四の三 エメリヒ 八月十七日
エメリヒが目を覚ますと、もう陽はずいぶん高くまで昇っているようで、部屋はカーテン越しの陽射しが眩しく、眩しさのせいで一度開いた目をすぐに閉じた。
昨夜は遅くまでグレートヒェンと日記を読み返し、何かひっかかりを覚えるような言葉や文章がないか探したが、結局はたいした記述は見当たらず、ずいぶん夜が更けてからふたりは眠りについたのだった。
まだ眠りが足りない気がして、もうすこしまどろみを楽しみたいところであったが、エメリヒははっとして飛び起きた。
隣に寝ているはずのグレートヒェンの姿がなかった。
布団はからであったし、彼女の少ない手荷物も見あたらない。
それに、枕元に置いてあった祖父の日記三冊も姿を消していた。
かわりに、日記のあった場所には切り取られたノートの一ページが折りたたまれて置かれてあった。
エメリヒはそれを手に取り、さっとひらいた。
愛しいエメリヒ、ごめんなさい――、手紙はそうはじまっていた。
あなたといっしょにこれからも過ごしていきたかったが、そうもいかない事情ができた。あなたには迷惑をかけられないから、私は姿を消す。お祖父さんの日記については本当に申し訳ないのだけれど、貰っていく。もう二度と会うことはないと思う。あなたは私のことは忘れて、どうか新しい人生を始めて欲しい。
そんなことが書かれてあった。
「どういうことだ、グレートヒェン」
スマートフォンを手に取ってグレートヒェンにかけてみたが、電源が切ってあるのかまるでつながらない。
「いったい俺が何をした。愛想をつかされるようなことをしたのか。それともただふたりの関係に飽きたとでもいうのか。だいたいなぜ祖父の日記などを持ち出すんだ、グレートヒェン、グレートヒェン」
居間へと向かうと、郷美が、
「おはよう」などと嫌味たらしく挨拶をしてきた。「もうお昼近いわよ」
エメリヒはまったく相手にせずに、
「グレートヒェンを見なかったか?」
「いいえ、今日はまだ。寝てるんじゃないの?あら、お布団からっぽね」
「うん、姿が見えないんだ」
「どうしたのかしら」
首をかしげる郷美に、エメリヒは手紙を見せた。
「ううむ」と郷美はうなった。「ドイツ語読めないんだけど……。でもたぶん別れの置き手紙でしょう、当たり?」
「すぐに準備をするから、郷美、悪いけど駅まで送ってくれ」
「追いかけるの?」
「無駄かもしれないけどね、このままじゃあ、気持ちが収まらないし、いろいろ訊きたいこともあるし」
「ちょっと未練がましい気もするけど、いいわ、すぐに準備して」
パステルイエローの軽自動車に揺られ、エメリヒは焦る気持ちを抑えながら、車窓から流れる景色をみつめていた。もうちょっと落ち着いた気分でこの景色を堪能したかったものだ、と思うのだった。
「ねえ、追いかけるのはいいけど、グレートヒェンさんの行き先はわかるの?」
「ドイツに帰国する以外に考えられないな。俺もこのまま帰ることになるかもしれないけど、その時は、荷物を国に送っておいて」
「それはかまわないけど」
「近いうちに、祖父の遺品整理にまた来るよ。今度は母さんも連れてくる」
「そう、なら、お祖母ちゃんも喜ぶわ」
車はすぐにF市市街地に入り、駅に到着した。
駅では、郷美が付き添ってくれて、グレートヒェンらしき女性を見なかったか、駅員に尋ねまわってくれた。その中のひとりが、グレートヒェンを覚えていて、もう朝の七時ごろにS市行きの電車に乗っていったということまで教えてくれた。
「ずいぶん前だな。こりゃあ、追いつけないかもしれない」
「その時は無理せず、いったん戻ってくるのよ、エメリヒ」
「ありがとう郷美。お祖母ちゃんにごめんなさいと言っておいてね」
そう言って、エメリヒはT市行きの電車に乗り込んだ。S市まではそこでいったん乗り換えることになる。ドアがしまっても、郷美はずっとエメリヒを見つめていた。どこか悲しそうなその顔に、いつかかならず戻ってくるから、とエメリヒは心で誓うのであった。
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