四の五 エメリヒ 八月十七日
警護役の女刑事は、まだ犯人の仲間が近くにいるといけないから、とグレートヒェンの側を離れようとしなかった。病院の待合室で治療の順番を待つ今も、後ろの席に腰かけて絶えず周囲に注意を払っているようだ。
グレートヒェンはずっと謝辞を繰り返すばかりだったが、エメリヒが肩を抱き、心と傷の痛みをさするようにいたわると、しだいに気持ちがやわらいできたのか、ぽつりぽつりといきさつを語り始めたのだった。
「あなたと出会ってしばらくしてからだったわ。ジークリンデ・ラウエンシュタインという私たちと同じくらいの歳かっこうの女が現れたの。そう、さっき私を切った女よ。ジークリンデはは言ったわ、金をやるからエメリヒの動向を報告しろ。そして日本へと向かわせろ」
「…………」
「正直、お金は喉から手が出るほど欲しかったし、その誘いを受けてしまったの。でもあなたと接しているうちに、あなたに惹かれていった。それで、これ以上あなたを
グレートヒェンの声はかすれて耳を寄せないと聞こえないくらいのか細さであったが、エメリヒはじっと聴きつづけた。
「ところが、私が犯人だと警察に誤認させたことがかえってあだになったのよ。警察は実は私を犯人として捕まえたんじゃなく、そうみせかけて、私と接触してきたの。このままジークリンデと取引を続け、彼女を表に引きずり出してもらいたい。日本に行かなくてはいけないのなら、日本の警察とも連携をとるから、って」
「なんでそんな危険な任務を引き受けたんだ。結局こんな怪我をしてしまったじゃないか」
「そうしなければ、用が済んだら私は消されていたわ」
「なぜ俺に話してくれなかった」
「話せば、あなたを危険に巻き込むことになってしまうわ」
「だとしてもだ」
エメリヒは言葉が続かなかった。グレートヒェンに対する怒気も憤懣はなく、ただ敵に対するあまりの怒りとくやしさで胸が膨満するようだった。
「そうまでしてあいつらは、なぜ、こんな古い日記を欲しがったんだ」
「アーリア人至上同盟。彼らは自分たちの組織をそう呼んでいた。何かアーリア人の至上主義を証明するための、アーリア人の根源にかかわる何かを手に入れるために、その日記が必要なのだそうよ」
「馬鹿馬鹿しい」
エメリヒは唾棄したい気持ちであった。ここが屋外であったなら、じっさいそうしていただろう。
「何がアーリア人至上主義だ。そんなくだらないまやかしのような主張のためになぜ君が傷つかなくてはいけいない、俺がこんなに苦しまなくてはいけない」
が、グレートヒェンは答えなかった。
答えないまま、呼びに来た看護師に付き添われて治療室へと向かって行った。先に待っていた患者も幾人かいたが、傷を負って出血をしているものだから、順番を早めてくれたようだった。
しかしこうなってみると旅行の計画を立てている時に、旅行保険に加入していたのが幸いであった。でなければ、治療費を払えていたかどうか。
治療を終え、手続きを済ませ、薬の処方箋をもらって病院を出ると、外はもう薄暗くて、生ぬるい夜気が頬に吹きつけてきた。と、黒縁眼鏡の、気障な感じのする男がつっと近づいて来た。
護衛の刑事がグレートヒェンの前に割って入るのに、男はまるで気にもとめずにエメリヒに話しかけてきた。流暢なドイツ語であった。
「私はルーファス・ウォンと申します。ご懸念を承知のうえで申し上げますが、これよりその本の秘密についてお教えしたいと存じます。ぜひとも、ご足労願いたい」
「そんなことはゆるせません」女刑事がぴしゃりと言った。
「いえ、これは言葉たらずで失礼をしました。コールさんはお怪我のこともありますので、お休み願うとして、クルツさんだけでもおこしくださいませんか」
「それには、さっき騒動の時に見かけた黒髪の女性や、旅行者らしき人達もいっしょなのでしょうか」エメリヒが用心深く訊いた。
「はい、皆さまご同席のうえで、すべてをお話しいたします」
エメリヒは、
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