(3)醜聞の果て


 今回、話を伺う際に、一番長く時間をかけたのが、ペイトンさんでした。


 なんせ婚約者をないがしろにして、初恋相手の王女を愛し続けた男ですからね。どういうつもりだったのか、そこが問題です。


 それで……なるほど……なるほど。


 お気持ち、分かりました。


 ……ええと、そうですね。


 関係者に言いたいことはたくさんありますが、要約しますと。


 国王陛下――メイヴィス王女殿下をちゃんと叱ってください。


 メイヴィス王女殿下――あー……あなたには何を言っても……。


 そして最後に、ペイトンさん――ごめんなさい。これからわたくしはあなたを、地獄に突き落とす予定です。




   * * *




 関係者からすべての聞き取り調査を終えたルビー・クリビンスは、今リポートを纏めている。


 クリビンスは『夫婦カウンセラー』だ。


 仲がギクシャクしている夫婦から話を聞き、関係を修復するのが仕事である。


 もうかなりのベテランで、年齢は四十を過ぎてから数えていない。自分で言うのもなんだけれど、仕事ではしっかり結果を残してきた。


 その実績を買われたのか、このたび、他国の王族から奇妙な依頼が舞い込み。


 なんでも、色々やらかした王女殿下と、彼女がほかの女性から略奪した(?)ペイトンという騎士――ふたりの仲を修復してほしい、とのことだった。


 なんとか妥協させ、結婚する気にさせればOK、なのだとか。


 うーん……それで結婚したあとは、どうするつもりなの?


 まぁわたくしは他国の人間だし、その後のことは関係ないから、いいのだけれど。今回も、「数日のあいだ本国に滞在し、できる限りのことをしてくれれば結構」と言われただけだし。


 本来クリビンスは、結婚している人たちのカウンセリングしかしない。


 だから断ってもよかったのだが、高価で美味なブルーソルトを大量に譲ってくれるというので、気まぐれを起こして引き受けることにした。


 依頼者(国王陛下)の治める国は、『聖女』を隣国に差し出すことで、そちらからブルーソルトを分けてもらっており、備蓄分があるらしいのだ。


 とはいえ、これって――本来、国で管理すべき貴重な塩だと思うのだけれど、王女殿下のおもりのために雇った、他国のカウンセラーに横流ししてしまっていいものなのかしらね?


 いえ、くれると言うのだから、もらいますけど。こちらは他国のお馬鹿な王族のために、タダ働きする義理もないですし。


 ただ、先方の筋の通っていないやり口は、王族としてどうなのかな、とは思うのよね。


 とにかくこういう細部にすべて出ている気がする――……『国王陛下、そういうところですよ。だから娘さん、ああなってしまったのでは?』


 今回のことでは、国王陛下自身がしっかりとメイヴィス王女殿下と向き合い、本気で叱らなければいけないはずなのに、そこを曖昧にして、すぐに他国の夫婦カウンセラーを雇っちゃうところが、なんだかね。


