二〇二✕年 晩夏
四の一 エメリヒ 八月十六日
祖父の三冊目の日記を閉じ、エメリヒ・クルツは天井を仰ぎ見た。
――やはりこれでもなかった。
全身を徒労感がどっと駆け巡るようであった。
日記には、エメリヒの胸を打つような記述が無数にあった。
ナチ党の目を逃れての満州への逃避行や、たどりついた満州では貧窮の暮らしが続き、日本へと渡ってからも北海道で自然を相手に格闘するような開墾作業をし、ようやく学者としての生活が始まったのは、太平洋戦争が終わって三年も経ってからだった。差別や白眼視にもさらされたようであるが、日本人は外国人だからと差別することはあってもユダヤ人だからと差別するものはいなかったらしく、その点では祖母も安心していたようだし、この地に安らぎを感じていたようでもあった。
だが、グレートヒェン・コールが言うような、なにか重大な記述があったかというと、それほどのものはなく、アララト山の発掘現場で奇妙なミイラを見た、そのミイラを積んだ飛行機が、研究をしていた博士とともに行方不明になった、というのが、冒頭にかかれていたこともあって印象に残っていたが、それも別段重要だとは思えなかった。
――サガセ。
またあの耳障りな、空から降ってくるような声が聞こえた。
――これ以上何を探せと言うんだ。
エメリヒは顔をしかめた。
俺はもう充分働いただろう。もっと探さなくてはいけないとなれば、満州にでも渡って祖父母が暮らした場所にまで行けとでもいうのか。そんなことは勘弁してくれ――。
グレートヒェンが言う人生を良い方向へと導く何か。そんなものはいくら祖父母の足跡をたどってみたところで、祖父の遺品を引っ掻き回したところで、胡麻粒ほども出て来はしないのだ。
そこに、襖がすっと開いて、
「エメリヒ、お客さんよ」
「客、俺に?」
「うん、ブロンドの美人さんよ。たぶんドイツ語だと思うんだけれど、何言ってるかさっぱりなのよ」
まさかな、と思いながら立って玄関に行くと、土間に立って物珍し気に日本の家屋を眺めていた郷美いわく美人の女は、にっこり笑って、やあと言った。
「グレートヒェン、どうしたんだ?何をしに来た?」
エメリヒはあっけにとられながらも、そう訊いた。
「何をしにとは、ご挨拶ね。久しぶりに恋人の顔を見れたのだから、感極まって抱きつくのが先じゃあないかしら」
「元夫が行方不明になって、その嫌疑がかかっている女が、ひょっこり地球の裏側に現れれば、抱きつくよりさきに驚くのが普通だと思うが」
「こちらが、以前話してくれた従姉の方ね。これどうぞ」
エメリヒの皮肉などまったく聞き流して、グレートヒェンはドイツのクッキーの詰め合わせの缶を郷美にさしだした。どこで覚えたのか、「ツマラナイモノデスガ」などと片言の日本語を添えるのも忘れなかった。
郷美は微笑んで、とにかくあがってもらえば、などと言うし、エメリヒはしぶしぶグレートヒェンを、一階の奥の資料に埋もれた部屋へと通した。
「すごい箱の数ね」
彼女にはメールや電話などで、この地にいることは伝えてあったので、その気になればここまでたどりつくことも可能ではあったろうが、
「それにしても、よくドイツの警察が許可してくれたな」
「もちろん黙って来たのよ」
「だって、君は重要参考人とかいうのだろう」
「別に罪にはならないと思うけど」
「どうだかな。ドイツに帰って飛行機を降りたとたんに警察官に取り囲まれても、俺は知らないぞ」
「まあ、そうなれば、あなたが知っていようがいまいが、どうしようもないわね」他人事のように言って、グレートヒェンは、「で、貴重な品は見つかった?」
「いや、特にないな。ついさっき、日記を読み終えたところだ」
「日記?」
「これだ」
と床に積まれた三冊のハードカバーの日記を、エメリヒが指さした。
ちょっといいかしら、と言いながら返事も待たずにグレートヒェンは日記に手を伸ばした。
そうして、ぱらぱらとページをめくりながら、
「これよ。きっとこの日記のどこかに秘密が隠されているのだわ」
と言うグレートヒェンの横顔は、エメリヒの知っている彼女のものではなく、食い入るように文字を目で追っている。
「まさか。ざっとだけど全部に目を通したが、これといって印象に残ることは書かれてなかったな。祖父の生涯は俺のルーツに関わることだし、それなりに面白かったけどね」
「いえ、きっとこれよ。ふたりでもっと丹念に読んでみましょう」
エメリヒはあきれて首をふりふり、溜め息をついた。
「それよりも、君を親戚に紹介したいんだがね」
「あらやだ、みんなにご挨拶もせずに日記もないもんだわ、おほほ」
と笑う顔は、やはりグレートヒェンのいつもの笑顔であった。
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