五の四 ブライアン 九月二十三日

「ここからだと西へ、だいたい三百五、六十キロってところですね」

 Q市までの距離を問うたブライアン・ステイシーに、隣に座った中年男性の運転手が英語で答えた。事前に調査済みのことではあったが、実際に聞いてみたところで距離が縮まるわけでもない。

 モンゴルのチンギスハーン国際空港に昼過ぎに到着すると、時詠の組織が用意してくれていた4WDの車が二台待っていた。

 一台にブライアン、トバイアス・ケリー、井上環が乗り、もう一方にエメリヒ・クルツとソ・ヨンジャ、田村茂治が分かれて乗った。

 成田空港からチンギスハーン空港まで五時間ほどのフライトで、そしてさらに三百キロ半も移動せねばならず、ブライアンは溜め息とともに、車窓の外に広がる大平原を眺めた。時詠の巫女も、もう一日早い便の飛行機を用意してくれていたら、いま少し余裕のある旅行ができたのだが、しかし他人の金で旅行している以上、文句を言える立場でもない。

 日本のK市でほんのつかの間の邂逅をしたヨンジャとは、飛行機もずっと一緒だったが、無口な女の子だという印象だった。長袖のシャツにジーンズパンツという地味なコーディネートの服装をして、全体的に気取らない情性のようだった。

 ただ、年齢の近いトバイアスや環とはそれなりに会話していたようだし快活さも垣間見られたから、無口というよりは大人のブライアンとは何を話していいかわからない、といったところだろうか。

「モンゴルって言うと、なんとなく馬で移動なくちゃいけないと思い込んでた」

 車窓の景色をつまらなそうに眺めながら、トバイアスがそんなことを言った。

「まあ、それも風情もあっていいだろうな。本当はそういう旅行をお前にはさせてやりたかったんだがな」

「いやいや、先生、僕は車移動で充分風情を堪能していますよ」

「ははは、今日の泊まりはゲルだったりしてな」

「いえ、普通に綺麗なホテルですよ」とまじめな声音で答えたのは運転手だった。

「いやあ、ほっとした」と心底安堵した様子でトバイアスが言う。

 そうしてQ市のホテルに着いたのは、もう夜の八時であった。途中の休憩もあわただしいものだったし、結局今日は、広大な景色をおちついて堪能する暇がまるでなかった。

 そうして休む間もなく、ひとまず食事にしようということになった。

 食堂は白を基調にした洒落た造りになっていて、天井がガラス張りで夜空の下でご飯を食べるような気分であった。皆腹ペコであった。黙黙と味を味わいもせずに食べた。

 食事を終えた者から、三三五五部屋へと別れていき、最後に残ったブライアンは、腹ごなしにホテルの庭に出て夜空を眺めた。

 カリフォルニアの見慣れた夜空よりも、日本で見た夜空よりも、星が多いし、ひとつひとつが大きくて、手でつかめそうなほど近くに感じられる。町なかでさえこれほど美しいのだから、郊外に出ればもっと美しい夜空が広がっているのだろう。

 ブライアンはそっと天に向けて手を伸ばした。

 明日出会えるというミイラがどのような物かはわからないが、皆何かをつかもうとしている。

 ヨンジャは、意識を失った友達のためにミイラに会わなくてはならないという。

 エメリヒは、行方のわからなくなったグレートヒェン・コールという女性を探すためにここまで来た。

 ブライアンは、周囲の人人が意識をなくして襲って来る現象をとめるある種の使命がある。

 皆それぞれが何かしらの苦悩と希望を抱えてここまで来ている。

「そして俺は……」

 個人的な欲望を追加してお願いしたら、ミイラが神様でも宇宙人でもさすがに怒るだろうか。そう思って、自分の思いに苦笑した。

「なにやってんの、おじさん」

 振り向けば、環が薄手のカーディガンのポケットに手をつっこんで立っている。

「手をあげてニヤニヤして、怪しいったらないわよ」

 ブライアンは手をおろして、照れ隠しにそっぽを向いた。そして、

「綺麗な夜空だ。思わず手を伸ばしたくなってしまったよ」

 嘘をついた。

「ま、どうだっていいけどさ」

 環はブライアンの側にくると、夜空を見上げた。ブライアンもつられてまた見上げた。

「タマキ、ずっと訊きそびれていたけど、お前も空から声が聞こえるのか?」

「ううん、まったく」

「じゃあ、なんでついて来た」

「来ちゃいけなかった?」

「いけなくはないが」

「まあ、巫女さんに通訳として同行してほしいって言われたし、お金もくれるって言うしね。ただどころか給料もらってで旅行できるんだから、来なきゃ損じゃないの」

「なんだ、そんな単純な理由か」

 環は、ふんと鼻で笑ったようだった。それが自嘲の笑いであったのか、別の意味があったのかは、ブライアンにはわからない。

「あのさ、おじさん、これが終わったら、アメリカに帰るの?」

 しばらくして環がぽつりと訊いた。

「あたりまえだ」

「奥さん、待ってるもんね」

「さあ、それはどうかな」

「あのさ、もしも、もしもだよ、奥さんと別れることになったら」

「なったら?」

 環はその問いには答えを返さず、じっと夜空を見上げている。

「やっぱりいいや」

「なんだタマキ、ずいぶん歯切れが悪いな。いつものお前らしくないぞ」

「ああ、そうね。きっとこの夜空のせいね」ちょっとつっけんどんな環の口調である。

「なんだそれは」

「あ、うん、思っていたよりも冷えるわね。風邪ひくといけないから、もう部屋に行くわ。じゃあね」

 そそくさといった態度で、環は立ち去って行った。

 それを見送って、ブライアンも身震いした。

 このままじゃ、本当に風邪をひきそうだ。そう思いながら、ブライアンもホテルへと小走りに戻って行った。

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