一の三 エメリヒ 五月二十六日
在庫数の最終チェックを終えて、エメリヒ・クルツは工場を後にした。
倉庫管理主任などという肩書ではあるが、多いのは仕事の量だけで、給料は平社員とさほど変わらないのだからたまらない。しかも、国の労働時間規制のため、すべてのノルマを八時間以内に終えねばならず、今日も一日汗を流しながら走り回って終わった。
通勤用の自転車を押しながら、ちらほらといる残業終わりの社員たちとともに工場の門を出て、エメリヒはさほど懇意にしているわけでもない同僚と手を振ってわかれると、こだわって選んだイタリア製のシティーバイクにまたがって、家路についた。
通勤路は、学生の時の通学路と一部が重なっていて、その小麦畑と雑木林の間を通る道を
ドイツの南部、バイエルン州R市という所は、町の中心はそれなりに近代的な建物もみかけるが、中心からほんの二、三キロも郊外へと向かえば、もう畑と森の広がる地方都市である。
エメリヒ自身、この町を離れたのは大学の四年間くらいなもので、別段愛着があるわけではなかったが、だが、なんとなくこの町で暮らし続けていたのであった。
そんな伝統的な、白い壁にオレンジの屋根をした建物がならぶ見慣れた町の、もう目を
とつぜん家の角から女性が出て来、エメリヒはブレーキをかけつつハンドルをきった。
女性はあっと驚いて身を引いて、エメリヒは慣性の法則にしたがってちょっとスリップしてから止まった。
タイミング的にどちらが悪いというわけでもないのであるが、こんな時エメリヒは性分としてとりあえず謝するのが常であった。
「申し訳ない、お怪我は?」
問うエメリヒに、女性は驚いた顔のまま、
「ええ大丈夫よ」
と落ち着いて答えた。
ブロンドの長いウェーブのかかった髪がちょっとみだれて顔にかかっていて、それがどこか男心をくすぐるような色気があった。
そんな目で彼女を見ていることに気づいたエメリヒは、なんとなく照れて頭を掻こうとして、ヘルメットをかぶったままであることに気づき、途中でやめた。
そうしてもう一度、すまなかったね、と詫びて、再び自転車にまたがって、走り出そうとした時であった。
「エメリヒ?」
片足を着いて体をひねってエメリヒが振り向くと、彼女が言った。
「エメリヒ・クルツでなくて?」
間が抜けたような顔でエメリヒは彼女の顔をじっと見つめた。
彼女はこちらのことを知っているようだが、こちらとしてはまるで心当たりがないのである。
「グレートヒェン・コールよ。覚えていない?」
覚えていないわけはない。ギムナジウム(中学校から高等学校にあたる)の時にほのかな恋心をいだいていた相手であった。しかし、とエメリヒは思う。エメリヒの思い出の中の彼女は、髪はセミロングだったし、眼鏡をかけて化粧気もなく、同学年の女生徒達の中ではとりたてて目立つ存在ではなかった。だからこそ、エメリヒは心惹かれたのであったが。
そうして彼女の心象を描きながら改めて彼女の顔をみると、髪の毛は長くなって化粧は濃くなっていたが、ちょっと細めの目とちょっと厚めの唇に少女時代の名残が見られるようであった。
「十五年ぶりよね。あなたはちっとも変わらないのね」
エメリヒは
「あ、いや、君こそ、まだ若い……」
いささか頓珍漢としか言いようのない答えを返すのが精いっぱいであった。
ふたりはそのまま、目についたカフェに入って、道に面した窓際の席でコーヒーを飲んだ。
「今何をしているの?」
「ただのビール工場の従業員さ」
「ふふふ」
「おかしいだろ、ギムナジウムまで出て総合大学に進学して、結局はしがない肉体労働者さ」
「いえ、あなたを笑ったのじゃないのよ。私自身を笑ったの。私も今はスーパーマーケットでパート仕事をしているのよ」
「しかし良くなかったな」エメリヒは思いついたように話を変えた。少し下降路線をたどる話を打ち切ろうと思ったからであった。
「なにが」ちょっと不満そうにグレートヒェンは言った。
「男とふたりでカフェに入るなんて、旦那さんに悪い」
「いいの。もうずっと前に別れたわ」
「別れた?」
「そう。覚えていない?ローラント・ミュラー」
覚えているもなにも、ふたりと同学年の気障で嫌味な男であった。
「ちょっと見栄えが良かったし、話も面白かったし、なにより熱心に口説かれたものだから、まあこいつでいいかなって。まだ大学に通っているころに結婚して、子供まで作って。けど、うまくいかなかった。大学も中退して、スーパーの……」
グレートヒェンそう言って、苦く笑った。
「やめましょう。暗くなるだけだわ」
そこではっとした顔をして、グレートヒェンは無理に話をかえて、
「あなたのことを聞かせて、結婚は?」
「縁がなくってね」
「ひとり暮らし?」
「いや、年老いた母といっしょさ」
「親孝行なのね。ねえそれって東洋の血が流れているから?」
「どうだろう。ただ流され流され今に至る、と言ったところさ」
グレートヒェンはまたふふふと自嘲するような笑いを浮かべた。
「そんなところも一緒ね。なんだかふたり、似ているわね」
そう言って、窓の外の、通り過ぎる車に目をやった彼女の瞳が、うるんだように光っていた。
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