五の十三 茂治とヨンジャ(完)
始業前の時間を持て余すように、茂治はノートのすみに落書きをしていた。その落書きは誰を書くというのでもなかったが、しだいにその顔は時詠の巫女に似てくるようだった。
彼女は、モンゴルから帰ってくると、糸が切れたようにぷっつりと音信が途絶えてしまった。携帯電話もつながらない。
それは茂治の胸のなかに大きな空洞をあけたようであった。
だが、彼女があたえてくれたものが、茂治の胸にいまだに残り続けていた。世の中は茂治を疎外するばかりではない、温かい言葉をかけ、手をのばしてくれる人も確かにいるのだ。
現代では、当たり障りなく静かに生きている人間が排除され、陰で悪口を言って他人を貶める品性の劣った人間ばかりが、社会で大きな顔をしてふんぞり返っている。思いやりのない意地の悪い人間ばかりが幅をきかせ、貪欲な人間ばかりが得をする。
世の中とはそんなものなのかもしれない。しかし、巫女のような優しさと温かさを持った人もいるのだと茂治は知った。
「田村君、イラストとか描くの?」
不意に、隣の席の沢木君が話しかけてきた。先日の席替え以来、ずっと隣で授業を受けながら、彼とはさして会話もなくすごしてきたのだった。
唐突な問いかけに、茂治が戸惑った。
「それ、製図用のシャーペンでしょう、そんなの使うの、イラストを描く人くらいしかいないからね」
そう笑いながら言って、沢木はペンケースから自分のシャーペンを取り出して見せた。茂治のとはメーカーが違うが、製図用のシャーペンであった。
「僕はイラストとか描くんだけど、田村君も描くの?」
「うん、僕は漫画だけど」
「え、そうなの?」そうして沢木は机の中からノートを取り出すと、おもむろに開いて見せた。「これ、僕が描いたんだけど、どうだろう」
そこには、しっかりと身についたデッサン力がにじみ出た、緻密な女性の絵が描かれていた。
「え、すごいね、沢木君」
「今度、田村君の漫画も見せてよ」
「うん」
いるものだ、と茂治は思った。思いもよらないほど近くに、心の通じそうな人が潜んでいたのだ。
「明日持ってくるよ」
茂治はあふれでた笑いをこぼしながら答えたのだった。
乳母車を押しながら、背の曲がったお婆さんが横断歩道の端の段差を乗り越えるのに苦労しているのを見かけ、ヨンジャは走り寄ると、お婆さんを支えるようにして手伝った。
そこへ、猛然としたスピードで左折してきた黒塗りのラクサスがけたたましくクラクションを鳴らした。
「うっさい、品のない人間が品のない車に乗ってんじゃない!」
かっときて、ヨンジャがどなり、車の中年おやじが睨みながら通り過ぎ、お婆さんはごめんねごめんねとヨンジャにあやまりながら去って行くのだった。
「まったく、品のないのはどちらかしらね」
後ろからあきれたような声をかけられ、ヨンジャが振り返った。
そこには小川由里が、何か照れ臭そうにこちらを見ながら、手を振っていた。
「ユリッペ!」
ヨンジャは、久しぶりに会う親友の元気な姿を見て、安堵と歓喜につつまれた。
「もう体は大丈夫なの?無理はしていない?少し痩せたんじゃないの?」
ヨンジャの性急な問いに、由里は笑ってうなずいた。
「うん、無理をしなければもう心配ないって、お医者さんが言うの」
「そう、良かった、ほんとに良かった」
ヨンジャは目の端に涙を浮かべながら、由里の手を両手で包むように握った。
「さあ、行きましょう、遅刻しちゃうわ」
由里にうながされて、ヨンジャは片手を握りあったまま、彼女とふたり学校へと歩き出した。
高校に着いて、生徒たちが急ぎ足に入っていく正門から見ると、青い空を背景に校舎がどっしりとたたずんでいた。モンゴルで見た空に負けないくらい、澄んだ青色をした空だった。
「カエルレウムカエルム」
空を見上げて、ふと由里がつぶやいた。
「え?」
「ラテン語で青空のことを、カエルレウムカエルムと言うのよ」
「カエルレウムカエルム」
口の中で、ヨンジャもつぶやいた。
由里がにっと、こぼれるような笑みを浮かべた。
ふたりは、握った手に、ぎゅっと力を込め、校舎へと歩き出した。
空は青く無窮に深く、ヨンジャと由里を包み込むように広がっている。
(おわり)
カエルレウム カエルム 優木悠 @kasugaikomachi
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