第2話

 東京の理系大学を卒業して十年以上が過ぎた。


 修士号まで取っても氷河期の就職活動は厳しく、派遣で理化学分析の仕事を転々とする生活に疲れたのが三十歳を過ぎた頃。


 一人娘が地元に戻るのを望んでいた母から、小さな医薬品工場で正規雇用の求人があると連絡があり、気の迷いで応募してしまったのが、平安製薬(株)だった。


 生まれて初めてのボーナスをもらった時は確かに嬉しかったし、初めて昇進辞令の時は多少の使命感に駆られもした。が……実態としては、人材不足の中小企業で名ばかり管理職を押しつけられている、という状態だ。


 多忙に次ぐ多忙で車で40分の実家すら遠く感じるようになり、2ヶ月前から安いアパートを借りて一人暮らしを始めたところだ。まさに寝るためだけの小さな部屋は、日に日にゴミと汚れが積み重なっていき、自分の心を反映しているようで、帰ってくる度にうんざりしてしまう。


 自分は一体、こんな生活をいつまで続けるつもりなのだろう……と思いながらも、将来のことを考えるには日々の生活が忙しすぎる。




 翌朝は快晴だった。7月の午前7時はすでに明るくまぶしい。もう少しすれば蝉が一斉に鳴き出すだろう。


 平安製薬(株)のある工業団地には様々な業種の中小企業がひしめき合っている。ほとんどの会社はまだ始業していないが、もうすでにトラックが出入りしている会社もあった。


 我が社の職員用駐車場はがらがらだった。数台ある車は早番の現場作業員のものだろう。


 静かだ。


 愛車を停め、フロントガラスにサンシェードをかける。日中に車の中が暑くならないように遮光するためのもので、日がすっかり落ちた深夜に車に乗り込んでいる私には本当は必要がないのだが、もしかしたら今日こそは定時で帰るかもしれない、という希望を込めて毎日着けているのだった。


 会社前の道路には誰もいないかと思ったが、玄関の前になにやら、しゃがみ込んで作業をしている人影が見えた。敷地の整備などは総務部所属の再雇用のおじさんたちが主に担当しているが、彼らとは違う、若そうな男性だ。誰だ?


「……おはようございます……?」


 おそるおそる、少し離れた場所から声をかけると、その男性はゆったりとした動作で立ち上がった。


「おはようございます、山城課長代理」

「あ……昨日の」


 作業着に軍手をして作業をしていたのは、昨夜あの暗闇で遭遇した怪しげな新入社員、安倍さんだった。無表情にこちらをじっと見つめてくる姿は隙がない。


「品質管理課の始業時間より一時間以上早いですが」

「ああ、ちょっと仕事が溜まってて……そちらこそ、こんな時間から何されてるんですか」


 尋ねると、安倍さんは自分の足下に視線を向けた。つられて私もそちらに目をやる。道路の側溝だった。


「こちらのグレーチングが歪んで浮いていたので、直していたところです。特に日没後、足下が暗くなると、退社する社員が躓いてしまう危険がありますので」


 淡々と説明すると、安倍さんは私に背を向けて作業を再開した。確かに、グレーチングの端が歪んでいた。小さなものだが、足がひっかかることはあるかもしれない。安倍さんはそれをひょいと持ち上げて外した。


 そのとき急に、昨日、安倍さんと初めて会ったときのことを思い出した。


 もうすぐ夏至で、日が沈むのが遅いから、よほど遅くまで残業しなければ、足下が暗くなることを心配する必要はないのだ。


「あの……もしかして昨夜、鬼門? とか言って、私に正面玄関から出ないように言ったの、もしかして、そのグレーチングのせいですか。あの真っ暗な中、この道路を歩いたら危ないから」


 安倍さんがまた作業を中断し、立ち上がって私の方を見つめる。あくまで無表情で、すごく取っつきにくい顔をしている。


「鬼門とは違います。鬼門というのは北東の方角のことで、悪鬼のいる場所として常に忌み、避けるものです。昨夜「凶方」と申したのは、その方位に歳破神が一時的に滞在していたためです。方位神は常に一定の居場所にいるわけではないので、「吉方」「凶方」は日時によって変化します」

「えっ えっ」

「吉凶は方位だけではなく日時も関わってきます。凶とされた時間帯は社会的な活動を慎まねばなりません。山城課長代理、昨日は随分と長い間残業をされていたようですが、本日は定時に上がれそうでしょうか?」

「えっ えっ 何の話ですか?」


 なんで急に陰陽師の講義が始まったんだ。話の半分も理解できなかった。やっぱりこの人、やばい人なのでは?


「ざ、残業ですか? いや、私も別に好きで残業してるわけじゃなくて、毎日早く帰りたいとは思ってるんですけど……」

「それでは」


 安倍さんのこちらを見る目力が心なしかパワーアップした気がした。


「本日は、確実に、山城課長代理を含めた品質管理課の全社員を定時退社させられますね?」

「い、いや、そう言われても、手を着けた作業が長引いちゃったり、急な試験依頼が入ることもあるから、断言するのはちょっと……」

「本日17時以降は、物忌みです。くれぐれも、部下の方々に、定時以降は一切の労働作業を止め、速やかに退社するよう、通達をよろしくお願いいたします」

「いやいやいや」


 残業代出せないので定時で帰れとか、労基に目を付けられたからしばらく残業するな、とか、会社都合で残業禁止令が出されたことはこれまでにもあったけど、こんなオカルト的な理由で「さっさと帰れ」とか言えるわけない。


 戸惑う私を安倍さんは完全に無視して、新しいグレーチングをはめ込み、古い歪んだグレーチングをひょいと持ち上げた。重いだろうに、軽々と持ち上げているところを見ると、細身な外見に反して、案外鍛えているのかもしれない。


 そういえばあれ、会社の人間が勝手に交換しても良いんだろうか。いや、そんなこと突っ込んでこれ以上この人と会話を続けたくない。


 そろりと、彼の脇を通り抜けて会社に入ろうとしたところで、安倍さんが「そうだ」と声を漏らした。


「自宅に仕事を持ち帰ることも禁忌です。本日は17時以降に当社に関わる労働を一切避けてください」


 それだけ言うと、すたすたと安倍さんは歩み去っていく。


 遠ざかる後ろ姿を私は呆然と見送った。


「えぇー……」

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