二の十四 ヨンジャ 七月二十日
学校の、蝉達の歌う大合唱に包まれた中庭で、ヨンジャはただひとり
その五メートルばかりのケヤキは、ヨンジャを包むように大きく枝葉を広げて、
特に明確な理由はないのだけれど、ヨンジャはこの木が好きだった。学校の中庭の沢山植えられている種種雑多の木のなかの、ただの一本の木なのに、寂しいとき、悲しいとき、この木の下のベンチに腰かけ、無数の葉のあいだから空を透かしてみると、なぜだか心が落ちつくのだった。
ヨンジャは今、その中庭の片隅にある木のベンチにすわり、通りすぎる生徒たちのに目を這わせた。
ああ、この風景をみるのも今日が最後になるのか、そう思うとヨンジャの心はどんどん空虚になっていくのだった。
梅雨のあけた真っ青な空に輝く太陽から、昼前の力強い日差しが木木にふりそそぎ、放課後の中庭に、光と影がはっきりとしたコントラストを地面に描いている。
終業式も終わり、生徒達は一学期の終わった開放感と明日から始まる夏休みへの期待感に、浮かれながら下校していく。みんな楽しそうに笑い、大声で友と語り、青春の日日を謳歌している。
そんな周囲の陽気さと、自分の内面との落差が大きすぎるせいで、ヨンジャは周りの物に現実感を持てずにいた。まるで、自分は本当はここに存在せず、今見ている景色はすべて夢か幻のなのではないか、とさえ思えてくる。
本当の自分は、真っ暗な洞窟のなかにある、大きな水たまりに浮かび、うとうとと夢とうつつの間をたゆたいながら、ぽつりぽつりと落ちる水滴の音を聞いているのではないか――。
ふと、耳にこだまする蝉達の声に、夢想の空間から現実にひきもどされた。
ジイジイ、ビービーと鳴く蝉達の合唱の中で、たった一匹だけミンミンと鳴く声が聞こえてくる。その寂しい声はある種の不協和音にも聴こえるのだった。
耳をすますと、鳴き声はかたわらのケヤキから聞こえてくるようだ。
誰か、この庭にいる人たちのなかに、この声の不思議さに気がついている人はいるのだろうか。
どれだけ鳴いても誰も気にとめない、いくら鳴いたところで他の蝉にも相手にされない。ただ鳴きつづけ、けっして伴侶と出会うこともなく、ひとり寂しく命を落とすことになるのだろうか。
――あなたも迷子なのね。
この学校で、ヨンジャはひとりぼっちで過ごした。この四カ月は暗く湿ったような思い出しか残ってはいなかった。
――ゆるしてくれるよね……。
留学を喜んでくれて、自転車や制服を買いそろえてくれた大阪のおばあちゃんのことを思うと、ふと眼のふちに冷たいものが湧いてくるのを感じるのだった。
そろそろ、職員室へ行って、担任の先生に帰国の届を出しに行かなくては。
目尻を指でそっとぬぐいながら、ヨンジャがベンチから立ちあがったとき――。
「ミンミンゼミ……」
いつの間にか、そばに立っていた女生徒がつぶやいた。
あわてて目尻をぬぐいつつ、ヨンジャはその女生徒に顔を向けた。
――この人は……。
同じクラスの、
ヨンジャはたじろいだ。同じクラスではあったけれど、これまでほとんど言葉を交わしたことがなかった人が、なぜ突然ここに、瞬間移動でもしたように現れたのだろう。由里はケヤキの幹に手をかるくふれて、見上げるようにしていて、ミンミンゼミを探している様子だ。
青青と生い茂った葉の隙間から降る木漏れ日が、由里の軽くカールした長い髪と小さな丸い顔と真っ白な夏のセーラー服をまだらに照らし、その姿はちょっと幻想的にさえ見えた。
「ミンミンゼミ、ほんとはこの辺りにはいないのよ」
ヨンジャは、虚をつかれた気分で由里をみつめた。なんということもないただの蝉の声に、心を傾けるような人が自分以外にもいるのか、と思った。
「本当はこの町にはいないのだけれど、峠を越えて岐阜の方に行くといるのよ。ちょっと不思議よね」
由里はケヤキの茂った枝葉を覗き込むようにして言った。
「車にでもくっついてここまで来てしまったのかしら。十キロばかりも、大冒険ね」
が、その時、由里の気配をさっしてか、蝉はふいに鳴きやむと、じじじという羽音をさせて、中庭のどこかへ飛び去り、まったくどこにいったのか行方しれずになってしまった。
「あら、飛んでいってしまったわ」
さほど残念でもなさそうに、由里はつぶやいた。そうしてそのまま、ヨンジャのいるベンチに腰をおろした。ヨンジャもつられて、また腰をもとにもどしてしまった。
ふたりの間を沈黙が支配した。周りの生徒たちの喧騒も、蝉たちの鳴き声も、ふたりの周囲の空間では遮断されたように感じられた。
「西さん」
と小川由里はヨンジャを丸い大きな目でじっと見つめてきた。
「は、はい」
「西さんは、明日からの夏期講習は来るの?」
ヨンジャは戸惑った。もう今日でこの学校とはお別れするのだと、とっさには言い出しにくかった。その戸惑いのなかで、
「どうしようかな」
そう答えてしまった。
「じゃあ、来てよ。私も来るから」
「え、でも」
「そうしましょう、約束、ね」
由里は立ち上がると、じゃあねと手を振って、さっさと行ってしまうのであった。
いったいなんだったのだろう。
ヨンジャはあっけにとられて、スカートの裾をなびかせて校舎の方へ去って行く彼女の後ろ姿を見送った。
しかし不思議と、帰国しようという気持ちがどこかへ消えてしまっていたのは確かだった。
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