「うお!寝てた?」

 奏はけっつまずいて目を覚ました。変な夢を見た気がしたが、直ぐに目の前の現実に内容を忘れる。

 木、木、木、木、木、木、木!!!

 何処を見ても木。緑なんて生易しい物ではない。黒く、獣の口の様で、蟲の目の様で。蠢き、誘い、忍び、囲い、取り込み、侵食する。柔らかいと感じた、温かいと感じた。

「だから…なんだ……一度通った道だ…山の子供舐めんな……」

 その中を、出来うる限りの全力前進、叫ぶ。何に対してかは分からないが、叫ぶ。時間へか、自分へか、夏啼きへか、森へか、それとも泣きそうな双樹へか?

 とにかく雑念を雑念で振り払って、無限矛盾の中で出口を目指した。迷ったら二時間の猶予なんて簡単に吹き飛ぶ。とにかく急がなければ間に合わない。

「はぁ…はぁ…はぁ…」

 足が重い、頭がぼやけてきた、目が何処を見て良いのか分からなくなる。地面がぬかるんでヌメヌメしてきた様な気がする。

(舐めてた…森舐めてた)

「くは…ぁ!!」

 沈みそうになっていた意識を、無理矢理引き上げる。

「ぶはぁ!何だよ、ここ!この森!危ないってレベルじゃないぞ!」 

 視界がギュニャギュニャして、ムニュモミュして、何処が右で何処が上か分からなくなってくる。歩いてるのか飛んでいるのかの区別なんて勿論出来やしないし、時間の感触すらない。

 もう何時間歩いているのか?外に満ちている筈の風の音もここでは聞こえない。

「…て!だから!何時間も経ってたら駄目だろ!」

 またもや堕ちそうになった意識を繋ぎ止める。

 何だこの森は?催眠状態にする植物とか、睡眠状態にする構造とかになっているのか?

「双樹!今何時だ?ここは何処?」

 奏は溜まらず後ろに居る筈の双樹に尋ねた。

 奏は、半分寝ぼけた様な自分を信じるのを止め、双樹に操縦を託す。だがしかし、

「……………………………………へ?」

「双樹も寝ぼけてるのか!?」

 見ると、双樹は眠り半分で歩いていたらしい。呑気によだれを拭っている。

「やばいって…道分からないし、思い出そうとすると変な事ばっかり出て来る…」

 奏は今更ながらに後悔した。

 森が深過ぎる。道もなく、木々の帳で日の光も届かない森の中を行進するなんて無茶だったのだ。半ば眠り、半ば崩壊。体力なのか気力なのか?それともこの迷いの森の持つ魔力だとでも言うのか?

 奏も双樹も眠れる森を逝く様に、それとも死の行軍を行うゾンビの様に。意識を鷲掴みにされた。どんなに頑張っても脳に欠損が出たかの如く機能の何かが作動しない。

「奏くん……後五分しかない!」

 と、目を覚ましたらしい双樹が、目の覚めるような現実を披露してくれた。

「なんだ、何時間も彷徨ってたと思ったら、たった二時間だったんだな!」

「言ってる場合じゃないよ!」

 奏は逆に笑えて来た。いや、双樹以上に奏も焦っているのか。

(落ち着け…落ち着け…)

 奏は自分に必死に言い聞かせた。諦めてはいけない。

 大体此処からなら間に合うと勢い付けて迷い茨の森に突っ込んで迷って、挙げ句間に合いませんでしたとなれば誰に顔向け出来よう?いや、そもそも間に合わなかったら顔向けする人達を失うことになる。

(落ち付け…そして血眼になって捜せ。泣きそうで、半べそかく位必死に道を探すんだ)

 枝や葉が行く手を阻む。太陽は見えず、道は分からず、鍵の気配もない。否、自分自身さえ失いそうな偏屈。回り等どうして見えようか?

