沢隠し

 黴臭い所蔵庫の中、双樹は服の汚れも気にせず書籍を読み漁っていた。

 スカートが埃に塗れようが注意もくれず、汚れた床に座り、熱心にペンを動かす。

 双樹より背の高い書棚が並ぶここは、守上家の元書斎。書物庫か小さな図書館並みに充実したこの部屋は、この村に伝わる書物や、先祖代々趣味で集めていた書籍が所狭しと並んでいる。その一角に双樹はお目当ての本を見付け、がっさり取り出して色々調べている所であった。

「あの妙な雨……それに夏啼き、どう関連してくるのか、今一分からないわね」

 呟きながら読み漁り、手を動かす。床に置いたノートに書き込む姿はお行儀が悪い。

「あの子は最初の日、私を奏くんとの思い出の場所に連れて行ったわ…千沢町の方の鶴賀神社に。でもそれをするかしら?実際それをするのはあの子だし、初めての事なの?」

 大した集中力である。本とノートに目を落としたまま、全く顔を上げない。

「はぁ……驚くべき集中力だぜ」

 そのまま見ていても楽しそうだったが、残念ながら時間がないので奏は声を掛けた。

「なぁ、さっきから何をぶつぶつ言ってるんだよ?」

「うひゃあ!?」

 声を掛けられた双樹は本当に飛び上がった。完全に無防備だったらしい。

「なっなに!?雨娘!?」

 バタバタバタと書物を投げ出し、壁まで後退する。そして熱心に辺りを見回した後、

「な…なんだ奏くんか」

 声を掛けたのが奏だと分かり、胸を撫で下ろした。そして不機嫌に戻る。

「どうして奏くんが、ここに居るの?ここは私の家よ」

「アホか。誰も住んでない家はただの穴倉。それより何してたのさ?」

「ん?色々不思議な事が有ったし、それにその現象がおじいちゃんに聞いていたものと似てたからね。調べに来てたのよ」

「ああ、そうですか」

 その説明をバスの中でしてくれれば良かったのに、と奏はちょっと拗ねる。

「不思議な事って、あのバスで起こった妙な雨と、あの女の子の事?」

 奏はこっそり腹を括って質問した。平静は装っているが、実はまだ受け入れ難い。

 けれどもどこか心の奥で予想していた通り、双樹は日常の垣根を越えて行く。

「うん。それとあの子が言ってた『夏啼き』」

「そっか」

 何と言うか、双樹はそれを特に特別だと思っていない様子。それで諦めが付いた。不思議な事も全部現実なのだと、踏み切り線を乗り越える。

「奏くんって私がここに帰ってきてから最初に会った時、なんであの場所に居たの?」

 双樹の目は割かし真剣。

 なので、今度は誤魔化す事なく、事実そのままを伝えた。

「バスに現れた子が居るじゃん?あの日もあの子が居たんだよ。境内で蹲っていて、いきなり迷い茨の森に入って行ったんだ。それでその子を追って行ったら、双樹が居た」

「……小さな女の子を追いかけたの?」

 大丈夫かこいつ、と双樹の目は言っている気がした。

「ちっげ~よ、あの女の子泣いてたんだよ。それで森の中に飛び出していくから、慌てて追いかけたんだよ。あの森、マジで人死にがでる位深いだろ?」

 まぁ泣いていたのはあの子じゃなくて――だったが、この際細かい事はどうでもいい。

「私も同じ様な状況であの木の所に居たわ。十年前、都会に引っ越す前に奏くんと『また会おう』って約束したあの木の場所に」

 双樹が勘違いしている様なので、ちょっと困ったなと思ったが、奏は訂正出来なかった。

「あの女の子は、狐だったのか?」

 あの女の子が狐なのなら、不思議な事が起きた理由も分かる。けれど双樹は首を振った。

「あの子は『雨小僧』。まぁ女の子っぽかったから『雨娘』って所かな?」

「アメムスメ?何だそれ?雨女みたいな物か?」

「雨女と似た様な物だけど、奏くんが思っている雨女じゃないわ。単純に雨を降らす妖怪」

「妖怪?そんなの居るの?」

「居るわよ。日本のド田舎のここはまだ自然が生き、八百万の神も居る。何よりあの現象が起きた理由はそこにしか結べないし、証明定理としてはこの文献がある。取りあえずそんな所」

