挑戦

「あ~、緊張する」

 そして気合いを入れた三日は直ぐに過ぎ去り、奏は仮初めの本番を迎えた。高鳴る鼓動、乾く口、眠いのか冴えているのか分からない頭がもどかしい。

 七月の終わりの週、朝の日差しが香る教室。さざめきはいつも通りの物だが、いつもと違う甘い緊張が支配していた。

「どうしよう、奏。テストが始まる前に単語が全部抜ける」

 夏休み前テストである。夏休み前テストは午前中にテスト、昼休みを挟んで午後に返却、解説がある。

 真面目な生徒は受験生として長期休暇前の節目のテストとして、そして不真面目な生徒は結果如何で夏休みが補習で潰れると言う事で、其々気合いを入れていた。

「うるさいよ、京成。席に戻れ」

「ちぇ~。連れないの」

 そんな中、京成は誰彼構わず話し掛け、奏は机に突っ伏していた。

「~~♪」

「余裕だな」

 そんな奏を傍目に奏のお師匠さんは慣れた物。鼻歌を歌いながら、ノートを眺めていた

「ええ。余裕ですもの」

「……」

「何?」

 双樹は黙ってしまった奏に、顔も向けずに尋ねた。

 ただ、かっこいいな嫉妬しただけで、奏も何?と聞かれれば答えようがなかった。

「……別に。お互い頑張ろう」

「本当、奏くんは駄目なままね」

「……うるさいな」

 奏の子供っぽい反応に呆れ、双樹は嫌味を言った。

「『It`s a fine day』貴方に贈るわ。頑張って」

 そして話はお終いとばかりに鼻歌を再開した。

 それは遠い昔に聞いた何かのCMソング。双樹が泣くのを我慢する時に歌っていた歌だ。全く変わっていない双樹の無意識の部分に触れ、奏は固めてきた決意で腹に力を入れる。

『どの教科でも良いから双樹に勝つ』

 それが奏の秘かなる野望だった。教え子としてではなく、肩を並べて未来を見れる様に。

「『死ぬには良い日だ』か。良いぜ、皮肉が効いてる。全部出し切ってやるよ」

 丁度その時にチャイムが鳴った。それが奏の短いけれども大切な一日の始まりだった。


 ……そして終わりだった。古来、最も人を滅ぼし、殺して来たのは何だっただろう?それは『約束』である。人の世に於いて最も不明瞭で、しかし欠かす事の出来ない『信頼』。それを託す形を約束と言う。

 憲法とか法律とか出すまでも泣く、それらの細かな約束が折り重なって人の世を作り出している。時に力と成り、憂慮となり、配慮と成り、慈悲と成り、暴力と成り、鎖と成り、鎌と成る。奏はその約束によって、潰れそうになっていた。

「ああ……」

 テストの返却も済み、既にクラスのほぼ全員が帰った教室。二人しか残っていない夕方近くで、奏は全く動く気力というものを失っていた。

 つまりは『夏休み前テストで結果を出す』という約束は、手許の結果では果たせているとは言えそうにないのである。

「……どうしよう……」

 テスト中から然したる手応えを感じられなかった奏がテスト結果を確認するのにはかなり時間が掛った。そして、その後に声を出すのにはもっと。

 その呟きは絞り出したように悲痛で、誰に向けた物でもなかった。だから結果を聞いてあげるのは酷と言う物。

「で?どうだったの?」

 けれども双樹は容赦がなく、やっと動き出した奏の息の根を即座に止めに掛かる。

「そんなに聞く気のない声なんだから、双樹は言わなくても分かっているだろ?」

「分かっていても、聞いてあげるのが優しさでしょう」

 頬杖を突いてムスッとしている奏に、双樹は笑わないで冗談を言った。

「雄弁は銀だぜ?双樹が優しいなんて初めて知ったけど、聞かない優しさも覚えよう」

「難しい言葉を知っているのね。でも昔は銀の方が価値が在ったのよ。それに『姉さん女房は鉄下駄を履いてでも探せ』って言うでしょ。小さい男には口うるさいのが一番なの」

「小さくてすいませんね~…はぁ……」

 双樹と受験勉強を頑張る為、そしてライバルとして肩を並べる為に頑張ってみたのにこの結果だ。何となく生きる目的が一つ、すっと消えて行った気がした。

「でも、テスト1つにそれだけ落ち込めるのなら、勉強して来た成果はあるんじゃない?」

 しかし、ぽっかり空いた穴に入り込んで来るのは双樹の言葉。途端、奏は理解した。

(そうか……俺、落ち込んでいるんじゃなくて、悔しいんだ)

