五の三 ヨンジャ 九月十二日 その二

 由里の、まるで接着剤で閉じられたように開こうとしないまぶたを、涙目で見つめるヨンジャの背に、ふっと気配が差した。

「その子はもう目覚めない」

 ふりかえってきっとにらむと、そこには、黒いパーカーを着てフードを目深にかぶった少年がベランダに立って、光の薄い目で部屋の中を眺めている。

「お前がやったのか、茂治!」

 ヨンジャは反射的に立ちあがり、立ちあがりざまに茂治に殴りかかり、衝撃波を放った。

 茂治は攻撃をさっとよけ、衝撃波はベランダの鉄の手すりにあたって、手すりをゆがませた。

 手すりの上に立った茂治はそのまま触手を使って庭に飛び降りた。ヨンジャもそれを追った。

 だが茂治は塀を乗り越えて道に出、一目散に駆け逃げていく。さらにヨンジャは追った。

クソ野郎ケセッキっ!」

 前を走る黒い背中を睨みながら、ヨンジャは罵った。

 なんだんだ、あの茂治という男子は。ヨンジャにストーカーまがいにまとわりついて超能力を伝授しろと迫ったと思えば、いつの間にか触手の化け物をあやつり、敵となって何度も立ちはだかった。そして、今度は私の大切なユリッペを襲うなど、頭がどうかしているとしか思えない。今度こそ絶対にぶっ飛ばしてやる――。

 茂治は逃げ、ヨンジャは追い、ふたりはいつしか線路と住宅に挟まれた道を走り、やがて、茂治がぴたりと足をとめ、ヨンジャもとまった。

 そこは、園庭の木木に埋もれるように園舎の建っている保育園の前で、その向こうには公園があって、周囲の民家からは離れていて、思いきり闘うにはおあつらえ向きといった場所だった。

 茂治がゆっくりとふりかえり、ヨンジャが飛びかかろうとした瞬間であった。

 横合いから不意に白い服をまとった女性が現れて、ふたりの間に割り込んだ。

 街灯に照らされた清楚に見えるその女性は、清楚であるだけに幽鬼のような美しさを醸し出していた。

「茂治君に罪はありません」

 整った白い顔の、ピンクに艶めく唇から、流れるように声が出た。静かだが決然とした言葉だった。

 ヨンジャは何か言い返そうと思ったが、頭に血が昇ってまったく言葉が出てこない。

「彼にはあなたを迎えにいってもらっただけです」

「な、なんだお前は」やっとのこと、しぼりだすようにヨンジャは言った。

「時詠の巫女、と呼ばれています」

「トキヨミ?」

「あなたのお友達がこんなことになって残念です。もう少し早くあなたと知り合っていれば、ふせぐことができたかもしれません。そしてこうなった以上、あなたには是が非でも我々と手を組んでいただかなくてはいけません」

「どういうことだ」

「お友達は、今魔物に心気を吸われ、心を失った状態です。あ、救急車は呼んでおきましたので、ご安心ください」

 そういえば、遠くで聞こえるサイレンの音は、由里の家に向かう救急車のものだろうか。

「ご家族もご無事だといいのですけれど」

 そう言って巫女はさも不安そうに目を細めるのだった。

「あなたにも聞こえるでしょう、空からの声が」

 巫女の唐突な問いに、一瞬戸惑ったが、ヨンジャはこくりとうなずいて答えた。

「あの声は、ひとりのミイラから発せられているものです。その声を聞く者達がしだいに集いつつあります。あなたにもそれに加わっていただきたいのです」

「それが、ユリッペと何の関係がある?」

「お友達を目覚めさせるには、そのミイラのもとにたどり着かなくてはいけない、ということです」

「そんな話……」

「信じてもらわなくてはいけません。あなたのその超能力も、聞こえる空からの声も、魔物との戦いも、すべてはミイラの導きによるものです。でなければ、あなたの身に起こっているすべての現象の説明がつきますか?納得できますか?」

 唇を噛んで、ヨンジャは女を見つめた。

「八月二十四日、モンゴル」

 その視界の中で、巫女はたおやかに手を動かし、ふところから一封の封筒を取り出し、それをヨンジャに差し出した。

「これには電車の乗車券や飛行機の航空券が入っています。どうか、私を信じ、一緒に来てください」

 しばらく、ヨンジャはその白い封筒を見つめ、逡巡した。

 いきなり現れて勝手な理屈を並べたあげくに、仲間になれと言う。この切符が入っているという封筒だって、ヨンジャをさらうための罠かもしれないのだ。しかし、由里のあの異様にすら感じる眠り方を思い起こせば、ここはひとまず巫女の誘いに乗ってみるしかないかもしれない、とも思える。

 ヨンジャは、震える手でその封筒を受け取った。

「では、モンゴルでお会いしましょう」

 時詠の巫女は、くるりと踵を返して去って行った。茂治が、ちらりとヨンジャをうかがった後、巫女の後を追った。

 去って行く彼女たちの背中をヨンジャは見送った。封筒を持つ手が小刻みに震えていた。

 ふたりは、街灯の明かりを出て、やがて暗闇にまぎれて消えていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る