 鍵も道も、光明も見つけねば成らないのだ。奇跡を掬い取らねば成らないのだ。何か奇跡の一端を見付けださねば、破滅。

(落ち着け…どうにかしろ…)

 奏は祈る様に呟く。と、そんな奏の耳に、何かが聞こえてきた。

「…これは?」

 それはとてもとても澄んだ音色だった。どこかで聞いた鈴の音。いや、良く考えればずっと鳴り続けていた気がする。

 双樹と再会したあの日から、ずっと呼び続けていた。

「鈴の…音?孤鈴って奴か?」

 奏は自分のポケットを確かめた。そこでは鈴が震えていたが、鳴っていたのはこれだけではなかった。

 だから、あの日聞いた泣き声の正体がやっと分かった。

「双樹!こっちだ!!あいつが泣いてる!」

「そ…奏くん?」

 奏は双樹の手を引いて走り出す。確証が有った訳はない。理解するに足る反芻が有った訳ではない。しかしこの鈴の音は、奏と双樹を引き合わせた物と同じ物だと思ったのだ。

「間に合えよ…間に合えよ!!」

 急がなくてはならないのだ。そうでなくては間に合わない。泣きそうになる程の焦燥感を胸に、駆け、走り、急ぎ、目指し、森を走る。

「く…ぁ…はっ…」

 絶え絶えに成る呼吸に、これが最後だからと叱咤する。宥め、賺し、摩耗する。右足を出してるのだか、左足を出しているのだか分からなくなり、走り難い事この上ない。膝も泣きそうな程に痛くなってきた。進んでいるのかすら定かではなく。

 意味が有るのかさえ自身がない。そんなトロイ、全力疾走。

 はっ――――

 しかし、ふわりと古い潮の匂いがした。

「あ……」

 懐かしい感触が去来した。『戻ってきた』という思い。それが誰の感情かは分からなかった。でもきっと孤鈴や雨娘を通じて訴え続けていたアイツの涙だろうと思う。

 突如木々が割れて、暗い世界に明るさが氾濫した。森の領分を抜け、太陽の庇護下に逃げられたのだと理解した瞬間、奏は余裕もないのにほっとした気分になった。

「こ…ここだ!」

「ここ…って……まさか…」

 そこは大きな木の立つ、海の見える見晴らしの良い場所。

 奏と双樹が約束を交わし、そして再会した場所。鶴賀神社の迷い茨の森を抜けた先にある大きな木のある高台であった。

「本当に…繋がってたんだ…」

 双樹はこれっぽっちも想像していなかったと、とても驚いていた。

 ここまでは奏が正解だ。けれど、正解ならば万事解決という訳ではない。

「太陽が…沈んでいく…」

 驚く双樹の脇で、奏は悲痛な面持ち。雲の後ろの僅かな光りが、水平線に沈んでいく。

(まだなんだ、待ってくれ。解決方法が分かっていない)

 奏は必死で願ったが、足は動かない。沈んでいく太陽を見て心が麻痺してしまった。

 何かが問題で、その道中に何かが有る筈なのだ。それは鶴賀神社から鶴賀神社に至る行程の中に在るのは間違いない。

 けれども、それが何かを覚えていない。思い出さねばならない。

 だから何か思い出すかも知れないと走った。行程を駆け抜けた。景色の一端に思い出の欠片が引っ掛かっているのではないかと走り抜けた。

 千鶴町からこの木までは今さっき。千沢町からこの木までは双樹と再会したあの日に通った。そのどちらかに答えを忍ばす記憶の欠片が有る筈だった。

 有る……筈だったのに。

 視界が潤んできた。僅かな希望で、その二つの強行が実るかも知れないと思った。

 だが甘かった!事ここに来ても思い出せない。自分達が何をして…こうなっているのか全く思い出せなかった。記憶の歯牙にも掛らず、自分の馬鹿さ加減に腹が立った。

「く…そう……」

 目の前では、赤い太陽の断末魔。抵抗する様に微かに雲を赤く染める太陽は泣いている様だった。こいつが沈めば夜が来る。問答無用で、完全無欠で、意地悪な神様の答えの様に反論の余地もなく。縋っても、非難しても、媚びても、強請っても、喚いても、威張っても、怒っても、粘っても、差し出しても意味がない。ただ事実として其処に在る。

