五の二 ヨンジャ 九月十二日 その一

 ふと目を覚まし、ヨンジャが手を伸ばして枕元の時計を見れば、まだ夜中の二時であった。

 嫌な寝汗をかいていて、胸がざわついて落ち着かない気分で、もう眠れそうにない。

 それでもずれた掛け布団を掛け直して目をつぶってみても、やはり目が冴えてしまって眠気などは千里の彼方に遠ざかってしまった気分であった。

 ――この感覚は……。

 とヨンジャは思った。

 あの影の触手の出現する感覚だった。これまで不思議と夜中や、学校にいる真昼間に触手の魔物が現れることはなかったのに、今日に限ってどうしたことだろう。

 そして、ふと由里の顔が脳裏に浮かんだ。

 ――ユリッペが襲われるのじゃなかろうか。

 なんども寝返りをうって気持ちを落ち着かせようとするのだが、一度浮かんだ想念はまるでかき消すことができなかった。

 ヨンジャはそっと身を起こすと、二段ベッドの下で寝ている同室の内田晴香うちだ はるかを起こさないようにそっと降りて、音を立てないように靴を取り出すと、慎重にドアを開けて廊下へ出た。階下へ降りて寮長先生の部屋の前を抜き足差し足で通り過ぎ、裏口を開けた。扉を開けると、湿った夜気が頬にふれ、背筋に寒気が走るようであった。

 スニーカーをもどかしく履いて、表へと回って塀を乗り越えると、ヨンジャは走り出した。寝巻きのスウェット姿であったが、なに、人けなどまるでない深夜の町だ、気にすることはない。それよりも、由里のことだけが心配であった。

 外に出てみてはっきりとわかったが、やはり、魔物の出現している方角と由里の家の方角が同じであった。

 ヨンジャは駆けた。息は切れ、鼓動は高鳴り、全身が火照り、それでも必死に駆けに駆けた。

 静寂の中に黒黒と寝静まった家並みが横たわり、アスファルトを蹴る靴の音が家家の塀に反響した。

 由里の家にたどり着き、ヨンジャは息を飲んだ。

 無数の黒い触手が、庭からも隣家とのすき間からも湧き出していて、白かった家を黒く染めあげ、まるで家を押し潰さんとしているようであった。

 その時、二階の隅の戸が開いて、這いずるように白い影がベランダに現れ、手すりにしがみついた。

「ユリッペ!」

 白いパジャマ姿の由里にヨンジャは叫んだ。

「鈴ちゃん」弱々しく由里の声が答えた。「助けて、助けて……」

 その体に触手が巻きつき、部屋の中へと引きずり戻す。

 小さな体の飲み込まれた窓を見やり、ヨンジャは全身の血が逆流しているのを感じた。頭へと血がいっせいに登り、髪がざわざわと逆立つような感覚であった。

「私のユリッペに手を出すな!」

 ヨンジャは手足から衝撃波を放って、二階まで飛びあがった。

 六畳くらいの部屋の奥の壁際で、全身に触手が絡みつき、か細い手を伸ばし助けを求める由里の姿が目に入った。

 どっといっせいに触手がヨンジャめがけて襲いかかった。

 殴り、蹴り、衝撃波を飛ばして、ヨンジャは触手を消滅させていく。

 だが、ヨンジャの前進を阻むように、次次に触手が湧いて出てくる。

 ほんの数歩の距離なのに、由里ののばした手のひらまでの距離が、遥かに遠い。

 すぐに、ヨンジャの体にも触手が巻きつき、手足から出す衝撃波だけでは対処しきれなくなった。

「ユリッペ!」

 ヨンジャが手を伸ばす。

 もう少し、ほんの数センチで由里の細い指先に触れられそうであった。

 が、その細い手が、力を失ったように垂れさがった。

 そうして由里の体は、完全に触手の中にうずもれていった。

 黒い影でできた繭のような塊の中で、何が起きているのかは、わからない。

 やがて、包んでいた触手達が、いっせいにほどけていき、由里の体が姿を現した。同時にヨンジャを縛る触手たちもほどけて消えていく。

 緊縛がとけ、ヨンジャは由里に駆け寄った。

 由里はカーペットの上に身を横たえていた。

 ヨンジャは、崩れるようにその脇にしゃがみこんだ。

 恐る恐る由里の頬に手を伸ばした。

 温かかった。

 その手に息がかかった。

 ヨンジャはほっとした。

「ユリッペ、ユリッペ」

 肩をつかんで揺すった。何度も何度も揺すったが、由里はまったく目を開けようとはしなかった。

「どうしたの、なんで起きてくれないの、ユリッペ?」

 涙声になって、ヨンジャは由里を揺さぶり続けた。

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