二の二 ヨンジャ 六月九日
しとしとと降る雨の中、ソ・ヨンジャは赤い傘を差して学校帰りにコンビニエンスストアに向かって歩いた。彼女の暮らす学生寮とは反対の方角にあったのだけれど、他に手ごろな店が寮の周辺にはなく、ヨンジャは肌をしめらせながら、歩道を歩いた。
――日本にも梅雨はあるのだな。
とヨンジャは思う。韓国でもこの時期は苦手であったが、日本に来たところで好きになるわけもなく、ただ鬱陶しいこのそぼ降る雨の時期をどうやってやりすごそうかと考えていた。
細い雨はアスファルトに落ちて弾けて霧の層を作って、ヨンジャの脚に絡みついてくるようであった。
そこへ、同じ高校の、帰宅途中の自転車通学の男子生徒がヨンジャに水飛沫を飛ばしながら通り過ぎていく。傘差し運転、ノーヘルメット、逆走、三つも道路交通法や条例を違反しながら平然と走り去っていった。
――嫌なものだ。
日本人に比べて韓国人が真面目に交通法規を守っているわけでもないのだが、こういう被害に会ってしまっては、日本人の無秩序を嫌悪せざるを得ないのだった。
ヨンジャの父母は在日コリアン三世として生まれたが、日本に帰化していた。帰化した直後に、韓国人だから、という理由で旅行会社のソウルの支店に転勤させられ、以来二十数年向こうで暮らしている。こんなことなら帰化するんじゃなかった、というのが酒を飲んだ後に毎度でる父の愚痴であった。
なので、本来ヨンジャは日本人なのであった。名前も音をまず両親がつけ、あとから日本でも通用する漢字を当てはめたらしい。
というのが日本名である。
こっちに留学してきて自己紹介する時、
「鈴子だってよ」
と小馬鹿にしたようなつぶやきが聞こえてきたのも忘れない。
ヨンジャが日本に留学することになったのも、父と同様の理由であった。
日韓両国の関係が改善して来た近年の情勢のなか、高校から交換留学プログラムに乗せた留学生を出すことが決まった。誰もが尻込みするなか、あなた日本人だからいいでしょ、という理由でヨンジャに白羽の矢が立ったのであった。完全に人身御供とするべく狙いをつけた白羽の矢であった。
そうして留学が決定したのだが、両親に日本語を習っていたのが幸いであったし、大阪には母方の祖母も暮らしていて、何かあれば頼れるのだから精神的不安も希少ではあった。ちなみに、父方の祖父母は神奈川に暮らしているのであるが、両親が帰化する時にひと悶着あったらしく、親交薄く、日本に着いた時に付き添ってきた母とともに挨拶に行ったが、表層的で心の通わぬ会話をしただけで終わった。
そんな生い立ちだから、ヨンジャは韓国でも日本でも嫌な思いはしたわけであった。だからといって人嫌いに陥るかというとそうでもない。
韓国では、日本人めとあからさまに侮蔑する態度をとる者もいたし、近所のクムスンおばちゃんのように、ことあるごとにキムチを大量におすそ分けしてくれる親切な人もいた。
日本に来て、韓国人というだけで見下してくるクラスメートもいたし、反対に異国で暮らす不便さを憐れんで優しい声をかけてくれる人もいた。
ヨンジャの見る限り、世の中の人間は嫌な人二十パーセント、良い人二十パーセント、どちらでもない人六十パーセント、そんな百分率であった。
だから、嫌な人間だけ見て日本人を嫌いにはなれないし、良い人間だけをみて韓国人を好きにもなれなかった。
そうやって俯瞰気味に韓国と日本を睥睨している自分を、
――いったい私はなに人なのかな。
ヨンジャは自嘲するように、笑うのだった。
二カ月たってもこっちで友達と呼べるほどの知り合いはできなかったし、寮で同室の一学年上の先輩とも、彼女が受験勉強に忙しいこともあったが、表面的な付き合いと会話しかしていなかった。
やっぱり、一年留学の予定をもう切りあげて韓国へ帰ろうか、そんなふうに考え始めてかれこれ数週間になる。
こっちに来てから出会うようになった化け物にももううんざりだしな。などと考えながらコンビニで週末のおやつを買い込んで外にでると、雨合羽を着て自転車にまたがった他校の男子高校生とばったりぶつかりそうになって、ヨンジャはちょっと頭をさげて通り過ぎようとした。
「見つけた」
その男子高校生は言った。
「やっとみつけた」
ヨンジャはその男子をじっと見つめた。丸い顔をしてところどころにニキビのあるこの人が、誰であったかまるで記憶にない。
「人違いではありませんか」
そっけなくヨンジャは返した。
「いや、こないだ峠で僕を助けてくれただろう。探していたんだ、ずっと」
切れ長の目をヨンジャは見開いた。あの時の男子だったか、と思い出した。先日峠道で化け物から助けた、ヨンジャと同じ年ごろの男子が彼であった。
「あの時は助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
「そ、それでお願いがあるんだけど」
「なんでしょう」
ヨンジャは戸惑った。友達になってくださいとか、男女交際をしてくださいとか言われたらどう答えればいいのだろう。うまく傷つけずに断ることができるだろうか。
「僕に、あの能力の使い方を教えて欲しい」
「は?」
「僕にはあの超能力が必要だ。僕はあんな化け物に襲われるくらい特別な人間なんだ。だから、君に教われば、超能力を身につけられる」
――この人は何を言っているのだろう。
ヨンジャにはまるで理解できない。しかもコンビニの出入り口で。人が出入りしないのが幸いであったが。
「あなた、頭大丈夫?」
怒りを抑えながらヨンジャは言った。告白などとちょっとでも頭をよぎった自分が馬鹿みたいだ。
「大丈夫だ、だから教えてくれ、超能力を」
「そんなの無理です」
ヨンジャは吐き捨てるように言って、踵をかえして立ち去った。その男子が追いかけてきたらどうしようと危惧したが、追いかけてはこなかった。
ただ、
「あきらめないからな」
そうヨンジャの背中に叫ぶ声が聞こえただけであった。
――やっぱりもう韓国へ帰ろう。
今、ヨンジャは帰国の決意がかたまったのだった。
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