決意

 双樹が転校して来た次の日の昼休み。奏は独り図書館に居た。

 人は沢山居るものの、其々が其々に没頭しており、他人なんて我関せずという集団孤独……と言う程の物ではないが、適度な静けさが手に入る空間である。一人でそんな所に赴いて何をしているのかと言えば、割と真剣に昨日京成に言われた事を悩み込んでいた。

「受ける学校……か」

 このまま宙ぶらりんな気持ちで夏休みに入っては流石にマズイと、学校案内やなんやを読み漁っていた。とは言え、脳内会議は到底進む気配がない。

「何がしたいか……ね」

 学校が大切にしている理念、何を行っているか、何に力を入れているか、どんなクラスがあるか、進学率はどうか……学校案内には様々な事が書いてある。奏はカラフルで為に成りそうな冊子にいつもより深刻に目を通していた。だが、ただ深刻にしたからといって問題が解決する事はない。何故なら奏は。別に行く学校を悩んでいる訳ではないのだから。

『そうか。じゃなくてお前はどうするんだ?』

 小骨の様に引っ掛かる悪友の言葉。考える程に喉をちくちくと突き刺し、呼吸を僅かずつ阻害して気力を削いでいった。

「駄目だぁ…別に何かになりたい訳じゃないし、なりたくない訳じゃない。将来に投げ槍に成ってるんじゃないんだけどな……寧ろ希望に満ち溢れて何にでも成りたいお年頃、って?でもどれも本気を掛けられる気がしないんだよな……」

 奏は冊子を放り出して天井を見上げた。考える程に一歩が踏み出せなくなってくる。

 グチャグチャする頭の中を口にしてみたが、本気になれない理由がこれとは自分が嫌になる。

「こりゃ…メンドクサイ奴だわ、俺。良く京成が愛想を尽かさないな」

 泣きたい様な、寧ろ笑いたい様な宙ぶらりんな気持ち。それが殊更に嫌になる。こんな自分を自覚しても本気になれないのかと、自身を呪いたくなった。

 と、深海の底にでも旅立とうかなと自棄になる奏に、意外な声が掛った。

「確かに君はメンドクサイ人よね」

 綺麗な声だが起伏のない声。そんな変わった声の持ち主を、奏は一人しか知らない。

「双樹?どうしたんだ、お友達は?」

「他人行儀な意地悪な反応ね。昨日も泊まりたいって言ったのに無視したし」

 双樹は奏の隣に座って、鞄から参考書を取り出しながら平坦な調子で何か口にした。

「うん。言ってない。確実に言ってない。誤解を招くから止めて」

「そうだっけ」

 趣味の悪い冗談を、クラスの奴に聞かれてやしないかとドキドキした。

「あの人達には『私達の邪魔をしないで』って言って来た。追い掛けては来ないと思うわ」

「喧嘩してきたのか?」

 今日も双樹は色んな人に囲まれていた。それをブッチギッて来るという事はそれなりの事があったのだろう。どんな喧嘩を吹っかけてきたのかと、頭が痛くなった。

「してない。それだと奏くんが嫌なんでしょ?ちゃんと円満に済ませたわよ」

「………お前、何言った?」

 双樹の言い廻しに違和感を覚えた。身構えてはみたものの、現実は既に手遅れだった。

「皆仲良くしてくれるのは分かっているわ。でも私は此処に勉強に集中する為に来たの。大丈夫『愛しの奏くんに会いに行くから、ごめんね。空気読んでね、着いて来ないでね、二人きりにしてね♪』って言ったら普通に解放してくれたわ。喧嘩とかしてないから」

「ハ?」

 ――ピシリと空間が割れた気がした。

 ガタガタと寒くもないのに体が震え、体中の脂肪が汗として捻り出される様な痛みを感じた。ジワジワと体の芯が解けていくのを感じ、瞬間奥の方がかぁっと熱くなった。

「ちょっと!え?マジかよ?え、ウソウソ」

 奏は双樹の肩を思わず掴んでいた。『何をしてくれたんだ!』という気持ちだけが火花を立てて、壊れた車みたいに焦りの中を走り回っていた。

「マジ。でなければ奏くんの隣には座ってないわよ」

 双樹は冗談の無い顔で、ジーと覗き込んで来る。そして、もういい?と視線を外した。

(これはマジだ)

