四の九 ブライアン 八月二十六日
ブライアンはスマートフォンに表示させた妻の電話番号を眺めながら、通話アイコンを押そうか押すまいか、ベッドに腰かけてずっと迷い続けていた。
時刻表示を見、受話器を模したアイコンを見、
――今こっちで十二時なのだから、むこうは前日の夜八時か。
などともう何度同じことを考えただろうか。
これまで近況をしらせるメールはずっと送り続けていた。返事はあったりなかったりで、あっても短い了解の言葉が書かれているのみであった。長い間家を空けている夫を、心配しているのか、怒っているのか、呆れているのか、その短い文章からはまるで伝わってはこなかった。
考えてみれば、家でふたりでいる時でも、ずっとそうだった。ブライアンかアビゲイルか、どちらかが話す話を、聞き流すように聞いて、ただ通り一辺倒の相槌をうつだけの生活であったのだ。まだ怒鳴りあいの喧嘩ばかりの夫婦関係の方が気持ちをぶつけられて、発散にもなろう。
いっそこのまま、アビゲイルが愛想をつかして家を出てくれていたら、とそんなことまで何度脳裡をよぎったかわからない。いや実際、もうあの家に彼女の姿があるかどうかわかりはしないのだ。
東京のホテルの、窓をみれば外は東京湾が広がっていて、しんと静まりかえった、うら悲しさの漂う部屋であった。
トバイアスは環に連れられて東京見物に毎日歩き回っていて、あの年頃の少年が異国の文化に触れるのも悪いことではないからと思い放ってあった。
しかし、トバイアスがいることで、ブライアンの渦潮に引きずり込まれていくように下降線をたどる心がどれほど救われているかわからない。もしこれが、我が家であったら、アビゲイルとふたりきりのあじけない夏休みに堪え切れただろうか。
本当はあと二週間もすれば新学期が始まるのだが、今アメリカへと帰っても、また周囲の人人が襲ってくるかもしれず、なんらかの決着がつくと言われる来月の二十四日まではこちらにいるしかなかった。新学期の始まった学校を二週間ほど休むことになるが、首を切られないように祈るしかなかった。
それまでこのホテルの宿泊費用を、時詠の巫女の組織が出してくれると言う(そればかりか、これまでの旅費すらも出してくれるという)ので、半分申し訳ない気もしながらものんびりしているが、いったい彼女も彼女の組織もどこまで信用してよいやらわかったものではないのだった。
電話が鳴った。
不意に思考の海から引きずりあげられて、どうせトバイアスからの電話だろうと相手もみずに応答した。
「なんだ、トバイアス」
そうつっけんどんに応じた電話の向こうで、
「あ」
と短く女の驚いたような、意外なような声が聞こえた。
ブライアンははっとして黙り込んだ。そうしてしばらくの沈黙のあと、
「アビゲイルか、すまん」
「いえ」
そう応じたアビゲイルはまた沈黙した。そうして何か考えているのか、気持ちを落ち着けているのか、しばらくして、
「こっちこそ、出るとは思っていなかったから」
不愛想にそう言った。
妻のいつもよりもずっと低い、陰気な声の調子から、ブライアンは、きっと別れの電話に違いないとさっした。
だが、こちらからはどう切り出しようもなく、ただ黙って彼女の言葉を待った。
「元気なら別にいいわ」
「君も元気か」
「うん、あなたがいないからずっと元気よ」
などと冗談だか本気だかわからない声音で言うのだった。
「そうか、なら結構だ」
「いつ帰ってくるの?」
「来月の終わりには帰るよ」
「学校はどうするの?」
「校長に休暇願は出しておくけど」
「そう」
そうしてまた静寂が押し寄せた。
「じゃあ」ぽつりとアビゲイルがやっと言った。
「うん」ブライアンは絞り出すような声で答えた。
そうして数瞬後にぷつりと通話が切れた。
ブライアンはまたスマートフォンの画面を眺めた。
そうして、わからないな、と思った。
彼女の気持ちもまるでわからないし、ふたりの今後もまったくわからない。
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