 昼と星が混じり始め、風が凪いでいく。凪が反転してしまえば、化け物の様に空を埋め尽くす雲と共に、風はこちらに一気に流れ込むだろう。

 それを人の身にて止める事が出来るか?人を殺す無力感に膝が力を失った。

「どう…すればいいんだ?俺は…救えないのか…」

 頭の片隅、全部。上から下から右から中から全て漁る。まるで自傷行為の様に脳細胞を引っ掻いて回る。肉が滲み、爪が剥がれ、神経が剥き出しに成る程に掻き毟る。

 けれども思い出せない。双樹に伝えた言葉、そして伝える為の勇気、そして双樹の笑う顔しかここにはない。大切な物が多すぎて、大事な物が零れてしまう。

 皮肉過ぎて、意地悪く笑う世界に腹が立った。

 思い出さないといけないのに…

 なんとかしないといけないのに…

「くっそ!くっそ!くっそ!くっそ!くっそ!くっそくっそくっそくっそくっそお!!」

 奏は膝から崩れ落ちた。もう、太陽の余命は幾ばくもない。

 風が―ザッ…―強くなってきた気がする―ザッ…

 だから、奏は精神的に完全に叩きのめされ、

「何を情けない顔してるのよ!手伝いなさい!」

「ぐは!」

 ついでに肉体的にもぶん殴られた。

「何するんだ双樹!」

「何するんだじゃない!手伝って!」

 双樹は呆ける奏を拳で殴ると、木の根元で膝を付いて作業に戻る。

「手伝ってって…何をだ?」

「此処を掘るの!」

「…なんで?」

「何でもいいから手を動かす!私を信じられないの!」

 ヒロイックに絶望した奏は、双樹の剣幕に圧されてとにかく地面を掘り進めた。

 ザッザッザッ…

 やがて、

 ザッ…ザッ…ザッザッザッ

 ザッ…トツ―

 地面を掻いていた双樹の指は何かに当たった。

「有った!!此処!此処よ!」

「え?あ?何?」

 双樹はその回りを必死に掘り起こす。スカートが汚れるとか、爪が剥がれるとか皮が破れるとかには無頓着。土すら血で赤く染まっていくが、生まれる痛みより大事な物があると言わんばかりに一心不乱。

「有ったって、何が?」

「在ったのよ!忘れたの?」

「覚えていない事を除いた範囲でなら、全部覚えてる」

「それを忘れてるって言うのよ!」

 双樹は怒りながら土を撒き散らしていたが、やがてその時が来た。

「やった!」

 何かが抜ける音がして、地面の中から丸くて汚い物体が現れたのだ。それは茶色くて、所々錆びて、土だらけだった。大きさはボールみたいだが、弾力性は皆無だった。

「…何それ?」

「覚えてないかな~?」

 不思議そうな奏の反応に双樹は呆れる様な、怒っている様な、もしくは真逆でとても楽しそうな、そんな良く分からない笑い方をした。

「鈴よ、これ。私達が将来を誓い合って埋めた、ね」

 掘り出した物から大事そうに土を払うと、とても嬉しそうに教えてくれた。

 とても嬉しそうに、そして恥ずかしそうに、愛おしそうに。

「鈴……埋めたっけ?」

「埋めたの」

 大きな木の根元に埋まっていたのは、奏と双樹が埋めた鶴賀神社の鈴だった。それはタイムカプセルではなく、タイムマシン。離れた時間を失わせる為の物であった。

「思い出したのよ」

 双樹は掘り出した鈴を、愛おしそうに見詰める。

「これね、私がさ、『お祭りが終わったら、本当にさよならだね』って言ったのよ。そしたら奏くんがね、『じゃあ終わらせない!一番奇麗なこの場所でお祭りを止める。そしたら二人の時間は止まるでしょ?』って。臭いよね~。で、海が見える木の下に埋めたのよ」

「そ…そういやそんな事あったな…」

 そういえば、そんな遣り取りの後に、あの告白があった気がする。思い出してしまえば何という事もなかった訳だ。と、その瞬間、鐘が鳴った。

 ――もう、笑い事じゃないよ。

「え?何か言った?」

「いや?双樹だろ?」

 驚く二人。そんな二人の目の前で。

「うわ!」

「うお!何これ?」

 鈴が突然揺れて、光り出す。

「やっと出れた!」

 突然鈴から、何かが飛び出してきた。

「狐!?でっか!」

「お、女の子?小さくて可愛いわね」

 出てきたのは、狐の耳と尻尾の生えた生物。狐にしては大きいし、子供にしては小さな女の子だった。

「ほえ~」

「へ~」

 それは超常現象では有ったが、いきなり出て来た事にビックリするだけで、出て来た事には驚かなかった。色々と感覚が麻痺してきたらしく、二人は呑気に女の子を眺めていた。

「もう、酷いよ!君達。埋めるなんてさ!」

 女の子は滅茶苦茶怒っていた。奏は女の子のその声に聞き覚えがあった。あの日聞こえた声は雨娘の物ではなく、この声だと合点が行った。

「お前…双樹が帰ってきた日、泣いてた奴か」

「ボクはずっと泣いてたよ!ただ君が聞けたのが、あの日ってだけじゃないか!」

 プンスカプンスカと怒る様は、残念な事に可愛らしかった。

 察するにこの狐娘は奏達のせいで、十年ここに閉じ込められていたのだろう。多分狐娘の入った鈴を埋めた事で、『封印』状態になったと思われる。

「まぁ、皇后崎の方に鈴に狐が宿るって話は聞いてたから、狐が鈴に入ってたのは良いけどけど…貴女なんで、この鈴に入ってたの?」

「ボクは迷い茨の森を含めた千鶴沢周辺の管理というか守り神というか…送り狐だったんだよ。あの一帯から人が居なくなるって話が有ったじゃない?本当はもういっそこのまま千鶴沢に居ようと思ったんだよ」

