二の九 ヨンジャ 七月七日

 ――なんということだろう。

 ヨンジャは愕然とした。

 スギの木の下に立って、ひきつった笑みを浮かべてこちらを見ている他校の男子生徒は、以前黒い化け物から助けて、先日は超能力を伝授しろなどとまといついてきた彼ではないのか。

 その男子生徒の足元に蠢くあの大きなミミズのような触手はなんだ。

 いつも触手の化け物が発生しかけると、その胎動をさっしたように胸騒ぎがして、発生する方向なども比較的正確にわかる。今回も胸騒ぎがして、胸騒ぎとともに湧きあがるいても立ってもいられないような高揚感があって、ヨンジャはここまで走ってきた。いつもの週末の買いだめに行く途中だったのはうまい偶然であった。

「何をしている」

 それでもヨンジャは気を張るように、無理矢理声をだして、十数メートル向こうの男子生徒に声をかけた。

「つい聞きそびれていたけど、君、名前は」

 男子生徒は横柄な言い方で訊いてきた。以前のどこか頼りなく自信のない、おどおどとした印象は微塵もなく、自己の薄弱さをどこかへ捨ててきたような様子であった。

「西鈴子」

 とっさにヨンジャは日本名を名乗った。こんな場合に日本名が口を突いて出てくるあたり、ヨンジャもずいぶん日本に染まったようではある。

「にし、すずこ。なんだ、韓国の人じゃないのか」

 と男子生徒はちょっとがっかりしたような口ぶりであった。そして、

「僕は田村茂治」

 律義な態度でそう名乗った。

「し、茂治君、君はどうしてその化け物を操っているんだ」

「友達になったんだよ。西さんが邪魔をしなければ、もっとはやくこの子達と友達になれていたのにね」

 そう嫌みたらしく言う茂治を、ヨンジャは唇を噛んで睨んだ。

 ――友達になったって?どうみても悪い気に蝕まれているように見えるけど。

 ヨンジャは思った。

 彼が化け物に憑かれたのなら、彼と化け物を引き離さなくてはならない。それができるのはヨンジャだけではないのか。

 ――タスケヨ。

 また空から声が降ってきた。

 考えてみれば、ひどく曖昧な言葉だ。単純に人助けをしろという意味なのか、人を救えという意味なのか、誰かに助力しろという意味なのか、守れということなのか、まるで見当がつかない。見当がつかないが、ヨンジャはその空から降る言葉に抗いがたい何かを感じるのだ。命令でもない、懇願でもない、人をいざなうような言葉であった。

 声に背中を押されるようにして、ヨンジャは走った。

 自分を攻撃に来たと感じ取った茂治は、足元から数本の触手を伸ばし、ヨンジャに向けて放った。

 触手は先端の指を広げて、一直線に伸び、ヨンジャに襲いかかる。

 ヨンジャはパンチやキックを繰り出し衝撃波を放って、即座に撃退する。

 茂治は触手をさらに伸ばして、ヨンジャを阻んだ。

 ふたりの間はもう二メートルばかりであった。ヨンジャは彼をつかむように手を伸ばした。伸ばしたその手が届きそうなくらいすぐ近くにいるのに、まとわりつく触手に妨害されて、ヨンジャの手は虚空をつかんだ。

「甘いんだよ、超能力娘!」

 茂治が触手を振るった。

 横薙ぎのその攻撃にヨンジャはふっ飛ばされて、背中をスギの幹にしたたかに打ちつけた。一瞬息もできないほどの激痛が、全身を駆け巡った。

 そうして心の中には電流のように恐怖心が駆け巡った。

 視界の先からは、足元から生やした触手を蠢かせながら、茂治がしだいに近づいてくる。

 相手はそうとうクレイジーな状態だ、何をされるかわかったものではない、このまま殺されてしまうかもしれない。そうあきらめかけたとたんに、別の自分が声を励まして言うのだ。いや、あきらめてはいけない、逃げなくてはいけない――。

 ヨンジャは体をよじった。よじって、這いつくばった惨めな姿勢のまま、彼が迫るのとは反対の方向へと、這いずって逃れようとした。

 その足首に、触手が絡みついた。

 背筋におぞけが走った。

 と、その時、公園から子供たちのきゃっきゃと騒ぐ声が聞こえてきて、なにか鬼ごっこかかくれんぼでもしているのだろう、数人がこちらに向けて走ってくる。

 茂治の舌打ちする声が聞こえ、そのすぐ後に急ぎ足に去っていく足音が続いた。

 ヨンジャはほっと吐息をついて立ちあがった。

 小学校低学年くらいの子供たちは、さらに近寄ってきて、今度は今までの騒ぎ声とは違う、悲鳴のような声をあげだした。

「人が倒れてるっ」

「どうしよう」

「あ、そこのお姉ちゃん」

 中のひとりの男の子がヨンジャを見つけて近づいて来た。

「どうしたの、なにこれ」

 ヨンジャは戸惑った。さあ、と答えるのが精いっぱいだった。

「救急車、呼ばなきゃ。お姉ちゃんスマホ持ってない?」

 苦笑しつつ、ヨンジャはスマートフォンを取り出した。なんだ、子供の方がよっぽど冷静だな、と思いながら、画面を操作するのだが、手指が震えてカメラを起動させたり音楽アプリを起動させたりしながら、やっと電話を開き、番号を押しかけた指が止まった。

 日本の救急車は何番にかけて呼ぶのだったか……。

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