異変
懸命に生きる時、夏の暑さは増して行く。昨日より今日、今日より明日。深く、高く、季節は進む。
相対性理論の根本起源が人の心と恋愛感情で有る様に、ただ時は優しく。二人を叱咤し、激励し、応援してくれている様だった。
「昨日小テストあったんだ。英語」
淀みなく廻る季節と同じに……とまでは言えないが、奏達も成長して行く。毎日講習に通い、毎日違う授業を聞いた。劇的な向上はなかったが、増えていくのは楽しかった。
「どれ?」
しかし、この夏、奏にとって一番大事な時間が授業ではなかったのも事実だ。
それは片道二時間、往復にすると実に四時間のバス移動。毎日双樹と過ごす長い時間だった。
「これ。夜に直ししたから、なんか分析あったらお願い」
「これ?ふ~ん…悪いわね」
「うぐ…それでも点は上がっているだろ?」
「そう?これで満足なの?ならこれ以上点は上がらないわよ?」
「うぐ…でも、そんな二、三日で上がるもんじゃないだろ?」
「そうよ、二、三ヶ月掛けて上げるの。そして皆もそれで上がるのよ。スタートの遅い奏くんがちゃんと二、三ヶ月後に皆に追いつけている青写真はある?」
正直奏が助かっている所と言ったら、双樹が口達者である事だろう。もしこの口論で奏が勝っていたら、奏はもう少し勉強に身が入って居なかったかもしれない。
「……野望なら、ある」
「どこの魔王よ」
いつもの様に、きっちり正論で組み伏せられた。
「で、昨日はどんな所やったの?」
「おう。ここ」
双樹は話は終わったと、今度は奏にノートの掲示を求めた。しかし奏が取り出したのは、ノートのコピーであった。途端に双樹の眉がぴくりと上がる。
「何これ?」
「沙希にコピーして貰ったんだ。途中全然分からなくなってさ。自分でもノートに何書いてるのか分からなかった」
「そんな甘え方するから、授業聞かないんでしょ?写す位出来るでしょ!」
が~っと、まるで敵を見付けた猫の様に怒りを吐いた。
慣れとは恐ろしい物で、止せばいいのに奏も条件反射で反論する。そのせいでは始まるのは勉強の出来ない時間。
「写せなかったのは仕方ないだろ?白紙のノート持って帰っても仕方がないじゃないか」
「だから白紙にすんなって言ってるの!何か書いてあれば、私が解読するでしょうが」
「出来なかったらどうするんだよ。俺は嫌だね。双樹の読解力と理解力に小テストの運命を握られるなんて。自分の運命は他人には任せたくない!」
「だから現状、沙希ちゃんのノートに運命託してるでしょうが!」
先程『バス内では勉強している』と言ったが、撤回が必要かも知れない。大体は奏と双樹の犬も食わない喧嘩で時は過ぎる。
勉強会と言うよりは出来の悪いディベート会という感じだが、有用と言えば有用か。人生修養、人間修業だと思えば……まぁ?
