カエルレウム カエルム

優木悠

一九三✕年

零の一 ハインリヒ 某月某日

 広大なアララト山は、どこまでも静黙としてハインリヒを見おろしていた。

 周囲は岩と土だけの寂寥とした風景なのに、アララトの雄大なたたずまいは畏怖心をもよおさせるようで、果てを知らぬほど偉大であった。

 山の中腹の少し平坦な場所に、二十メートル四方のテントがたてられていて、さきほどから初秋の冷気をはらんだ吹き降ろしの強風が間断なくハインリヒの頬をいたぶり続け、テントシートを鳴らし、己の存在を誇示するように掲げられた白地に赤丸の旗を、ばたばた言わせてはためかせている。

 ハインリヒがテントに近づくと、それを察したように、中から白髪白髭で白衣を着た老人が姿を見せた。

 老人は近づくハインリヒをじっと見つめていた。なにか値踏みでもするような目つきで、ハインリヒをなめるように見つめるのだった。

「これはこれは遠いところをご足労でしたな、クルツ博士」

 そうして自分はクロサキだと愛想笑いを浮かべながら言った。ハインリヒよりも頭ひとつ分背が小さく、猫背気味に背を丸めて杖を突いて、ちょっと妖怪かなにかのように見えなくもない老人であった。

「若いとは聞いておりましたが、聞いていたよりもずっとお若いですな」

 クロサキ博士は流暢なドイツ語でそう語り、テントの幕をみずから開いてハインリヒを招じ入れた。

 入った瞬間、ハインリヒは目を細めた。

 テントの中は煌煌とライトが輝いていて、周囲あらゆる角度から二メートル半くらいの真四角の立方体を照らしだしていた。

「しかし」とハインリヒは言った。「このようなものをよくもまあ発見することができましたな。それも、七十五メートルも地中深く埋まっていたものを……」

「天の啓示というやつですかな」

「されど、このような物体、いかほど太古のものでしょう」

「推定で、一万二千年前になりますな」

「とすると、考古学の範疇ですかな。私のような生物学者をお呼びになるとは、いささか解せませぬが」

「これは、四角い塊ではなく、空洞、つまり箱ですな」クロサキは答えをはぐらかすように話を変えた。

「箱……?」

 ハインリヒは箱というその物質を、茫然と見上げた。しかし、見たところ蓋のようなものはなく、中が空洞とすれば、いったいどうやって作ったものか。しかも一万二千年前の人類がどのような手段で造り出したのか。それとも自然にできたとでもいうのだろうか。いずれにせよ人知を超えるしろものである。

「X線を照射して、おおよそ中身は見当がついているのです。それで、新進気鋭の生物学者であるクルツ博士においで願ったわけでしてな」

 実際は、日本人の招聘に、名だたる学者連中は誰も東洋の蛮族と見下して相手になどせず、なかば強引にハインリヒが送り込まれたわけであったが。

「いまから、封を解くところでした」

 クロサキが周りの男たちになにか日本語で指図すると、男たちは電気ノコギリを持って箱に取り付き、前面の四辺を切りにかかった。

「箱ごと運ぶわけにもまいりませんでな。中身だけ取り出して満州へ運んで研究しようという算段です」

 鉄板が石を切り裂いていく、耳の奥に響く嫌な音がテントじゅう、いやテントの外にまで轟いた。

 こううるさくては、話にもなにもなりはせぬ。

 ハインリヒもクロサキも、ただ黙って作業の進捗を見守っているしかなかった。

 一時間ほどもかかったであろうか、男たちが箱の隅から息を合わせたようにいっせいに離れた。

 クロサキがまた日本語で何かを大声で命じた。気が高ぶっているのが言葉のわからないハインリヒにも伝わってくるくらいの激しい言い方であった。

 切り取った板には紐が何本も金具で打ちつけられていて、作業員も研究員も総掛かりである、後ろ方向にも引っ張りながら、慎重に切った面を倒していった。

 暗い、空洞の中になにかがあった。

 研究員たちがライトの角度を変えて、中にあるそれを浮かびあがらせた。

 ハインリヒは眉をひそめた。

「ミイラ?」

 それは――、その骨と皮だけの人は、粗末な貫頭衣を身にまとい、端然と胡座しているようであった。

「まるで座禅を組んでいるような塩梅ですな。日本でなら、さながら即身仏と言ったところですな」クロサキが言う。

 その人は、首が人よりも長く、頭は小さめで、腕と脚も現代人よりも長めであった。一万二千年も経っているにしては、ずいぶん状態がいいミイラであった。これも箱の中に密封されていたおかげであろうか。

「未知なる人類の近縁種でしょうか、それとも、突然変異で生まれた人間でしょうか。クロサキ博士のご見解は?」

「わかりません。その謎を解くために、クルツ博士においで願ったわけでしてな」

 ハインリヒは答えなかった。答えられなかった。

「まあ、想像をふくらませれば」とクロサキが続けた。「宇宙からの来訪者、はたまた、別種族の生き残り、それとも、ひょっとすると……、神でしょうかな」

「まさか」

「さらに想像をはばたかせて語るなら、アトランティス人の生き残りという説も思い浮かびますが。とすると、総統閣下の思し召しにも沿う研究になりそうですな。いずれにしても、名前をつけませんと」

「名前、ですか」

「〈ノア〉、などというのはいかがでしょう」

 ハインリヒは失笑した。アララト山から発掘されたからそんな呼称が思い浮かんだのであろう。

「ご随意に」

 そうつぶやいて、ハインリヒは〈ノア〉をじっと見つめるのだった。

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