三の五 ブライアン 八月一日
ドーム球場が空からのしかかるようにブライアンとトバイアスの視界を覆っていた。その異様な圧迫感を真正面から感じながら、そこに至る道を歩いていた。
そうやってN市の町なかをあてどなく歩き続けるトバイアスに、焼けつくような暑さも手伝って、ブライアンはひとつ嫌味でもいってやらねばという気になっていた。
「おい、トバイアス。ここにきてもう一週間になるんだぞ。なにかあるとかないとか、いい加減わかりそうなもんじゃないか?」
「いや、この辺に何かある、というか、誰かいるという感じだけはするんですよ。ただそれが、近くにいるような、遠くにいるような」
「お前、浜名湖でもそんなことを言っていたよな」
「いや、あれは嘘だったけど、今度は本当」
「嘘ってお前、結局遊びたかっただけだったんだな」
「良かったでしょ、浜名湖の景色」
「いいか、ブライアン、俺たちは、お前のご両親に黙って、日本に来ているんだ。お父さんやお母さんを心配させて申し訳ないと思わないのか?」
「大丈夫、両親にはちょくちょくメールを送ってますから」
「それで納得してくれてると思うか?」
「そうですねえ、先生に僕が誘拐されたと警察に届け出ている可能性もありますね」
「だったら俺は国際指名手配犯ってことになるな」
「ま、すべては僕の証言しだいでどうにでもなる話ですけどね。僕が望んで先生と行動を共にしていると証言するか、はたまた、無理矢理連れまわされていると証言するか」
「生殺与奪権を自分が持っているとでも言いたげな口ぶりだな」
「実際そうでしょ」
「日本の警察が、まじめで職務に忠実な教師の言いぶんと、不登校生徒の言いぶんのどちらを信じるか、ためしてみるか」
「涙ながらにいたいけな少年が訴えれば、信じない大人はいないと思うけどな」
「そう簡単に大人を思い通りに動かせると思うなよ。いいか、世の中は不合理で満ち溢れている。お前はまだ知らないだろうが、生きていても、自分の思い通りになることなんて、ほとんどないんだ。いくらがんばっても、いくら自分が正しくってもだ」
「先生も変わったなあ」
「なんだと、偉そうに」
「昼は機械的に生徒に世界史を教えて、夜は愚痴まじりの小説を執筆するだけの冴えない生活を送っていた底辺教師が、今じゃあ刑事ドラマの頑固で融通がきかないけど人情に厚いボスみたいな口ぶりになってますよ」
「俺はもともと人情味に厚い人間だよ」
「あのう」と後ろから女の声が、ふたりの会話を掻き分けるように入ってきた。「いつまでもぶらぶらしてないで、ちょっと休もうよ」
「なんだタマキ、まだいたのか」振り向いたブライアンがにべもなく答えた。
「なんだはないでしょう」
とふくれっ面をしたのは、先日噴水の前で出会った女であった。女は
「道案内と通訳で一日一万円。という契約でしょう」
「それはお前が勝手に決めた契約だ。俺は一度もうなずいちゃいない。それにだ、日本の最低賃金がいくらか知らないが、アルバイト代に一日一万円が法外な労働賃金だというのは勘でわかるぞ」
「あなたたちが道に迷わず、こうして町を歩けるのは誰のおかげかしら」
「現代ではスマホに地図アプリが入っている。お前がいなくても何も困らん」
「買い物や食事の時に、なんの不都合もなく店員とやりとりできるのは誰のおかげかしら」
「それも、スマホに通訳アプリが入っているから、なんとかなる。もうつきまとわないでくれ」
「いいじゃない、先生」とトバイアスが環の肩を持つように、「僕、お姉ちゃんのこと好きだな」
「ありがとうガキンチョ。でも、あんたに私はまだ早い」
「そういう意味じゃないけど」
そう言って、トバイアスが、ぴたりと足をとめた。
「どうしたトバイアス」
「先生、今一瞬、もうちょっと北の方に何かある気がした」
「北に目的の物があるんだな、または人物が」
「たぶん」
それを聞いていた環が、北ならK市だと言った。
「ここからだと電車に乗れば、十分か十五分か、そんなもん」
環の説明を聞きながらブライアンが腕時計を見ると、もうじき正午であった。
「昼飯食って、そこまで行ってみるか」
K市のその名を冠した駅で降りて、
住宅街と線路に挟まれた道を北東へとしばらく歩いた。
右手に走る線路は土手状になっていて三メートルほど上を線路が通っていて、その線路下の通路をくぐると、狭い土地にぎっしりと詰め込んだような田園風景に出た。
線路の土手と川の土手と住宅に囲まれて、ところどころに雑木林があって、田園としての美しさはいまひとつたりなかったが、それでも、日本のあおい稲が絨毯のように敷き詰められた風景は、ブライアンやトバイアスの目には新鮮に映るのだった。さわさわと稲をゆらしながら田んぼの上を吹き渡ってくる生暖かい風には、爽やかな水稲の香りがまじっていて、ふたりに異国にいるのだという実感を沸き立たせる。
三人は赤トンボが跳ねるように飛び交う田のなかの、車一台分くらいの狭い道を歩いて、線路の方から川の土手の方へと、狭い田園を横ぎっていった。
すると、田んぼの向こうの川の土手の方から、黒いパーカーのポケットに手をつっこんでフードを目深にかぶった、ティーンエイジャーと思われる若者が背中をまるめて歩いて来る。
三人は立ち止まり、いささかの怪しさをかもしだしているその若者をやり過ごそうと、狭い道の脇に寄った。
当然通り過ぎると思われたその若者は、三人の手前三メートルばかりのところで足をとめた。
「この先は行き止まりですよ、皆さん」
そう言って、フードの奥の底ぐらい光を持った目で、こちらをじっと見つめるのだった。
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