三の八 ヨンジャ 八月五日
K市駅改札口前の待ち合わせ場所にやってきた由里はヨンジャに会うなり、
「高校二年の夏休みを無駄に過ごす所だったわ」
そう言ってにっこり笑った。
そうして女の子ふたりが連れ立って電車に揺られて、一旦N市まで出て新幹線に乗り換えた。
大阪府にあるT市という町は、大阪駅と京都駅のちょうど真ん中にあって、大阪にあるからといって新大阪駅まで新幹線で行ってしまうと、時間的にも財布的にも負担がかかってしまう。
そんなわけで、ヨンジャと由里は京都で新幹線を降りて在来線に乗り換えて、T市に向かった。
由里とは四月からクラスで顔を合わせていたものの、友達になったのはまだ間もないし、ヨンジャの親戚の家に泊まりで旅行するのはどうかとお互い思いつつも、由里が悪い子ではないというのはこの二週間で充分わかったし、T市の祖母に電話で話しをしたらぜひ連れてこいと言われたこともあって、二泊三日の予定で祖母の家に泊まることになったのだった。
由里は、ゆったりとしたシャツとスカートを着て、フェミニン感を全身から醸し出し、Tシャツにジーンズパンツというラフな格好のヨンジャがひそかに頬を赤らめてしまうほどの、いかにも女の子らしい可愛らしさであった。
T市の駅から出ると、ロータリーに祖母が車で迎えに来てくれていた。ヨンジャが由里を紹介すると、由里は丁寧に挨拶をしたうえに、スマートフォンを通じて母親からもよろしくお願いしますとこれまた丁寧な挨拶が祖母にされたのだった。
しかも、由里は現金ではかえって失礼にあたると考えたのだろう、両手いっぱいの土産物も携えていて、祖母はあとでヨンジャに、こんなにいただいては粗略にはあつかえないわ、などと困惑しつつもうれしそうに言ったものであった。
気がつけばもう昼をとうに回っていて、三人はファミリーレストランで食事をしてから祖母の家に向かった。
祖母の家は、大きな震災があった後に耐震強度を増すために建てかえられたというから、だいたい築三十年になるのだが、手入れが行き届いていることもあって、年月を感じさせない綺麗な建物であった。
母が結婚して家を出、叔母も独り身ではあったがひとり暮らしをしているので、祖父が亡くなってからは祖母はひとりでずっとこの家に暮らしていた。そんなこともあるせいか、ヨンジャが遊びに来るといつも下にも置かないもてなしで迎えてくれるのだった。今日も、家に到着するとすぐにジュースやアイスクリームやお菓子がテーブルに並べられ、(お土産のお礼ではなく)いつもこうなのよ、とヨンジャは由里に苦く笑うのであった。
夕飯は近所の在日コリアンのおばちゃんが営んでいる焼き肉店に行った。
おばちゃんはヨンジャのことも昔からよく知っていて、祖母の家に遊びに来るたびにこの店に来るものだから、会うたびに大きくなるヨンジャに、また大きくなったわねえ、と言うのが挨拶のようなものだった。
由里は、さすがに韓国通だけあって、骨付きカルビはスジまで綺麗に食べてしまうし、ピビンパも見事なまでに混ぜあげて食べた。ヨンジャはどうせ日本人はピビンパを混ぜても申し訳程度にちまちまと混ぜて食べるものだと思い込んでいて、由里に食べ方を指南してやろうと身構えていただけに、いささか拍子抜けした気分であった。そうして混ぜ合わせたピビンパを口に運ぶときに、どんなもんだとばかりにしたり顔をする由里がちょっと小憎らしくも感じたのだった。
翌日は、隣のH市にある遊園地にふたりで行った。
由里はそのおとなしそうな見た目とはうらはらに、絶叫系のアトラクションが大好きで、ふたりで、声が枯れるほどきゃあきゃあ言いながらジェットコースターや上空から落ちる乗り物に何度も乗り、観覧車でいっしょに町を眺め、笑って叫んで心の底から楽しい一日をすごしたのだった。
その夜のことである。
ふたりは別の部屋に寝室が当てられていたのだが、ヨンジャが疲れの溜まった脚をさすりながら布団に身を横たえると、ドアをノックする音がする。
開けると、布団を抱えた由里が立っていた。
「せっかくだから、ふたりで寝ましょうよ」
そう言って、ヨンジャの了解を聞く前に布団を運び入れてしまい、ふたりは並んで床に就いたのだった。
電気を消しても、ヨンジャはなかなか寝付けなかった。体は疲れているのに、何かどきどきと上気したようになって眠気はまるで訪れようとはしなかった。
しばらくすると、
「ねえ、鈴ちゃん、寝た?」
ぽつりと由里が聞いてきた。
「ううん」
「そうよね、やっぱり他人といっしょじゃあ、寝つけないよね」
「いや、寮はふたり部屋だし、他人といっしょに寝るのは慣れてるよ」
「やっぱり昼の興奮が冷めないのね」
「うん、そう」
「私、ちょっとはしゃぎすぎちゃった」
「ユリッペがあんなに絶叫系が好きだとは思わなかった」
「ああいうのは、なんとなく鈴ちゃんの方が好きそうに見えるわね」
「ほんとはそうでもないけどね」
「楽しかった。あんなにいっぱい叫んで、いっぱい笑ったのは久しぶりよ」
「私も」
「鈴ちゃん、私ね」由里はこちらに向けて寝返りをうったようだ。
「なに?」
「私、あの時、勇気を出して声をかけて本当に良かった」
「…………」
「ひとりでケヤキの下でうつむいている鈴ちゃんを見かけて、何話していいかわからなかったけど、居ても立ってもいられなくって、気がついたらあの場所に立っていたの」
由里の声は消え入りそうなほどか細くなっていった。
私の方が良かったのだ、とヨンジャは思った。声をかけてくれて、日本に留めてくれて、こんなに楽しい気持ちにさせてくれて。
由里といるとヨンジャの心は、暖炉の火がともったように温かくなるのだ。これまで韓国の友達といっしょにいてもこんな温かさは感じたことがなかった。言葉にできない不思議な温かさだった。
「でも、ミンミンゼミはなかったわね」由里は恥ずかしそうに言った。
「ミンミンゼミ」
「ふふふ」
「ふふふ」
ふたりの間に眠りが訪れるのは、まだしばらく先のことであった。
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