「双樹は…銀だなぁ……」

「何よ、それ?」

 ただ、立ち直った所で現実は変わっておらず、奏は落ち込み直した。

「でも…結果出ちゃった事だし……手遅れか……」

 自分で決めて、自分で歩いたのに、無様にこけたのが情けなかった。『双樹を守る』だなんて出来もしない事を心に決めた自分が嫌だった。

「まず間違い直しをしなさい。テストは、直しをして初めて次に繋がるんだから」

「次……ねぇ」

 そんな物があったらいいなと、奏は破滅的な気分で手元の答案用紙を眺めた。

 英語74、数学82、国語80である。因みに前回は英語82、数学84、国語76である。

 何と言うか、特に変わらずといった印象。これで講習に参考書、交通費に受験費用諸々を出してくれとは、胸を張って言い辛い。

「だってさ……もうちょっと取れると思ったんだよ」

 奏はパラパラと問題と間違いを照らし合わせながら、小さく呟く。

「何だよ…小さなミスばかり…スペルミスとかさ……もっと点取れると思ったんだよ」

「学校のテストなんて、想定した平均を取らすための物だもの。習った範囲では絶対に解けない問題だってあるし、そもそも文脈判断出来ない様な穴抜き問題だって有るのよ。ちゃんと作られてない物はちゃんとは解けないの。問題製作者の癖を見抜かないと」

「でも双樹は、もっと点数が良いだろ?」

「これは、私の実力です」

 双樹はワザとらしく胸を張った。

 そんな双樹の自信を単純にカッコいいと思ってしまい、逆に自分が惨めになる。

「くそ、やったのに…いや、出来た筈なのに!もうちょっと頑張ってればさ!」

 奏の声は段々と大きな物に成っていった。親に夏期講習に通わせて貰えないであろう事より、ただただ自分が情けなかった。

 何が足りなかったのか?何が出来なかったか?具様々に遠因を感じる。何で血を吐くまで頑張って上げられなかったのかと、歩めた筈の道に申し訳なかった。

「何なら私の答案を書き替えて奏くんのにする?」

「さらっと凄い事言うな!?」

 そんな奏の凄惨を見兼ねてか、双樹が提案をした。奏はそれを双樹の下手な慰めだと思った。しかし、顔を上げた先で出合った双樹の目は真剣其の物。

「私は本気だよ?」

「……双樹」

 奏はそれでふっと、大切な事を忘れていた事を思い出した。

(馬鹿か俺は…双樹を泣かさない為に選んだ道だろ?なのに心配されてどうすんだ?)

 奏は双樹に寄り添うと決めたのだ。ヒロイックに泣いている場合じゃない。

「そんな事したら、答案がどうなるか分からないぞ?俺の名前が書いてあるなら、それは俺の物だからな。双樹は文句は言えない」

「あら、やらし」

 双樹は自身をからかう感じに、奏の復調を感じたのだろう。不機嫌という無表情に戻す。

「……俺、駄目なのかな?」

「駄目じゃないわ。不真面目なのよ」

「不真面目って…あのな~、一応真面目に勉強して、真面目に解いたんだぞ?まぁ、自分でも言ってて情けないけど、不真面目と言う事はないと思う」

 双樹は何時の間にかパクッていた奏の答案を総評する。

「うん……真面目に取り組んだんだぜ?」

 そうだ。ちゃんと勉強した。それで点数が伸びないのだから、それこそ才能というやつなのではないか?