 ……まぁとにかく明日でこの仕事も終わりなので、その前にリポートを仕上げなければ。


 クリビンスはリポートの『結論』欄にペンを走らせ、そこに『お手上げ』と書いた。


 これは、メイヴィス王女殿下とペイトン、両者と話をした上での結論である。


 書いたものを眺めおろし、一拍置いて、それを二重線で消す。


 これを読んだ国王陛下が「不敬だ!」と激怒して、こちらの首を刎ねようとするかしら? と恐ろしくなったためだ。


 クリビンスは斜め上を見ながら、国王陛下の顔を思い浮かべる。


 そして『うーん……首は刎ねられないで、すみそう?』と思い直した。それどころか、『もっと失礼なことを書いても大丈夫そうだわ』とも。


 ただ、仕事は仕事なので、自分は依頼者の希望に、ある程度沿う必要がある。


 そこで『結論』欄を書き直した。


『根本的解決は困難だと思われます。――ただし、ひとりを犠牲にして、その者にひたすら我慢を強(し)いるのであれば、なんとか結婚まではこぎ着けられるでしょう』


 クリビンスはこれを書きながら、表情を変えなかった。彼女の心は凪いでいる。


 とはいえ――このリポートを提出するならば、作成者の責任として、この国を去る前にもう一度、『犠牲者』になる彼には会っておかなければならない。


 そんなことを考えながら、締めの部分を書いた。


『犠牲になる人物は、メイヴィス王女殿下のお相手である、ペイトンさんです。メイヴィス王女殿下が折れないのだから、ペイトンさんが奴隷のように彼女に従うしか、解決方法はありません』




   * * *


 


 ――時は少し戻り、調査一日目。


 クリビンスは初めに、メイヴィス王女殿下の評判を探ることにした。


 彼女を知る人たちをひとりずつ呼び出し、


「メイヴィス王女殿下の人柄について教えていただけますか? ここで話したことはこの場限りで、外に漏れることはありませんので」


 そう約束し、忌憚(きたん)のない意見を求めたのだ。


 これはあらかじめ国王陛下から、「クリビンスさんの調査に、誠心誠意協力するように」という通達を出してもらった上でのことである。


 クリビンスは他国の人間であるし、こういったデリケートな問題を扱う専門家であるから、話すほうとしては心的負担が小さいはずだ。自国のお偉いさんに尋ねられるよりは、正直な気持ちを口にできるだろう。


 ――その結果。


 メイヴィス王女殿下と直接あまり関わりがなかった人からは、


『気弱で、内気な性格だと思います。お淑やかですね。そのためペイトンと恋愛関係にあったと聞いて、驚きました。あの奥手そうなメイヴィス王女殿下が自分から誘いをかけるというのは想像がつかず、ペイトンはただの護衛として、そばに付いているだけだと思い込んでいたので』


 という意見が多く出た。


 ただ、部屋付のメイドなど、距離が近かった人間は、様子が違った。


 皆一様に言葉が出てこず、困った顔をするのだ。


 それは『下手なことを言って、自分の立場がマズくなったらどうしよう』という保身から、口が重くなっているわけではなさそうだった。


 なんというか、『得体の知れない気持ち悪さをずっと感じていたけれど、それがなんなのか、今になってみても、うまく言語化できない』――彼女らの心情を、クリビンスはそんなふうに読み取った。


 そしてそういった複雑な反応を見せた人たちは、皆一様に、今回の騒動――メイヴィス王女殿下が他人の男をたぶらかしただとか、隣国の王族の前で失礼な態度を取っただとかの一連の醜聞について、そんなには驚いていないようだった。


 今回の話を聞いた時、『ああ、でも、なんだかやりそうかも』と感じたようだ。


 クリビンスはひとりになり、考えを巡らせながらペンをとった。


 メイヴィス王女殿下、と名前を書いた横に、ササッとメモ書きする。


 ――『巣穴の奥にいる、毒蛇』――


 クリビンスは椅子の背にぐったりと体を預け、天井を見上げる。体は弛緩しているものの、彼女の瞳はキラキラと輝いていた。


 さて……どうしたものかしら。


 わたくしはこれから問題の巣穴に手を突っ込んで、毒蛇を掴み、表に引きずり出す必要がある?


 だけどブルーソルトの報酬程度で、そこまでしないとダメかしらね? あの塩が高価なのは知っているけれど、危険を冒すほど?


