二〇二✕年 春
一の一 ヨンジャ 五月十七日
青い空から、声が降ってくる。
――タスケヨ。
声はそう言っているようにソ・ヨンジャには感じる。
本当は何を言っているのかわからない、聞いたこともない宇宙語のような言葉であったが、彼女には確かに、助けよ、と言っているとわかるのであった。
日本に来てから聞こえるようになったその不思議な声に導かれるように、ヨンジャは自転車を疾駆させる。留学した時に、大阪に住む
ひと漕ぎごとにK市最高峰、標高四百三十六メートルの
田畑を挟んだ反対側の山すそに見える、鉄板の塀で覆われた巨大な工事現場はリニア中央新幹線のトンネル掘削現場であろうか。
やがて山が両側からさしせまり、谷底を這うように道路はのびる。
登り、登り、また登り。
ずっと続く登り道である。
何十年も補修されていないようなデコボコしたアスファルトの道の両側に、田舎造りの古びた家家が並んで、風の通りも悪く澱んだ空気が沈殿する狭隘な土地を抜け、鎮座千九百年という蒼枯とした
「八段変速では!」
町乗り自転車の少ないギア枚数では、きつい登坂道に対応しきれず、ヨンジャはサドルから尻を浮かし、立ってペダルを漕ぎはじめた。ヘルメットに包まれた頭が蒸れる。
そこは、普通自動車が二台すれ違うのがやっとの幅の道だった。弥勒山の山裾を通る、かつて愛知と岐阜との県境を越える本道であったのが、新たに便利のよい幹線道路ができてから数十年を経て、ほとんど車の往来すらも絶えていた。いまだに追い剥ぎが出没しそうなほどひとけのない、女がひとりで自転車を走らせるのに不安を覚えるほどの、うら
――こんなところを歩く人がいるのか。
長い坂を登りきって多少は緩やかな坂道に変じたとはいえ、両側から圧迫するような鬱然とした森の奥は魔物でも潜んでいそうなほど真っ暗で、道には生い茂った木木が天蓋のようにかぶさり、まだ日が沈むのは三時間も先であるはずなのに、ここはもう黄昏時の暗さと淋しさであった。
岐阜県への境を越したかどうかというその場所に、
「いた!」
今日の救護対象を見つけた。
その人は、ヨンジャと同じ高校生くらいの少年で、ジャージ姿で腰を抜かしたようにアスファルトに腰を突き、前方から迫る何者かに怯えているのであった。
ヨンジャはスリップさせた自転車から跳ぶようにして降り、少年の脇を駆け抜け、襲い来るその奇妙な物を殴った。
殴りざまに拳の先から衝撃波を飛ばして、それを粉砕する。
それは、木木の陰から湧き出したように、赤味を帯びた黒い色の、人の腕ほどの太さの触手状の物で、その先は手のような形状をして相手をつかみ影に引きずり込む、妖怪だか精霊だかわからぬ、正体不明の生物であった。いや、生物であるかどうかもわかりはしない。
影から触手が次次に伸びてき、ヨンジャに向けて襲いかかってきた。
ヨンジャはセーラー服のスカートをなびかせながら、打ち、蹴り、チカラを飛ばす。
チカラは、いわば念動力のようなもので、衝撃波を飛ばすだけでなく引っ張ることもでき、手や足などの末端からしか射出できないのだけれど、本気で使えば人間を十メートルばかりはふっ飛ばせそうな威力を持っていた。もちろん、人にはけっして使いはしないのだが、ヨンジャはその自分に生来備わった能力を、チカラ、と呼んでいるのだった。
何十本もの触手を払いのけると、それらのはえていた影の部分が沸騰したようにぶくぶくと沸き立って、やがて消滅していった。
ヨンジャは、ふっと吐息をついて、赤いヘルメットを脱いだ。そうして、汗と熱気でで蒸れたショートカットの栗色の髪を掻きあげて、後ろで腰を抜かしている少年に振り返った。
少年は怯えたまま何も言わなかった。
ただ、かたかたと歯をならして、体を震わし、こちらを凝視しているのだった。
「
思わずヨンジャは、静かに冷ややかに侮蔑した。
ありがとうとか、ごめんなさいとか、はたまた、すごい力を持ってるねと褒めることすらしなかった。
これまで助けてきた人たちは、怯えながらも声を振り絞って、感謝なり褒めるなり何かを言ったものだった。
別段感謝して欲しいわけでもないのだが、そんな一言すら発せられない少年につい侮蔑の目を向けてしまった自分を、ヨンジャはすぐに恥じた。
そうして、ちょっとだけ口の中で舌打ちした。他人を侮蔑する自己を卑下したような舌打ちであった。
ヨンジャは一瞥もしないで少年の横を抜けて、自転車を起こした。
せっかくおばあちゃんが買ってくれた自転車に傷がついていなければいいのだけれど。
そう思いながら、またヘルメットをかぶりなおして、自転車にまたがって、その場を立ち去ったのだった。
帰りはずっとくだり坂だったから、吹きつける風が心地よかった。
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