夏啼き

月猫ひろ

プロローグ

 暗い……とにかく暗いと感じたのを覚えている。そして寒かった。骨身を切り裂く様な寒さではなく、本当にもう身体の芯から凍える寒さだ。

「どうしよう……」

 湿り、濡れた土が歩き辛かった。夜に影する木々がお化けみたいで怖かった。奏は不安と恐怖と怯えと、そしてほんの僅かの使命感で歩を進める。

「うう……」

 守る様に、泣かせない様に。後ろで震える女の子の手を引く。けれどももう、自分が泣いてしまいそうだった。森の寒さと孤独と空腹感、そして帰れない不安でいっぱいだ。

「うう~…でも駄目だ。タヨリガイノアルオトコにならないと」

 襲い来る弱さを、首を振って追い遣る。男の自分もこんなに怖いのだから、後ろで震える女の子は、もっと怖い思いをしている筈だと思い直す。

(泣かない…泣かない……)

「ふふふんふ~ん、ふふふふ~ん♪」

 奏は鼻歌を歌ってみた。それはテレビで良く聞いたCMソング。特別好きな訳でもないが、耳に付いていたその歌が、日常に繋がっている気がした。

「……」

「…ソウちゃん…大丈夫だよ」

 女の子は奏の手をぎゅっと握った。それで奏は温かさと冷たさを思い出す。顔を上げ、止まってしまいそうな位のろくなっていた足に力を入れ直す。

 ビュウビュウと風が強く吹いていた。それは八月の初めの台風。雨が視界を遮り、ぬかるんだ地面が足を取る。体温と体力が奪われていくのを感じた。一刻も早く濡れた木々のカーテンを抜け、冷たい雨から身を守らねば、奏達の小さな身体は生命を失うことだろう。

「あ!あそこ!!」

 しかし、泥底のような絶望に、未来が見えた。風の音に負けない様に奏は希望を叫んだ。

「あそこ、あそこだよ!」

「え?何?!」

 奏の背中に隠れる女の子も、風に負けない様に大きな声を出す。けれども体力の限界なのだろう。女の子の声は、かなり聞き取り辛く足取りも虚ろだ。目も良く見えてないらしく、奏の指さす方に顔を向けるだけで、何かを見付けた様子はない。

「お堂がある。あそこなら雨宿り出来るよ!」

 奏は無理矢理強く言って、しっかりと女の子の手を握った。木々の切れ間に見えたものは、生命を助けうる最期の望み。奏には早く辿り着かないとそれが消えてしまいそうに感じたのだ。

「痛っ!」

「ソウちゃん!」

 突然腕に痛みが走る。急いだからか、雨でふやけた肌を枝が鋭く切り裂いたらしい。奏の声に驚いて女の子が慌てる。その声は泣きそうで、奏は急いで取り繕った。

「大丈夫、ちょっと切っただけだ。急ごう」

 実はかなり痛かったのだが、今は女の子を不安がらせるべきではないと、小さな騎士は判断した。幼い使命感は、ただ奏を前に進める。

「大丈夫、もう直ぐだ」

「うん……そうだね。頑張ろう」

 弱気を鼓舞の言葉に変換していく。言い聞かす様に、祈る様に。それは女の子の体力を持たせるためで、そして自分の心を折らないためだった。

 女の子も小さな気遣いを感じたのか、泣く事を止め、奏の背中にしっかりとくっついた。

 奏は女の子の手をキュッと握り締め、先を覆う枝葉を払う。そして、ついに、

 ザアア

 木々の終わりへと進み、狐の遊ぶ迷いの森の外に出た。

「あ…やった!やったよ!」

 やっと森を抜けたのだ。此処からは、妖しではなく神社の領分。人にとても近い場所だ。

 助かった!

 そのただ一つの言葉が身体を満たした。助かるんだという喜びや嬉しさなんて吹き飛んで、とにかく女の子を助けなければとお堂に急いだ。

「入ろう。もう大丈夫だ」

「うん……良かった」

 安心して疲れが押し寄せたのか、女の子はかなり眠そうな声だった。

「ソウちゃん早く」

 お堂には狐が遊びに来るという伝承があり、鍵は掛かっていない。奏達はそんな風習に感謝する暇もなくお堂に転がり込み、そして雨風を防いでくれる不気味な建物にただ安堵する。

 外より温かいお堂にはゴロゴロと不思議な物が転がっていたが、二人はそんな物に怯える気力もなかった。

「これからどうしよう?」

 助かったという安堵の中、新たな不安も生まれる。たかが五、六才の子供には、見知らぬ場所で安めた位では、まだまだ安全ではないのだ。しかし女の子は元々の大物ぶりが出たのか、それとも単に合理的なのかは分からないが、すぅすぅと寝息を立て始めていた。

「大人達が来る筈だから……いいよ。私、疲れた」

「でも、いつ来るの?」

「もうすぐ……すぅ……」

 奏の不安は其処なのだが、答える相手はもう夢の中。

「……はぁ…まぁ、いっか」

 その幸せそうな顔を見ていると、なんだか大人達に見付けて貰わなくてもいい気がした。

「……おはよう。ソウちゃん。そしておやすみだね」

 だから女の子の頭を優しく撫でると、奏は隣に寝ころんだ。疲労困憊の身体は驚く程速く眠りを受け入れ、そのまま夢の彼方へ入り込んでいくのだった。

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