三の十一 茂治 八月十三日
茂治が二階のベランダに出ると、暗く滞留した闇の中、煌煌と周囲をライトで照らされた産廃業者の重機置き場が嫌でも目に入り、とたんに吐き気をもよおした。
あの醜くめざわりなゴミもいつかはこの世から消滅させてやろう――。そう思いながら、手すりを乗り越えて舞いあがり、触手を使って、ふわりと庭へと着地した。
深夜の生ぬるい風の中、黒いパーカーのフードを目深にかぶって、茂治は今日も「清掃活動」へと出かけるのだった。
家の前の狭い道路をしばらく歩き、隣の工場の角を過ぎた時だった。
工場の駐車場に止めてあった黒いセダンが、ゆっくりと動きだし、茂治を追いこして止まった。
そうして後部座席のドアが開き、茂治が中を覗き込むと、あの巫女と呼ばれる女性が座っていた。
運転は見知らぬ運転手がいて、助手席には気障なウォンという男が黙然と座っている。
「茂治さん」と巫女は言った。「乗ってください」
茂治は思わず息を飲んだ。不思議と不安はなく、期待と好奇心をないまぜにした思いを胸に、吸い込まれるようにして、フードをあげながら助手席の後ろの席に乗り込んだ。
するとドアが自動で閉まり、車が動き始めた。
巫女はじっと黙り込んでいる。
茂治自身も話すきっかけがまるでつかめず、ただ黙って外の移りゆく景色を眺めていた。エンジン音だけの車内で、静寂の時間だけが流れていった。
そうして数分も経った頃だろう、ふと巫女が口をひらいた。
「私は残念でなりません」
巫女へと顔を振り向かせたが、茂治は彼女の言葉の意味がまるで理解できないでいた。巫女は前を向いたまま、茂治を横目で見さえもせずに続けた。
「私があなたに妖魔との融和を勧めたのは、愚かな行為をさせるためではありません」
「おろかな……?」
「町の不良たちを痛めつけるような行為です」
「しかしそれは」
「自分の澱んだ憤懣を晴らすために人を傷つけるなど、愚行以外の何物でもありません。いつか自戒するだろうと見守っていましたが、その期待も裏切られました」
巫女はぴしりと鞭を打つように言った。
茂治の胸に引き裂かれるような衝撃がはしり、まるで返す言葉が思いつかなかった。ただ、羞恥のあまり頭を垂れるしかなかった。
「先日、アメリカから来訪された人たちを襲撃したのも感心いたしません」
「ぼ、僕は」
「私のためにしてくれた行為だとはわかっています。ですが、チカラを使って人を脅すなど論外です」
そして巫女はやっと茂治の顔を見た。
「今後二度と愚行を犯さないと約束できないのでしたら、残念ですがあなたとのご縁を断たざるをえません」
「待ってください」
反射的に茂治は言った。引きつったような声音であった。
「あなたに見捨てられたら、僕は生きていけません。赦してください、どうか、赦してください」
その声は、まるでいたずらをした子供が母親に泣いて謝るような、悲痛な調子になっていた。
「もう二度といたしません。誰かを傷つけるようなことはいっさいいたしません。どうか、僕を見捨てないでください」
茂治は彼女の肩にすがりつこうと手を伸ばしかけたが、その手は彼女に触れられはしなかった。茂治が触れるには、彼女の体はあまりに高貴で清らかであった。彼女に伸ばした手のひらは、そのまま彼の脚へとおろされ、ぎゅっとその膝がしらをつかむのだった。
「約束です。いいですね。二度と私を落胆させないでください」
そうして巫女が運転手に、茂治の家まで戻るように命じたのを、茂治は止めた。家からもう五キロばかりも離れていたけれども、ここから歩いて帰りたい気分であった。
茂治の気持ちを察したのだろう、巫女も無理強いはせずに、茂治をおろし、車は去って行った。
家家は夜の闇の中に沈み、虫の音に支配された町を茂治は歩いた。
歩きながら、涙がこぼれ出て、滂沱としてやむことを知らなかった。
自分の思いが巫女に伝わっていなかった、とは思わない。自分のしてきた行為のその内に秘めた思いは、彼女は充分わかっていたのだろう。わかっていながら、叱責したのだと茂治にも推察できた。
巫女様は自分を理解してくれている。自分の人格を理解してくれている。理解してくれているあの方のためならば、この命をなげうってもおしくはない。
そうして彼は涙を流し続けた。
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