 難しいことを考えている時の癖で、チチ……と小さく舌打ちする。


 たっぷり時間をかけて思考を整理してから、クリビンスはふたたび姿勢を正した。


 ……まぁとりあえず、話をしてみますか。


 彼女の口元には綺麗な笑みが浮かんでいた。




   * * *




 ――調査二日目。


 さて――問題の、王女殿下との会談。


 そこで何が起きたのか。


 円卓を挟んで彼女と向き合っているあいだ、クリビンスはものすごく体力を使った。厄介な相手との駆け引きで、脳をフル回転させたため、疲労が体にきたのだ。


 初め、メイヴィス王女殿下は猫をかぶり、『私は内気で、知らない人と話すのは怖いの』という態度で押し通そうとした。


 その演技がすっかり板についていたので、クリビンスは空恐(そらおそ)ろしい何かを感じた――メイヴィス王女殿下はおそらく、根っからの詐欺師である。


 これは、通常の夫婦カウセリングのやり方では駄目かもしれない。


 そこで攻め方を変えてみることに。


 相手のペースを乱す、手っ取り早い方法は、怒らせてみることだ。


 クリビンスは能天気な訪問者のていで、メイヴィス王女殿下が履いている仔牛革(カーフ・スキン)のクツを褒め称え、「わたくし、なんでも気になってしまう性質(たち)でして、革のなめし方を職人に教えてもらったことがあるんですの」と、しばらくのあいだどうでもよい豆知識をダラダラと語った。


 メイヴィス王女殿下は『つまらない話を聞かせないでよ』とイライラしているに違いなかったが、身に着いた鉄壁の『お淑やか』演技を崩すことはなく、口元に笑みを浮かべ、眉尻を下げ、困ったような笑顔をキープし続けた。


 もうそろそろかしらね……彼女がすっかり油断した頃合いを見計らって、一撃を食らわす。


「そういえば、わたくし――先ほどディーナさんの姿絵を見せていただきました」


「え」


 メイヴィス王女殿下の取り澄ました顔が分かりやすく崩れた。――彼女は『ディーナ』という名前に過敏に反応し、はっきりと顔を顰めたのだ。


 クリビンスはそれに気づかなかったフリをして、まくし立てる。


「ほら、ペイトンさんの元約者である、ディーナさん! 彼女、とっても綺麗な方ですね! 顔立ちそのものもそうですが、あの方、特別な気品がございますわ。姿絵でもそれがよく分かりました。直接お会いできなかったのが、もう残念で……ディーナさんはすでに隣国に行ってしまわれたんですってね。彼女の新しい婚約者は隣国の王太子殿下で、とんでもなくハンサムな方ですって?」


 ピク、ピク、とメイヴィス王女殿下のこめかみに青筋が立つ。前髪をパツンと短く切り揃えているので、そのさまがよく見えた。


 さて、もうひと押し。


「わたくし、ちょっと小耳に挟んだのですが、ペイトンさんはひとつ年上のディーナさんを意識しすぎて、婚約中はまともに会話もできなかったらしいですね。まぁ分かりますよ……照れ屋な男性って、本命にはかえって素っ気なくしてしまうことがあるそうですから」


 今語ったペイトンの心理状態は、クリビンスの創作である。


 ようはメイヴィス王女殿下を動揺させられれば、それでいいのだ。


「……ねぇ、それ、誰が言ったの?」


 地を這うような低い声。


「はい?」とぼけるクリビンス。「メイヴィス王女殿下、どうかなさいましたか?」


「さっきあなた、『小耳に挟んだ』って言ったでしょ――ペイトンがディーナを意識していたなんて、そんな馬鹿なこと、誰が言ったのよ!」


 大爆発!


 ……おお怖い……


 三日間何も食べていない、腹を空かせた獣みたい。


 その後しばらくのあいだ、クリビンスは対面から飛んで来る罵声を浴び続け、メイヴィス王女殿下の唇がのたうつように激しく動き回るのを眺めていた。彼女の唇の動きは、まるで地底から這い出て来た異形の生物のようで、日の光を浴びた刺激で七転八倒しているみたいだった。