 双樹は床に散乱した本を示した。

 これ程書くべき事が有ったと言う事で受け入れるべきか。奏は手慰みに本を一冊拾ってパラパラと捲った。

「それは良いけど、なら『ナツナキ』ってなんだよ?」

「『夏啼き』ね。それは私も聞いた事があったの」

 双樹も一冊の本を拾い、それを奏にも見せる。

「ああ、これ物理の本じゃん」

 そこに描かれている絵と数式には覚えが有った。けれども、双樹は不思議そう。

「これ、物理の本じゃないわよ?」

「へ?嘘……あ、マジだ」

 本当か?と覗き見ると、物理の方程式や流体力学の図解何かが所狭しと書かれているが、その情報を普通の用途には使ってなかった。

「じゃあ、これ何の本?」

「ん?だから言ったでしょ。これがその『夏啼き』について書かれた本なのよ」

「これがぁ?」

「ええ。暴れ鶴の話はしたわね?」

「ああ。『沢隠し』の話だろ?」

 双樹と奏は座り、並んで本を覗き込む。

「そう。あの話の『鶴が鳴く』って言うのを夏啼きっていうの。鶴の鳴き声の様な甲高い声が沢中に響いたんだって。その方向がこの鶴賀神社な訳」

 双樹は本に書かれた図を示した。確かに図にはその様に書かれており、千鶴の西、千沢の方に鶴を誘導したと書かれていた。

「そういう現象は実際在ったの。ま、説明不能な事に理由をつけるのが神話だからね」

 双樹はペラペラとページを捲っていく。すると、様々な数式や図の書かれたページに出た。

 図は千沢の盆地に幾つもの矢印が書かれた物だった。読み解いて見ると、どうにも盆地の地形に煽られた風の強弱の関係で、突風や竜巻が発生する可能性を言いたいらしい。

「つまり…鶴の鳴き声の正体は暴風被害?」

「でしょうね。鶴の鳴き声に似た音ってのは、風だと思う。それが十年に一度来る」

 双樹はまたページを捲り、本の一説を指した。

「『夏啼きと呼ばれる現象がある。その為に沢隠しをするのだが、それは夏啼きを消すのとは関係ない神事だと思われる。そもそも千鶴で夏啼きが起こる訳ではない。それは神事と関係なく、千鶴に近いあの盆地でずっと続いてきた物だと思われる。つまり元々千鶴で起きた訳ではない夏啼きを、さも千鶴からあの盆地に誘導したのだという風に書いたのだと、私は思うのだ』」

 要約すると、夏啼きは千沢固有の現象で、千鶴沢から移った訳ではないという事。

「まぁ、納得できるけど、これがどういう事なんだ?」。

「つまり夏啼きっていうのは、千沢の盆地の特殊な地形何かが関係しているって事。雨娘はそれが千沢町で起こると警告しに来たのね。事の真偽は有るだろうけど、『起こる』と考える方が自然ね。じゃあどう防ぐか?それには千沢町の地形の特殊性を考えればいい」

「強い風?時期は夏なのか?」

「台風だと思うのよ。勿論強い弱いもあるけど、千沢の地形で風が加速したり、乱反射したり…そういう話なんかじゃないかと思う。正確な周期は分からないけど、十年に一度ペースで強い台風が来たり、接近したりっていうのは有り得る話よ」

「で、台風が本当に原因か検討するためのこの数式か」

「うん。でも、それだけじゃない。『雨娘』が関係ある筈よ。十年に一回来るのなら、既に千沢町には被害が及んでる筈。出来て二十年だからね。でもそれがないし、そもそも台風なんてしょっちゅう来る。その被害をなくしてくれているのが雨娘だと思うの」

「ん~、じゃあ何で雨娘は俺たちの前に出てきて、夏啼きが来るなんて警告をしたんだ?あの子が居れば、なんとかなるんだろ?」

「きっと理由があって、暴風被害を弱める力がなくなってるのよ。その何かが、私達」

「俺達って、何さ?何かって?」

 双樹は自信ありげに、奏に指を突き付けたが、奏は良く分からず顔を掻いた。そんな奏に双樹はヒントをくれる。

「思い出して。あの木で何で約束をしたか、私が引っ越す事になって私達がした事を」

 双樹は真剣なのか心配なのか、よく分からない表情をした。

 だからこれは思い出さないといけないと、奏は本気で記憶の断片を探る。

「え~とだな…」

 十年前の…五、六才の時の記憶だ。色褪せる。けれど、解れはある。普通幼稚園の頃の記憶なんてそうないけれども、双樹が居なくなった時の記憶なら別だ。

 とてもとても悲しくて、心の大事な所に、断片としてだが刻み付けられている。記憶の中に在る物は夕暮れの神社。泣いていた女の子。雨。大雨。標と成る大樹。大切な約束。

「確か、神社に行って、で、……千沢町に行った。それでだ…あの木の下で、話をしたんだな。約束をした………んだよなぁ」

 奏はぶつぶつと断片的な行動を繋いでいく。

「俺たちは双樹が引っ越すってあの日。何か大事な事をしようってなった。それで大人の見様見真似で………そうだ、鶴賀神社の鈴を運び出した!」

 それでピタリと嵌った気がした。思い出して興奮する奏に、双樹は嬉しそうに頷いた。

「つまり、俺達二人で『沢隠し』をしたんだ!それが不完全だから途中って事なんだな」

「ええ。そうよ。そして、それがきっと原因」

 二人は頷き合い、そして事態の解決を図るべく肩を並べて話し合った。

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