 狐娘はエヘンと胸を張ったが、話している内に寂しそうになった。そしてまた怒り出す。

「そしたらね!二人でこの森を抜けようなんて、恐ろしい事をいう子を見付けたんだ!風を迷わせるこの森を!無茶苦茶だ。子は宝だもん。助ける為に鈴に入って付いて来たよ」

「成程。俺達の生命の恩人って訳?」

「失敬な!子供に売る恩なんてないよ。見縊らないで欲しい」

 奏と双樹が迷い茨の森を抜けるなんて正気の沙汰じゃない事をやろうとしている事を小耳に挟み、狐娘は安全の為に神社の鈴に潜んで二人に付いて来てくれたらしい。

 ただ、なんと二人が途中で鈴を埋めてしまった為、この十年封印されてしまったのだろう。

(で、泣いていたと。何とも可哀想な奴だな。良い奴だけど)

「その顔!何か思った?!」

「いえ、何でも!」

「ところで、人だけじゃ迷い茨の森を通れないってどういう事?私達は通れたわよ?」

 狐の優しさと可愛らしい空回りは置いて於いて、双樹は尋ねた。

「あれはボクが通れるようにした残り!埋められたから直せなかったの!」

「う……」

 尋ねられた狐娘は腰に片手を充て、双樹の鼻先に指を突き付けた。

「『夏啼き』が、千鶴沢で起こってたのは知ってるね?だからボクは樹茨の森を作ったんだ」

「森を作ったですって?」

「そ。夏啼きが起こっていたのは、この樹茨の森がこの場所から千沢方面にしかなかったから、鶴賀神社から千鶴沢の方に風が吹き抜けていたのが原因なんだ」

「昔、千鶴沢で夏啼きが起こってたのは、本当なのか…」

 あの記述に出てくる『狐』とは、この子の事なのだろうか?

「うん。だから森で風を迷わせて今度は千沢町に風が吹き抜ける様にしたんだ。ま二十年前に君達が千沢に移るって言うから、森を拡大して風が終息するまで出さないって言う管理方法に変えたんだけどね。それで夏啼きはどっちでも起きなくなった」

 つまり迷い茨の森とは、風を迷わせる為の森なのか。

「でも、今起きてるわよ?夏啼き」

「そう!それは君たちが通れる様に、ボクが道を開けたからなんだ。本来風も人も迷う森を、君達が通れる様に千鶴沢からここまで、そしてここから千沢町までを開け、道を作った。通過した後に道を通れない様に戻して行こうと思ってたから、千鶴沢からここまでは塞がり掛けなんだけど、ここから千沢町への道は開いたままなんだ。ほら、十年前も、ちょっと前に雨娘に連れられてここに来た後も、あっさり帰っただろ?」

 奏が尋ねると、狐娘は耳をピーンと立てて怒った。十年前と再会の日の二回の事を言っているのだろうか?ならばと二人は首を振った。

「いや、かなり迷ったけど」

「うん。帰るのすっごい時間掛かった」

 ね~、と頷き合う。だが呑気な二人に、狐娘は毛を逆立てて怒る。

「あんなの迷った内に入らないよ!単に森が深かったから迷っただけさ。『迷う』っていうのは、さっき君が千鶴沢から此処に来るまでの起きたあれの事を言うんだよ。死ぬの!あれは絶対人が入ったら死ぬんだから!どれだけの計算式を用いたと思っているんだ!」

「う……確かにあれはヤバかった。塞がりかけであれなら、本来はどんなだよ?」

 言われて奏は、先程の森の気持ち悪さを思い出した。迷ったことに気付かずに、閉じ込められてしまうような感覚。あれで完全でないのなら、本当に出られないような恐ろしい檻なのだろう。そもそも呼んで貰えなかったらと思うと、身震いした。