 元々問題のある性格をしていたようだけれど、これはどう見てもまともじゃない。


 最近色々あったせいだろうか。


 聖女の身分を失い、大国へ嫁入りするはずが、全部ぱあに。おまけにペイトンの態度も冷たくなった。悪いことが重なって、精神の均衡を失いつつあるのだろうか。


 普段は頑張って猫をかぶる演技を続けているようだが、一度バランスを崩すと、こんな状態になってしまうのか。


 とはいえさすがに限度がある。怒りがまったく鎮火しないんですけど……。


 罵声が飛ぶ中、クリビンスはにっこり笑んでみせ、自身の手荷物――派手な柄のカバンをサッと手元に引き寄せた。


「ええと、ではわたくし、そろそろ」


 一方的に告げて、椅子から腰を上げる。


 しかしメイヴィス王女殿下も怒鳴りながら立ち上がろうとしたので、クリビンスはゾッとした。卓上にある大きな花瓶で、殴り殺されるかもしれない。


 それでクリビンスは窓の外を指し、


「やだ、びっくり! バルコニーを見て! 手摺に雷鳥が止まって、あかんべしてる!」


 と大声で怒鳴った。


 メイヴィス王女殿下が呆気に取られ、一瞬黙った。


「……はぁ? あなた何を言って――」


「見て! いいから、ほら!」


 大声でふたたび促すと、メイヴィス王女殿下が眉根を寄せたままバルコニーのほうに顔を向けた。


 クリビンスはその隙に椅子から離れ、素早く回れ右をする。


「あら、勘違いだったかしら、オホホ――じゃあこれで」


 そう言い置き、猛ダッシュで部屋から逃げ出した。


 扉をパタンと閉じ、安全な廊下に出たあとで、げぇと舌を出す。


 ――扉横に控えていた(ペイトンではない)護衛騎士が、目を丸くしてクリビンスを眺めていた。




   * * *




 クリビンスはその足で、王宮の音楽室に向かった。


 というのも国王陛下から事前に、


「音楽室にはいつも楽団の者が誰かしらいて、練習をしています。リクエストすれば演奏してくれると思いますので、お気軽にどうぞ」


 と言われていたのだ。


 クリビンスが音楽室の扉を開けると、ヴァイオリン、ヴィオラ、オーボエ、ホルン、ティンパニなどの奏者がいた。


「ねぇ、申し訳ないけれど、一曲お願いできます?」


 尋ねると、


「ええ、もちろんです」


 と快い返事。


 椅子に腰かけたクリビンスは、スーッと大きく息を吸ってから、


「じゃあ、わたくしの煩悩がすべて吹っ飛ぶような、激しい曲をお願い――雷鳴轟く、みたいな感じの」


 彼らは目配せし、ふたこと、みことやり取りしただけで、すぐに演奏を始めた。


 クリビンスは目を閉じ、情熱溢れる素晴らしい音色に聞き入った。


 派手な旋律が少し落ち着き、場を慣らしてから、ふたたびクレッシェンド――強く、強く、強く――これまで以上の大きな盛り上がりに到達し、それがひとつのうねりに集約され、ジャン! と小気味良く演奏が終わる。


 残響が静かに消えるのを待ち、クリビンスは立ち上がって拍手した。


「ブラヴォー!」


 心からの賛辞を送り、音楽室をあとにする。


 耳にこびりついていたメイヴィス王女殿下の怒鳴り声が、素晴らしい楽器の音色で上書きされ、心が落ち着いた。




   * * *




 ――調査二日目、続き。


 その日は、長男である王太子殿下とも話をした。ローテーブルを挟み、ソファに腰かけて向き合う。


 彼はなんというか、摩訶不思議な人だった。


 まず感じたのが、カラッと晴れた南国の空みたいな空気感。けれど陽気なだけじゃなく、なんともいえない底知れない迫力がある。


 たった数分話しただけで、彼がとても頭の良い人間であることがクリビンスには分かった。


 難しい言葉を使っているとか、そういうことではなく。切り返しがただ者ではない。


 開けっぴろげに話しているようで、その実、ほんの少しだけ芯からずらした答えが返ってくる。これは意図的にやっているはずだ。


 ゆえに、こちらは的を絞れない。まるで水を相手に押し合いをしているみたいだった。


 ……用心深いのか?