 途端ドッと疲れて、奏は双樹の肩から手を離した。いっそ双樹の口を塞げば事態は停止しないかなとバカげた事を思いながら、教室に戻った後の苦労を想像して笑えてきた。

「信じられない……」

 無情に砕かれた希望が、ジャリジャリと奥歯に詰まっているみたい。

「いいじゃない、役得よ」

「はいはい、そうだね。役得だよ。いや、役不足かな……」

 双樹はもう問題集に没頭していた。話は終わりだという訳だろうか。

 奏だって双樹の意図は分かる。双樹の一人に成る為の口実として、自分を選んでくれた。それは単純に嬉しかった。

 しかし……しかしである。

「なぁ、双樹ちゃんよ?」

「他人行儀ね、ハニーって呼んでくれても良いのよ」

「……それはもう良い」

 しかし、それなら双樹は何の為に転校して来たのだ?昨日おばさん達と話した感じでは、受験を控えたこの時期に、誘惑の多い都会から田舎に引っ越して来たとの事だった。

 じゃあ、それが目的か?そんな訳ないだろう。

「双樹だって折角転校して来たんだから、皆と仲良くした方が良いだろ?勉強しに田舎に来たって言うけどさ、こんな参考書も簡単に手に入らない所にさ……というかあっちの学校の方が競争相手も居てモチベーション上がるだろ?」

 双樹の性格を知りつつも尋ねる。そんな自分のお節介に、京成を笑えないなと思った。

「どうせ双樹は、向こうで喧嘩とかして、こっちに来たんだろ?ならこっちに来てまで全部の人を遠ざける事なんてないんだぜ?無理をするなよ」

 双樹だってもう中三だ。昔ほどの棘はない。とは言え都会では転校しないといけない程の何かがあったのだと予想した。

「無理……ですって?分かった様な事言うのね」

「…双樹?」

 しかし奏は読み違えていたらしい。双樹は奏の言い様に、一瞬本気の怒りを見せた。

「何様のつもりなの?」

 言って、双樹は恐ろしく感情のない顔で笑った。双樹が震える手でペンを置くのを見て、

 ああ、これはマズった。

 瞬間的に理解した。双樹は怒りなんて単純な言葉では言い表せられない様な声色だ。

「ダーリン様に決まってるだろ?ハニー♪……あいた!?」

 双樹は手首のスナップでペンを投げ付けると、奏を睨み付けた。しかし、それで毒気が抜けたのか、はぁと緊張を吐き出した。

「いいのよ、仲良くしなくて。その為に来たんだから」

 一瞬失われた表情を隠し、拗ねた様にそっぽを向いた。

 それは一つ、何かをぐっと呑み込んだ様な気がした。

「良いってなんだよ……」

 だから奏はその仕草にカチンと来た。

 先程収まったと思っていた激情の余波が、体の奥底でグラグラと煮える。何に対しての怒りかは分からないが、双樹に対していい加減ちゃんと目を見て話せと思ったのだ。

「文句が有るなら、ちゃんと言えよ、双樹。言わなくて分かる訳ないだろ!」

「……止めてよ。皆が見てるわ」

 肩を掴む程熱を持つ奏に対し、双樹は下らない冗談で逃げようとした。

 だから分かった。これは大事な事らしい。奏は双樹の肩から手を離し、椅子に座り直した。ギシリと音が鳴り、奏を冷静にさせる。

「とにかくさ、どう言う事なのか聞かせてくれよ、ソウちゃん。俺だって被害を被っているんだよ?割りを払えとは言わないけどさ、『共犯』に成る位は出来るんだろ?」

「……」

「双樹…」

 表情のまま何も言わない双樹。肩透かしな態度に凹みつつも、奏は真剣な目で見詰める。

「共犯……」

 双樹は一言呟くと、膝の上でギュッと拳を握った。そして何かを決めたのか、ゆっくりと奏の方へと体を向けた。唇を噛み締めてから話し始める。その声は濡れていたと思う。

「だから、そのままの意味よ。この時期に転校っておかしいでしょ?私は本当に勉強に集中する為に転校したのよ。知り合いも娯楽もない田舎に来て、勉強しようって」

 それは……………………………………………………………

 ……………………………一体どういう意味なんだ?

 双樹の言葉は先程と同じだった。けれどそこに込められた熱が奏をおかしくする。

 本当にこれが理由だ!と双樹は本気で思っている様子だった。

「もう!これ以上の理由はないの。大事な夏の時期を、集中出来るこっちで過ごそうって事になったのよ。本当は千鶴沢にしようってなったんだけど、それじゃ塾も通えないから」

 そんな取り乱した声を聞いて、奏は平静を失った。

 Q、千沢町にも塾はないけど。

「隣町の塾に夏の間は行くわ。バス一本だから」

 Q、じゃあ双樹は受験に備えて友達も娯楽も、今までの十年も捨てて此処に来たんだ?

