第3話

 つい7時間前と変わらぬ姿の無人の事務室に鍵を開けて入る。書類の山だらけだ。定時に帰るなんて無理すぎる。


「はあ……」


 思わずため息をつくと同時に、遠くから、ピーピーピー、という機械音が響いてきた。ドア一枚隔てた、分析機器室からだ。


 高速液体クロマトグラフィー、ガスクロマトグラフィー、紫外吸光光度計、溶出試験器など、理化学試験機器が集められた小さな部屋は、昼夜問わず一日中機械が運転中で、モーター音がうるさい。


 エラー音が鳴っていた機械を見つけて、停止ボタンを押す。運転中に移動相がなくなったらしい。機器使用記録を開き、去年入社したばかりの若手社員が担当であることを確認した。


 いつもならここで、分析機器を制御しているパソコンにアクセスして、エラーが出て分析が中断される前にどこまでデータが取得できていたのか、取得済みのデータがそのまま試験結果として使えるか、やり直しの場合はプロトコールをどうするかまで判断して、事細かに指示してしまっていた。


 癖でパソコンのマウスに触りそうになったとき、ふいに安倍さんのさっきの言葉が頭をよぎった。


「本日17時以降は、物忌みです。確実に退社してください」


 私だって、本当は定時で退社したいんですよ。


 そうは言ったけど、私はいつも、こういう細かいことで、時間を浪費していないだろうか。


「うーん。放っておこう」


 メモ用紙に「LC04、移動相枯れでエラーでていました、7:15」と書き付けて担当者のデスクに置くと、事務室に戻る。


 ベテラン女性社員の橘主任がちょうど出社してきたところだった。


 今年で50歳になるらしい橘さんは、いつも始業時刻よりかなり前に出社している。


「おはようございます」

「おはようございます」


 挨拶はするのだが、元々口数が少ないのか、人見知りなのか、特に同じ部屋に二人でいても業務に関連しないような雑談のような会話が弾むことはなく、私はいつも気まずい思いをしている。


「あの……橘主任」

「はい」


 こちらを振り返る橘さんの生真面目さ100%の顔を見たら、この話をしようとしたことを途端に後悔したが、切り替える別の話題も持っていないので、しょうがない。


「えっと……今日って、定時に帰れそうです?」

「そのつもりですけど、何かありました?」

「あ、いえ……その……」


 小柄で少し童顔な橘さんが首を小さく傾げると、少しかわいらしく見える。


「今朝、星占いで、残業しない方が良いってってテレビで言ってたので……」

「は?」

「あの、いえ、なんでもないです」

「はあ……そうですか」


 ……死にたくなってきた。


***


 どの業種でも、会議というのはタイム・パフォーマンスの敵だと思うのだが、弊社でも無論、そうである。


 朝一から生産計画会議が入っている時点で、ノー・残業への道は遠いのだが、こればかりは避けられない。


 課内朝礼を終えて慌てて入った会議室は、すでにほとんどのメンツがそろっていた。作業服やスーツを着た十名ほどの社員はすべて男性だ。どことなく気だるげな雰囲気が漂っている。手前の空いている席に滑り込むように着席すると、生産統括部の藤原さんが話しかけてきた。


「山城ちゃん、おつかれーっす」


 軽いノリのこの男性社員は、私と同じ36歳である。


 そちらには目をやらずに、持ってきたノートパソコンを開いて無線LANに繋いだ。


「お疲れさまです。てか藤原さん、さっき気づいたんですけど、来週からの生産スケジュール、かなり変更してますよね。そういうとき直接こっちにも連絡くれって言ってるじゃないですか。試験の準備とかあるんですよ」

「やー、ごめんごめん、うちもさっき急に総務から連絡来て、慌てて変更したもんでさ」

「総務から?」

「うん、なんか急に、来週は第二製剤棟のV型混合機使うなって言われてさ。困っちゃったよ」

「なんで総務?」


 製造担当からシフトの都合で、とか、倉庫担当から在庫調整で、とか、営業担当から急な発注が入ったから、とか、そういう理由でスケジュールが変更されることは多々あるが、総務が製造機器の使用予定に口を挟むなんて、理由が考えられない。


 不可解に思って聞き返したと同時に、会議室の扉が開いた。


「えっ 社長?」


 佐伯生産本部長が小さく呟き、部屋中の社員が反射的にそちらに目をやった。


 えびす顔の小柄で小太りの中年男性が、ゆったりとした足取りで部屋に入ってくる。


 それを認めるや否や、全員が慌てて立ち上がった。


「あー、大丈夫。座って座って」


 朗らかで優しげな声でそう言うと、一条社長は会議室にいる一人一人の社員の顔を見回した。


 こういう言動や仕草だけを見ると、悪い人ではないんだよな、と思うんだけれども。


 と思いながら、ふと、社長の背後に目をやって、あっ、と声を上げそうになるのを、私はなんとか堪えた。


「もう時間だよね、会議を始めて」


 社長がそう言うと、その後ろに着いてきていた安倍さんが、まるで社長秘書かのような自然な呼吸で、会議室の扉を閉めた。


 なんで、社長と、総務部の中途新入社員が、この生産スケジュールの会議に?

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