追試①

 校庭の桜はすっかり新緑に変わり、時折吹く涼しい風が心地よく感じる。厚手のブレザーを着ているとじんわり汗をかいてくる。衣替えの時期が待ち遠しい。

 季節は春から、次第に夏へと移り変わろうとしていた。


 ゴールデンウイークの到来を直前に控えた五月一日の月曜日。大旗努は予定通り、学校に復帰した。

「おっと、そうだった」

 すのこの上で脱いだローファーを靴箱に入れようとすると、赤い靴底の上履きがすでに入っていた。間違えて一年の頃、大旗が使用していた棚の前に立っていた。

「私の居場所は、もうここじゃなかったね」

 独り言を呟きながら、二年一組の、唯一空いていたボックスにローファーを入れる。

 まだ上へと続く階段を一瞥して四階の廊下を進む。突き当りの教室が「2年1組」であることを表示プレートで確認する。たった数分の間にも、二年生になったんだと自覚させられる。

 ――他のみんなも、一か月前に経験したのかな。間違えて一年の教室に行っちゃった人もいたりいて……。

 一か月、スタートが出遅れた不安は拭えなかった。特に年度始まりの四月だったので、クラスの中でもグループがすでに形成されつつあるだろう。その中に飛び込むのは勇気が必要だった。しかしその不安な気持ちと同じぐらい、期待も胸に抱いていた。大旗にとっては今日から始まる新しいクラス。一体、どんな一年になるのだろうか。

「扉の前でなにニヤニヤしてるの?」

「美瑠! おはよう」

「はいはい、おはよう。元気そうだね」

「うん。何事もなく、戻って参りました」

「じゃあ早く入りなさいよ」

 呆れ顔の矢永は大旗に代わってすっと扉を開けた。

「努、ひさしぶり」

 最初に出迎えてくれたのは一年一組のクラスメートだった鹿島だ。隣には同じく一組だったまどか歌奈かなの姿もある。もう一人、鹿島の前に座る女子生徒。彼女は知らない顔だった。背もたれに肘をつき、大股を開いて反対向きに座っていた。鋭い目つきと焼けた肌で、ちょっと怖そうな印象だった。

 まだ始業前だというのに、鹿島の机の上には教科書とノートを広げていた。

「紗矢、相変わらず真面目だねー」

「ちょっと、先に言う台詞があるんじゃないですかー?」

「そうでした。この度は協力してくださり、誠にありがとうございました」

「よろしい」

 鹿島は満足そうに深く頷いた。

「大変だったんだからね。私が疑われちゃったりして」

「ああ、あの謎解きゲームとかゆーやつの話か。とすると、もしかしてあんたが例の黒幕ってやつか?」

 褐色の彼女は合点がいったようで、大旗に尋ねる。

「そうだよ。私が黒幕です」

 初対面だが相手のペースに呑まれないよう、少しテンション高めで答える。

「正体がバレちゃダメだったんだろ? 鹿島はちゃんと誤魔化せたのか?」

「もちろん。私は出題者じゃないよってちゃんと言ったもん」

「……それも言っちゃいけないんじゃねえか? なあ、黒幕さん」

「そうだね。できれば曖昧に濁してほしかったかな……」

「……あ! そうか、ごめんね」

「やっぱり鹿島はドジだな」

「ムッ、間違えて一年のクラスに行っちゃった人に言われたくないんですけどー」

「ちょ、バカッ、それを言うんじゃねえよ!」

「ふっ、あはは」

 怖そうな印象だったが、彼女にも可愛らしい一面があるようだ。まだまだ知らない顔もあるのだろう。これからそれを知っていくのが楽しみだった。

「お、大旗さんっ」

 遠くの方から大声で名前が呼ばれる。誰だろうかと振り返った時には、顔のすぐ近くに迫っていた。

「良かった、治ったんですね……!」

 雪松あんは大旗の両手をがっちりと握る。ひんやりと冷たい手だった。

「う、うん。近いよ……アンナちゃん」

「す、すみません。それと、すみませんでした……! 私、あの絵のことがどうしても気になってしまって、ちょっと見るだけと思ったんですけど、タイミング悪く姿を見られてしまって、私のせいで、ば……バレちゃったんじゃないかって……」

 今にも泣き出しそうな表情で大旗に縋りつく。

「落ち着いて。大丈夫だよ。――それと、あの絵の意味、ちゃんと伝わってたよ」

「ほ、本当ですか? よかったでずぅ……」

 安心させるつもりがかえってダメ押しになってしまった。雪松は涙と鼻水を流す。すかさず鹿島がティッシュを差し出した。

「美術部に男の子が入部したでしょ」

「……あ、はい。一人だけ。絵を見せてほしいとか、誰の絵が好きかとか、なんか私を、妙に慕ってくれてて……」

「そっか、仲良くやってるようだね」

 話している内に、教室の人数も多くなっていた。一段と騒がしくなったと思ったら、朝練終わりの生徒が一気に入って来たようだ。

「おっす、大旗じゃん」

「よっす、いまむー」

 今村こうだいもその一人だった。ということは今入って来たのは男子バスケットボール部の集団らしい。

「どう? 新しい部員は入った?」

「おー、結構入ったよ。実力あるやつも中々いるみたいだし、これなら今年のインハイ予選は三回戦までいけそうだぜ」

「去年は二回戦までだったよね」

「うん」

「一個しか進まないのかよ。向上心が無いなー。そんなんで先輩やれてるの?」

「俺よりも一年の方がやる気あるかもな。特に一人、突出したやつがいてさ。最初はダメそうだったんだけど、段々自信に満ち溢れてきたってゆーか、今じゃちゃんとリーダーやってるよ」

「有望株じゃん。それなら、今年も試合の応援に行こうかな」

「あんま期待すんなよ」

「させてよ」

「ダメそうっていえば~」

 円は顎に人差し指を当てて、思い出すように呟いた。

「問題を探しに来た子の中に~、すっごくバリア張ってる子がいたな~」

「歌奈がしつこく話し掛けてた子でしょ?」

 鹿島の印象にも残っていたのか、すぐに該当する人物を思い出したようだ。

「そうそう。私じゃ凍った心を溶かせなかったんだけど~、大丈夫かな~」

 おっとりしているようで、円は案外洞察力に優れている。一年前と同じように、クラスに馴染めない子に積極的に関わろうとしたのだろう。

「んー、大丈夫なんじゃない?」

 確信を持って答える。

「私たちが考えた謎を全部解いたんだもん。きっと上手くやれてるよ」

 大旗は二年一組の天井を見上げた。

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