「そうよ。何もない此処で集中させたかったんでしょうね」

 Q、有り得ない。

「…有り得ないって何よ。有り得るから私が此処に居るのよ!現実に起きてる事なの!」

 Q、起きてる事って、他人事みたいに言うなよ。

「私だって!!」

「……」

 奏が言葉を振り絞った途端、机が大きな音を立てた。机に叩き付けられた双樹の手は真っ赤。あまりの音に図書館中の目が集まっていた。

「他人事じゃないわよ!私だって嫌だった!あっちに友達だって居るし!遊びたいし!でもだからこそ引っ越すって!言うん…だもん…私だって!自分で決めた事だし、私が決めた事なのよ!!簡単な事じゃなかった!!」

 けれども誰に見られようと関係ない。奏は双樹の為だけに頷いた。

「……そうか」

 友達も生活も全部捨てて…というのは大袈裟かもしれないが、中学生にとってはそれ程の大事だった筈だ。双樹にとっては不本意だったのだろう。けれど不本意でも現実だと、必死に飲み下したのだと思う。

 だからだ。だからこそ激情は堰を切る。

「そうよ!!」

 双樹は赤い目で奏を睨み付けた。決意を無遠慮に踏み躙る奏に、本気の怒りをぶつけた。彼女は泣きそうで…崩れそうで…奏が良く知る小さな女の子だった。

 奏は言葉を発さず、双樹の震える手許に目を落とす。参考書は全部使い込まれている。端が巻いて黒ずんだページは、反面丁寧に色分けされたペンとポストイットでカラフルだ。この参考書さえあれば勉強が出来る様になるのではと錯覚さえ起こさせた。それが双樹のこの十年を象徴している様な気がする。双樹が行ったのは有名な私立の小学校だったという。学校の厳しさは千差万別と言うが、きっと厳しい所なのだと思う。

 ……とは言え、双樹がそれをこなせず、着いて行けない訳は無かろう。

 では?何故双樹は転校しなければいけなかったのか?

 今、双樹は泣いている。それは親が無理に決めた転校ゆえだと言う。しかし奏には双樹の親が、双樹の人生を無為に弄ぶ人だとは思えなかった。

 なら、どうしてこんな事になっているのか?きっと双樹がそれ程奪われる程の物を手に入れてなかったのだと思う。勘だけど…でも確信はあった。友達が居ようが、ライバルが居ようが、恋人が居たとしても、きっと双樹は変わらず独りだったのだと。

 今は意図しない環境の変化に取り乱しているが、平静を取り戻せば、また『こなして』しまうのだろう。

 だから双樹の両親は、この大事な時期に双樹を此処に連れてきたのだと思った。

 だから自分が何とかしないとと、奏は自惚れではなく心に決めたのだ。

「うん……そうだよな」

 確信はあったが確証はない。けれども奏には間違いのない事の気がした。ならば十分。奏がすべき事、そして悩んでいる事。それらは妙な符合で合致した。

(ああ、良い機会だ。死ぬほど恥ずかしいけど、死ぬほど勉強してやろうじゃないか)

 むず痒い事実を迎え入れるのは抵抗が有ったが、そんなちっぽけな事を我慢出来れば双樹を泣かせずに済むのだ。

「分かった。分かったよ、双樹、京成」

「は?どうしたの、奏くん。急に」

 突然静かに燃えだした奏を、双樹は変な物を見る様な顔をした。非常に無礼である。

「あのな、双樹。笑わないで聞いてくれ、俺の決心を」

「決し……うん?」

 奏自身、自分がどれだけアホな事をしようとしているのか、どれだけ笑われてもおかしくない事をしようとしているのか分かっていた。

 それでもせずには居られなかった。笑うなら笑ってくれとすら言えない。人生を今決めるのだと思うと手も震える。

 でも口さえ動けばいい。ぐっと腹に力を入れて、えいやと飛べば良いだけなんだと、喉を震わせた。

「双樹」

 いや、もしかしたら決めたのは『今』じゃないのかもしれない。

 泣く事を知らない少女の側に居ると、この子を守ると決めたのはあの日だったから。

「俺も行く。俺もその夏期講習ってのに行って、それで双樹と同じ高校に行くよ」

 それは双樹の為だけではない。奏が初めて決めた人生の続きの始まりだった。

 言ってしまった瞬間体のど真ん中から熱いむにゃむにゃが広がって、頭が茹で上がった。

「………は?」

 奏の告白を聞いた双樹は、暫くぽかーんと口を開け、唖然としていた。まぁそうだろう。奏にとって間誤付いていた人生の岐路での事有ったが、双樹にとってはあまりに唐突。

「……はぃい!?奏くんそれ、本気で言ってるの?!」

 で、暫く混乱していた双樹だったが、やっと奏が馬鹿だと思い出したのだろう。これが現実だと理解し、顔を真っ赤にして何か言っていた。

「―――――――――――っ――――――――――――――?―――――――――――!」

 以降、双樹は何だか意味の分からない罵倒を続けていたらしいのだが、奏は良く覚えていない。ブレーキを無視してしまった事で熱ダレ、幾つもの機能が麻痺してしまった様で、耳も、目も、口もおかしくなってしまっていた。

 でもまぁ、涙を溜めて罵倒する双樹が、不機嫌以外の何かだっただけで十分幸せだった。

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