきり泣いて泣いて、泣いた後、学生時代からつきあっていた当時の恋人に、電話をかけたのだった。
真夜中の電話だったのに、嫌がらずに電話に出て、話を聞いてくれて、私の言葉にうん、うん、と優しく相づちを何度も打ってくれた。
そして、しばらくの沈黙の後、少しだけ緊張した様子で、こう、切り出した。
「香子。俺たち、結婚しよっか」
私は、当時まだ二つ折りの形が主流だったガラパゴスケータイを耳に当てたまま、固まった。
この話の流れで、そんな言葉が出る理由が、本気でわからなかった。
「………なんで?」
散々沈黙した後、かろうじて、そう聞き返す。電話の相手が、この問いかけに激しく動揺した姿が、なんとなく想像できた。
「えっ、だって……そんな会社、香子はもう居たくないだろう。だったら、退社して俺んとこ、来ればいいじゃんか」
彼は自分の実家近くの首都圏に住んでいて、その当時、私たちはプチ・遠距離状態だった。
なんでだろう。すべてがもやもやした。男性優位の会社で理不尽な目に遭った女性に、恋人がその問題を解決する方法として提示するのが、結婚を口実に仕事を辞めさせて、相手には縁もゆかりもない自分の地元へ引っ越しさせる、という道なのか。
「………ありえないよ。ごめん」
私は電話を切って、切ってしまってからなんだか怒りが湧いてきて、折り畳んだ携帯電話をカーペットの上に叩きつけた。どごん、と鈍い音がして、やべ、下の階の人、起きたかな、という気持ちと、何の罪もないのに八つ当たりされた携帯電話がかわいそうになって、拾い上げて右手で撫でた。
それ以降、私は、社内恋愛どころか、男性と深い関係になったことがない。
「あー! もう!」
私は湯船のお湯をバシャバシャと音を立てながらかき回して、それから、両手で顔を覆った。
久々に職場の飲み会に参加し、それに絡んだ他人の恋愛話を耳にしたせいだろうか。
最近ではあまり思い出さないようになっていた、ずいぶん昔の苦い思い出が勝手に頭の中に浮かんで、暗い気分になる。
もう10年も経って、あの当時みたいに思い出す度に泣きたい気持ちになるほどではなくなったけど、未だに完全克服は出来てないようだ。
風呂から上がってリビングに向かうと、父と母がテレビドラマを見ている。
ソファーに座っていた母がこちらを振り向いた。
「ああ、上がったの」
「うん。お風呂、わざわざ沸かしてくれてありがとう」
「全く、連絡もなしに夜にいきなり帰ってきたと思ったら、飲み会の帰りに鳥の糞が頭についたからシャワー使わせてくれって、ねえ」
呆れたように母が言う。私は苦笑いしながら、しっかり洗い流して綺麗になった――綺麗になったはず……はずだ!――髪の毛をタオルでふき取りながら、二人の隣のソファーに座った。
「いやあ、だって、あの糞、見たでしょ……。一刻も早く落としたかったから……」
あの後、安倍さんから、私が普段寝起きしているアパートと実家のおおよその場所を聞き出された私は、すぐに実家の方へ帰るように勧められたのだった。
よくわからない、方角に関係するらしい理由の説明はともかくとして、よく考えるとアパートに戻るより実家の方が近かったので、久々の帰省となったのだった。
白い爆弾を頭に受けた娘の姿に、アポなしで突然帰ってきたことへの文句を言い掛けていた母は急に同情的になり、お風呂まで沸かしてくれた。普段なら、この真夏の時期は湯船にお湯は張らず、シャワーで済ますのに。
「あれはひどかったわねえ。あんな、マンガみたいに、鳥の糞が頭に直撃することってあるのねえ!」
「うん……確かに……不吉だよね……これ以上の不吉って、何か起こるのかな……」
「ん?」
「あ、ああ! いや、なんでもない」
そのとき、リビングのテーブルに起きっぱなしにしていたスマホの着信音が鳴った。
「鳴っとるぞ」
父が短く指摘した。
「あ、うん――」
「男の名前やな」
「ええっ!? まさかあんた、ついに彼氏が――んなわけないか」
着信画面に出た名前の性別を父が気にしたのも意外だったが、母の反応には思わず苦笑いしてしまう。
両親とも、私が結婚をすることに、特に期待していない。ドラマなんかで地方出身のヒロインが実家から結婚を急かされるような、ああいう展開は、我が家では一度たりとも発生しなかった。
妹の方がかなり前に既に結婚してしまっているのも一つの要因ではあったろうが、両親が最初から、世間体や常識より、娘の気持ちを大事にしてくれている、というのが大きい。その点に関しては、私は両親に深く感謝している。
「あー、職場の同僚からみたい、ちょっと部屋で話してくるわ」
私はそう言うとテーブルからスマホを拾い、会話ボタンを押しながら、二階の自分の部屋へ小走りに駆け上がる。
「もしもし、山城です」
『安倍です。無事にご実家へは到着しましたか』
「あ、はい。カラスの糞もシャンプーで洗い落とせましたし……」
『では、お部屋に入れて下さいませんか?』
「は?」
意味不明な言葉に戸惑うと同時に、自分の部屋の扉を開け、電気をつけ、そして、
「ぎぇああっ!?」
思わず悲鳴を上げた。
カーテンを閉め忘れていた部屋の窓の外に、人影があった。
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