「分かったよ!取れば良いんだろ!読めなくてもさ!」
「奏くんの書いた物程度、私が解読出来るわよ!」
他に人の居ない何とも殺風景なバスに、変わらぬ山の景色。夏休み前テストで大した成果を上げられなかった奏は、模試で結果を出すべく日夜頑張っていた。
勿論双樹がそこに協力を惜しむ事もなく、二人三脚と言うよりは少々奏が引き摺られる形で進んでいた。
「いや?俺の中では何となく答えが出てるんだよ…って感じ」
「俗に言う詰めが甘いって奴だから、それ」
そんな平和な朝の光景、随分と早い朝の山。
うっすらと掛かる朝靄も、目に奇麗な緑の木々も、遠い山々も、何もかもが良く出来た写真の様に美しく感じた。晴れ渡る空は、やがて朝靄を消すだろう。涼し気な木々は、朝の太陽に焼かれて深い影を作るだろう。鬱蒼とした山は、濃い緑の領域を更に延ばしていく筈だ。全ては一瞬一瞬で、流れ流れていく。
そんないつもの光景。いつもの日常。いつもの夏。でもそんな当たり前の物が、
ザ―
まぁ…
「……………………ん?」
「どうしたの、奏くん?」
ザザザザ――
……何時までも続く訳がなかった。
ザ――ザ――――
それはそうだ。二人は違えているのだから。二人の時間は止まったままなのだから。
―始まりがおかしいのだから、そこに続いていく物が普通ならば、それこそおかしい。
―始まりとは再会ではない。別れ、その一点。立てた誓い。
だから突如、爆雷の様な音が響いた。
ザアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア
「ぬおあ!?何だこの音!!」
「え!?な、何!!雨?爆発!?」
驚いた二人が周りを見渡すと、バスは瀑布の様な雨の中に居た。
「ちょっと!何よ!」
双樹は慌てて窓の外を見る。けれども爆散する雨は、濃密な霧の様に視界を隠し、一メートル先すら見えやしない。異様な雰囲気が山と、バスを覆い、天下は夜の様に暗い。
「どうなってるんだ?」
奏は急いで席から立ち、運転手の所に走った。しかし……
―だから君たちはやり直さなければならない。
―間違った誓いを捨て、あの一点から。
―祭りはまだ続いている。続いている以上、終わってはないのだ。
「う!?お前は」
奏の足は直ぐに止まる。目の前に、『あの時』のギョロリとした目が見開いたから。
通路に立っていたのは、双樹に再会した日に出会った女の子。女の子の持つ雰囲気は、冷たい雨みたいで、こっちの服が濡れた錯覚に陥ってしまう。
「奏くん?」
双樹は、奏の警戒を感じてバスの中に目を戻す。そして、はっと息を呑んだ。
「その子…まさか…」
「知ってる…のか?」
奏は顔を引き攣らせ、その目…着物を着た小さな女の子から目を逸らさずに聞く。
口の無い女の子はと言えば、沈黙のまま奏を見るばかり。
「雨小僧……?昔千鶴沢で見た事在る」
双樹の説明は驚くべき事で、同時に驚くに値しない。
「……成程な」
だって声が出ない程に、心を抜かれた。と、ここで初めて少女は口を開いた。
『夏啼き―』
どうにも双樹の声を安物のスピーカーで再生したみたいな声で、息をどう吸って、どう吐いたのかすら理解出来なかった。
「は?ナツナキ?何だそれ」
聞き慣れない言葉に首を捻る。奏がどう記憶を探ってみても覚えていない言葉だ。けれども少女は理解をしてないであろう奏を無視して先を続けた。
『夏啼きが来る。貴方達の勝手な振る舞いのせいで。祭りは終わらない。だから夏啼きは来る。鶴は暴れる。全部、貴方達のせい』
「は?何を言っているんだ?」
『だから、貴方達が夏啼きを止めて。貴方達にはそれだけの責任がある』
戸惑う層を置いてけぼりにして、少女は言いたいだけ言う。
「え?」
そして現れた時と同じ様に前触れもなく、霧雨の様にスっと消えたのだった。
「……どう言う事だ?」
奏は狐につままれた様な顔で辺りを見回す。
既に雨は止んでおり、破壊的な雨音も消えている。道路も木々も雨の跡など一切なく、先程の事が幻でしかないとでも言いたげに、晴天での装いを見せ付けていた。
「何だったんだよ一体…」
天は雲一つなく、山の葉は朝露に濡れる程度。道路もジリジリと微かな水分を吐き出しているばかり。
運転手さんがミラーで、通路で佇む奏を不思議そうに見ていた。
「……」
今のは何だったのか?奏には到底分らず、双樹すらも押し黙ってしまう。
夢幻か現か真か?訳の分からない感覚と、言い様のない不安を溜め込み、バスはただびしょ濡れの困惑を運ぶのだった。
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