「というか、夏啼きってダウンバーストじゃないの?」

「だうんばーすと?そんな妖は知らないね」

 双樹の質問に狐娘は首を傾げた。

「夏啼きは風だよ。大気っていうのは大きな気の事なんだけど、その熱量が千鶴沢に吹き込む訳だ。でも千鶴沢は落ちてきた神様を閉じ込める場所だから、吹き込むばっかりで出ていかないんだ」

「霊的に閉じられた場所って事?その一部を切って風を逃がす訳にはいかないの?」

「切ったら千沢に落ちた神様が目を覚ますよ。三百年前ならいざ知らず、今のボクに神様を相手取る力は無いなぁ」

「規模のでかい話は分からんぜ」

 奏は、とにかくどうにもならない事だけは理解した。

「ま~、ボクを封印したのが此処ってのがマズかったね。そうじゃなかったら雨娘に封印を解いて貰って終わりだった。ここに雨娘は来れないんだよ。あの子は神様落っことしちゃったから、神様が帰る為のこの木を育てないといけないんだけど、ただどうせドジで雨やり過ぎて枯らすから直接は近付くな、って禁忌がね」

 狐娘は困った様にむ~、と唸った。京成に聞いた方の神話だろう。

「で!なんだけど、それ以上に切羽詰まった困った事、あるよね?」

 と、狐娘は困り顔のままヒョウと飛び、腕組みして二人を見回した。

「切羽詰まった事?」

「そ!これ以上説明してる時間、ないよね?」

「困った事?時間?」

 嫌な予感がして、双樹が恐る恐る聞いた。

 何か……忘れている様な気がした。

 途端響くは異常音。奏は異音の方向に顔を向けた。

「げ!何だあれ!!?」

 瞬間、サっと血の気が退く音を聞いた。風が音を立ててこっちに向かっていた。

「おい…双樹!大変だ!雲がこっちくるぞ!!」

「え?……ちょっと!何あれ!!?」

 錯覚ではない。本当に雲が巨大な怪物みたいに動いて、高台に向かって来ていた。

 遠く海の上で目に見える異常が発生していた。雲と波が荒れて特異な形を作り、明らかな熱量の充填を見せていたのだ。

 それはまるで怒り狂う竜の様な密度で、ゆっくりとした直線螺旋でこちらへ向かって来ていた。

 奏は本能の根本で感じ、双樹の腕を掴む。これは危険だ、デンジャーだ。

「うん。時間がないんだ。今から風を迷わせる為に森を閉じる。君達は、全力で逃げて」

 ハ?ナニイッテンノ?

 奏は呆然とした、だが、そんな時間すらないらしい。

「森を迷いの森に戻す。風が少しでも千沢町に到達すると『迷わせる』事が出来ないんだ。そしたら夏啼きは止められない。君達は早く行って、閉じる前に抜けて。じゃないと森に呑まれて死ぬよ」

 現在進行形で迷い茨の森を閉じるから、それより速く走りきれという事か?

 やたらと軽い、煽る様な狐娘の口調に目眩がした。

「まじかよ……」

「嘘でしょ……」

 二人は悲鳴を上げる。でも泣き喚いても死ぬだけだ。

「ちくしょう!双樹!振り切れよ!」

「う…うん!がんばる」

 ゴゴゴゴゴゴゴゴ

「うお……信じられん」

「凄い力ね」

 駆け出す奏達の後ろで、木々が動いた。めりめりと音を立て、みるみる閉まっていく。

「速く!この時点で風はせいぜい時速十六、七キロぐらいの筈だけど、近付けばドンドン速くなっていく!早くね、急いで!風は少しでも千沢町に入れる訳にいかない。風の抜け道が出来てしまうから閉じ込める速さは風よりは出来ないよ!」

「分かった。お前は躊躇なく、千沢町を救ってくれ」

「はいはい、はいよ」

 森は、まるで本当に生きている様だった。そこを駆け抜けるのは巨大の生き物の腹に入る様で、不気味で、不吉で、不潔で、不穏で、不幸な気がした。

「走れ!双樹!森に閉じ込められたら、風と一生お散歩だ!」

 不気味な物を左右に見ながら、奏は体力の配分は止めようと全力を出す。どうせもう膝の感覚がなくて、地面の触感がない程なのだ。全力の出しつくす以外に道なんてなかった。

「山走るのよ!嘘でしょ!?」

「嘘でもなんでもやらなきゃ死ぬ!!!」

 そんな騒がしさを置き去りに、奏と双樹は暗い暗い森へと再び入っていったのだった。

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