三の十 エメリヒ 八月十一日

 部屋の片側の壁を埋めるように積まれた段ボール箱を眺め、右に左に首を振る扇風機に吹かれながら、エメリヒは途方に暮れるような気持ちだった。

 この一週間でやっと五箱の中身を調べ終えた。ひと抱えあるサイズの箱が残り十箱ほどもある。目まいしそうなほどの分量である。

 祖父母が東京へ出る前に、かつて住んでいた家は、木造の西洋風の、昔にしては洒落た造作の建物だったのだが、老朽化が進んでしまって、いつ倒壊するかもわからないくらいだったから、近年取り壊すことになった。その家は山本家が管理していたのだが、取り壊す時に家の中の整理をすると、置き去りにされた家具とともに、祖父の著書や論文、研究資料や、メモやノートが膨大に残されていた。価値があるかどうかもわからず、捨ててしまうのももったいない気がして、山本家では段ボールに詰めて、倉庫に保管してあった。それをこの度、山本家一同の助けを借りて母屋の一室に運び込んだわけであった。

 本当に、この中に、グレートヒェンの言う何か大切なものがあるのならいいのだが、ないとなればとんだ無駄骨折りになってしまう。

 しかも、ほとんどドイツ語で書かれていたのだが、ドイツ語であるにもかかわらずエメリヒが読んでもまったくちんぷんかんぷんな、難しい語彙の並んだ学術資料ばかりであった。祖父の著書は、東京の図書館でずいぶん調べたから、今は除外していたが、それでも残りの資料はそうとうな分量であった。

「どうエメリヒ、はかどってる?」

 お盆にお茶を乗せた郷美が襖を開けて入ってきた。

 若い頃は痩せぎすだった彼女の体には、健康的にずいぶん肉がついて、肌にも張りがあって皺もほとんどない。結婚はしていないらしく、会社勤めにもなじめず、今は農業に本腰を入れてたつきにしているのだそうな。

「窓開けててもかび臭いわねえ」

「こんなにたくさんの資料を保存しておいてくれて、山本家の皆には感謝してもしきれないね」

「まあ、正直、捨ててしまってから価値のあるものだった、って後後わかると悔しいから、取ってあっただけなんだけどね」

「俺にも価値があるかどうかまったく見当がつかん」

 郷美は眉根を寄せてじっとエメリヒを見つめて、エメリヒの言葉を聞いていた。エメリヒの片言の日本語は、耳をかたむけるようにして聞かないと理解できないらしい。

「大切なものを探すって話だけど、なにかとっかかりみたいなものはないの?」

「まったく、風を捕まえるような気分さ」

「そういえば、どこかに日記みたいなものがあった気がするけど。エメリヒのお祖父さんやお祖母さんにしてみれば、大切なものなんじゃないかしら」

「日記ねえ」

 その着眼点はなかったな、とエメリヒは思った。重要なものなら学術的な資料なのだろうと思い込んでいた。

 研究資料を読むのにも飽きてきたこともあって、ひとつそのたぐいの物を探してみようという気が急激に湧いてきた。

 そうして郷美にも手伝ってもらい、小一時間ほども残りの箱を手あたりしだいにひっくり返すようにして、ようやく三冊の、ハードカバーの分厚い日記帳を見つけ出した。

 ぱらぱらとめくってみると、ドイツ語の、祖父の癖のある文字で、始まりは祖父母が満州へ住み始める直前くらいから、終わりは祖父が亡くなる前まで、書きとどめられていた。

 時代の流れにに流され満州に住むことになったが無聊に耐えかねて日々のことがらを思いつくままに記すことにする、と何かのエッセイの序文のような書き出しであった。

 そうして、クロサキという日本の博士に呼ばれてトルコのアララト山へといったん向かい、後に満州へ向かったことが書かれている。

 この日本からの招聘が、満州に、そして数十年日本に住むことになったエメリヒ家族の発端であったろう。

 満州に着いてからは、こちらに骨を埋める覚悟だ、とか、もう故国に帰るつもりはない、などと何度も書かれている。まるで自分に言い聞かせているような書き方であった。

 さらにページをめくると、一行の短い文章が胸をついた。

 ――ヘレナはユダヤ人だから、もうドイツには帰ることはできない。

 その一文は文字が太くインクが濃く、祖父の強い決心がそのまま文字に乗り移っているようだった。

「お祖母ちゃんがユダヤ人……」

 まったく聞いたことがなかった。

 祖母は確かエメリヒが十二、三の頃に亡くなっていたから、往時の物語を話す機会が充分あったはずだが、そんな話は聞かせてくれなかった。父も知らないわけはなかったが、それでも話そうとはしなかった。祖父母にしても父にしても、隠すつもりはなかったのだろうが、祖父の仕事の人脈を利用して迫害からのがれた事実を、どこか引け目に感じていたのかもしれなかった。

 そのページを読み終わると、日本の軍部とつながりがあった祖父が、情報を得ることで都合よく戦火から逃げ続けていたという思い込みからくる嫌悪感が、ふっと消えていた。

 祖父が逃げていたのは戦火ではなく、迫害であったのだ。祖母を守るために、国を捨てて異国で生きていくことを決意した祖父の心境とはどのようなものであったのだろう。

 そう思うと、エメリヒの胸の深奥からなにか熱いものが込み上げてくるようだった。

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