 若しくは、スタートが遅い自分は、そもそもトップ校を受ける様な人には追い付けないのではないだろうか?そんな風に感じてしまう。

「本当、自分がこの世で一番馬鹿、みたいな顔してるわね。一番舐めるんじゃないわよ」

「う……そこまでは思ってないよ」

「じゃあ、何処まで?」

「何処までって……」

 こうなって来ると双樹は容赦がない。誤魔化しを許さない双樹に踏み込まれ、奏は視線を泳がせた。

「大体三、四日勉強した位で、どうにかなると思う方がおかしいのよ」

 双樹は言って、奏の服の裾を掴んだ。きっと無意識だったと思う。

「お…おう?双樹?」

 双樹の目は真剣で、奏の決意を確かめるみたいで。

「それに覚えておいて、上を見たらいっぱい居るわ。下には上が居るの。でも下を見たらもっといっぱい居る。だから上も下も見ないで」

 そして、本気なのか冗談なのか良く分からない事を言う。

「奏くんは、私だけ見てたらいいのよ」

 その声は平坦で、心の場所の判別が付かなかった。

「双樹と…自分を見る……見直しをしろって事か?」

「斜め上の結論ね。ビックリだわ」

 奏が出合ったのは、三白眼で呆れる双樹の顔だった。理由は分からないが、双樹はちょっと怒っている様子。

「う……」。

「まぁいいわ。このテストを見て」

「結局見るのかよ!」

「私が見てって言ったら見なさいよ。良い?この問題を見て。間違えている以前に解いてないこの英作。『何か食べる物があれば、恵んで欲しいです』。解けない?」

 双樹が指差したのは奏が空白にした英作問題。

「いや、解けと言われても恵んで、とか分からなかったし」

「じゃあ、これ奏くんの教科書だけど、『You, give me a something to eat.』。これは?解けてるけど」

「『食い物くれ』だろ?そりゃ流石に分かる」

「ん。なら『食い物くれ』を英作すると?ついでに丁寧に」

「そりゃ同じだろ。『You~~』って、そうか」

 要するに出来ない筈はないのだ。なのに勉強したことを、ちゃんとテストに繋げる努力疎かにしていた。これでは確かに不真面目と言われても仕方がない。

「そうよ。奏くんは確かに勉強を頑張ってはいたけど、勉強方法の研鑽は頑張って来なかった。野球で言ったら素振りはするけど、正しい振り方や目安の回数なんて学ぶつもりもないと言う事よ。不真面目以外の何物でもない」

「その通りです……」

「本来ならそう言うのは自分で発見して欲しいんだけどね。楽にしっかり弁虚する方法は自分で気付くべき。でも仕方ないからスパルタに切り替える。兎に角受験勉強なんてトライ&エラーの暗記。在り来たりな言い方だけど、暗記に因る理解と統合よ」

「いえすまいろーど」

 奏はすっかり落ち込んでしまった。しかし道が見えた気がした。才能とか実力とか以前の不勉強と言う簡単な話なら、自分次第だと燃えたのだ。

 いや、勿論約束を守れずに今その道は閉ざされてしまったが、双樹とならとそれを抉じ開けられるのではないかと思ったのだ。だから、恥ずかしい気持ちを押さえこんで縋った。

「実はさ、双樹こういうのを頼「オーケーよ。任せなさい」

 一人では自信がないが、頭の良い双樹と一緒ならば、母親を説得出来るのではと思ったのだ。だから無理を承知で頼もうとしたのだが……。

「へ?」

「だからオーケーだって」

 無理どころか、双樹は話を聞く事なく了承してくれた。奏は驚いて目をパチクリとさせたが、けれども言いたい事位お見通しだと言わんばかりに、双樹は涼しい態度。

「『俺の親を説得してくれ』ってのならお断りだけど、今の顔は割と恰好良かった。と言うより多分おばさんもそのつもり。奏くんは頑張った。だから後は、私が頑張れって事なの」

 言って、双樹は任せろ、と奏の胸を叩いた。その顔はほんの少し青褪めて見えた。

「取り敢えず『塾は行かさない』っていう分かり易い挑発をされている訳だから、『受験だけはさせてくれる』って落とし所目指して頑張ってみるわ」

「…あれだな。双樹はあっさり黒い事言うな」

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