二の十二 ブライアン 七月十四日

 ブライアンは街灯に照らされた外の景色を、アビゲイル達が追ってこないか、窓からじっと見張っていた。

 後ろにあるベッドの上からは、トバイアスのひそやかな息づかいが聞こえてくる。

 町はずれの安モーテルは、部屋全体がかび臭かったし、ベッドのシーツもなんだか湿っているようで、泊まり心地の良い部屋ではまったくなかった。窓から見る風景もくすんで見えるほどガラスが汚れているし、ただ部屋にいるだけで体中が痒くなってくるような気がしてくるくらいであった。

「トバイアス、いつまで起きているつもりだ。早く寝るんだ」

 後ろを振り返りもせずに、ブライアンはベッドに寝転がる少年を叱った。

「そう言われても、あんなことがあった後だっていうのに、眠気が訪れてはくれませんよ」

 ブライアンはちらりと壁にかけられた時計を見た。

 いつの間にか深夜の零時はとうに回って、日付が一日進んでいた。

「いつまでも、スマホばかりみているから眠れないんだ」

「スマホじゃありませんよ、タブレットです」

「御託はいいから、電源落として寝ろ」

「もうちょっとだけ。このつまらない小説がきっと眠気を運んでくれるでしょうから」

「なにがそんなに目が離せないんだ」

「中学校の教師が若返って青春をやり直して、自分の生徒と恋に落ちるっていう、とんでもなくつまらない素人小説です」

 ブライアンはどこかで聞いたような小説の内容に、苦い虫を噛み潰したような顔でトバイアスに振り返った。

「ステイシー先生」とあきれたようにトバイアスは話すのだった。「先生の小説は、ライトノベルにしては文字が多いし表現が硬いし、一般文芸にしては、表現力がいまひとつ足りない。語彙力だけの頭でっかちな内容ばかり。アマチュアとしてはまずまずだけどプロには遠く及ばない。そんな中途半端な小説しか書けないから、読者がつかないんでよ」

「大きなお世話だ。って、おい、どうして俺が小説を書いているとわかる」

「わかりますよ、それくらい。ステイシー先生だけじゃありません。フェリーニ先生のブログだって見つけたし、テンプルトン先生のツイッターだって知ってますよ」

「お前な、その熱意を、どうして勉強に向けられんかな」

「それはそれ、これはこれ」

「まったく」

「そんなことより先生」

「なんだ」

「このまま僕を連れて逃げてくれませんか?」

「いや駄目だ。お前はしかるべき施設でしばらくあずかってもらう。まあ、ご両親には悪いが、虐待の懸念があるとでもいう理由をこじつけてな」

「それじゃあなんの解決にもならない。日本に逃げましょう」

「日本だって?なんだ唐突に」

「きっと何かあるんです、日本に」

「空から聞こえる声が教えてくれるのか?」

「空の声はそこまで詳細に教えてくれはしません。まあ、僕の勘みたいなもんです。だいいち、施設に入ったって、また周りの人がおかしくなって、襲ってきますよ」

「この間生徒たちがおかしくなったのは、例の儀式の影響だろう?」

「でも、儀式に参加していない先生たちも、父も母も、先生の奥さんだって襲ってきたでしょう。儀式だけが要因でああなったとは考えられないんですよね」

「しかし、日本ねえ」

「日本には僕たちと同じように空の声が聞こえる人がきっといます。それを探すんです」

「そう言われてもなあ。日本って小さな国のイメージだが、ここカリフォルニアをひと回り小さくしたくらいの面積はあるんだぞ。人口だって一億二千万人もいるんだ。探すって言ったって、広すぎる」

「行けばなんとかなりますよ」

「短絡的すぎる」

「急がないと両親が、僕が先生に誘拐されたって、届け出るかもしれません。そうなっては、出国なんて無理でしょ」

「だから、誘拐犯にされる前に、お前を施設まで連れて行くんだよ」

「それだと、また襲われるって……」

「やめよう、話が堂堂巡りになる」

「先生が僕のアイデアを素直に聞いてくれれば、深夜に無駄な議論をする必要もないわけですけど」

「わかったわかった、ひと晩考えておくから、とにかく眠れ」

 トバイアスはしぶしぶタブレット端末を枕元に置くと、掛け布団にくるまるのだった。


 夜が明けてから、ふたりはモーテルを出て、ブライアンの家に向かった。日本に行くための荷物を整えるためであった。トバイアスのほうは用意周到で、着替えもいくばくかの金銭も、パスポートさえもリュックに詰めて持ち出していた。

 家から少しはなれて、街路樹に隠れて様子をうかがっていると、アビゲイルがガレージのシャッターを開けて車で出て行った。いつも出勤するのとまるで変わりがない様子である。二階が散らかっていることも気付いていないのかもしれないし、ブライアンがいないことにすら気付かず、寝過ごしているくらいに思っているのではなかろうか。

 学校での騒動の後、すぐに皆が普通に戻ったことから考えても、おそらく彼女もトバイアスの両親も、自分たちがおかしくなったことにさえ気づいていないのだろう。

 ――あの人間変貌現象はいったいなんなのか。

 そんなことを考えながら、ブライアンは家に入って、念のため部屋を見て回ると、ダイニングのテーブルの上に皿とシリアルが置いてある。妻が用意してくれていったものらしい。

「トバイアス、あのシリアルでも食べていなさい。牛乳は冷蔵庫にある」

 ブライアンはそう言いつけて、自分の部屋に向かった。本棚をもどし、散乱した本を片付け、カバンに荷物を詰め込んで、部屋をでた。ドアは、幸い蝶番がぐらついているくらいで、閉めておけば壊れているとはわからない。

 階下に戻ると、感心なことにトバイアスは食器を洗って片付けていた。

 静寂に包まれた居間を眺め、心残りを振り切るようにうなずくと、ブライアンは少年の肩を抱くようにして、家を後にしたのだった。

 ――マモレ。

 空から声が降ってくる。

 ブライアンは空を見上げた。

 トバイアスも声が聞こえたように空を見上げた。

 空にはちぎれた綿菓子のような雲が斑に浮かんで、ふたりを包むように広がっている。

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