 ……あるいはメイヴィス王女殿下に対して無関心なのか。


 こちらは人を見るプロであるのに、彼が何を考えているのかよく分からない。


 そこでストレートに訊いてみることにした。


「――王太子殿下にとって、メイヴィス王女殿下はどんな存在ですか?」


 ところが、うまくいかず。


「妹です――続柄的にも、気持ち的にも」


 少しの躊躇いもなくカラリと返され、クリビンスは『これ以上、踏み込みようがない』と感じた。それで『降参』の意味を込めて、綺麗に口角を上げる。


 王太子殿下はずっと朗らかに笑んでおり、何も変わらず。


 数秒のあいだ、ふたりは社交用の笑みを交わし合った。


 クリビンスは「では、これで」と辞去の言葉を口にしようとした。ここからさらに粘っても、時間の無駄であろうから。


 しかしここで王太子殿下の纏う空気が少しだけ変化する。瞳の奥に、揺らぎ。


「……クリビンスさん、今回あなたには色々とご面倒をおかけしていますね」


「王太子殿下」


「これから言うことはオフレコで」


 王太子殿下の声はとても静かだった。


「父には確かに良くない点があります。しかし王太子の私があれこれ口を出すのは、望ましくないように思えて。……父は温和なように見えて、嫌悪を抱いた相手に対しては、ものすごく冷酷になることがあるんです。末っ子のメイヴィスは父のお気に入りでしたから、彼女をどう扱うかは、私にとっては非常にデリケートな問題でした。――メイヴィス本人が脅威なわけじゃなくて、あくまでも私と父の問題です。妹は取るに足らない、我儘な、ただの子供に過ぎないので」


 彼は正直に話している、とクリビンスは感じた。


 おそらく初めの時点で本心を隠したのは、そうしながら、クリビンスの人となりを見極めていたからではないか。


 理由はよく分からないが、彼はクリビンスを信用すると決め、かなり際どいことまで打ち明けてくれた。


 ――慎重さと、大胆さ。そして決断力の速さ。この人は、恐ろしいほどに頭が切れる。


 王太子殿下は三十歳だと聞いている。彼には年相応の(あるいはそれ以上の)落ち着きが備わっているが、それは『三十歳だから』というのが理由ではないような気がした。おそらくであるが、彼は十代の頃から、もうこんな感じだったのではないだろうか。


 家族の中に問題があり、足元がグラグラしているのに、彼は立場上、重大な責任を負わされてきた。十代の頃から、ありとあらゆるプレッシャーに晒されてきたはずだ。


 周囲は国王陛下に対しての『頼りない』という不満を、長男である王太子殿下に当てこすり、ぶつけてきたに違いない。――人は、言っても無駄な相手には何も言わなくなるものだが、だからといって我慢はできない生きものだからだ。溜まった鬱憤は、別のぶつけがいのあるところに向けられる。


 それで王太子殿下が思い詰めて、父と対立する道を選んでいたなら、内紛に発展していただろう。――彼はそれをよしとせず、早い段階で、『父と妹の件には、一切干渉しない』と決めた。


「――クリビンスさんに、これを」


 王太子殿下はそう言って、ソファの座面に視線を落とした。自身が腰かけている、すぐ隣――そこにはベルベットの布にくるまれた、四角い何かが置かれていた。


 彼はそれを手に取り、こちらに差し出してきた。


 クリビンスは少し前かがみになり、両手でそれを受け取った。


「なんですか?」


「開けてみてください」


 膝の上に置き、包みを開くと、そこには。


「これ……」


 クリビンスは茫然と呟きを漏らし、じっくりと眺めおろした。やがて自然と笑みがこぼれる。


 クリビンスは顔を上げ、キラキラした瞳で対面の王太子殿下を見つめた。


「わたくしが探していた古書だわ」


「運良く手に入りました」


 運良く? まさか、ご謙遜を! 必要なものをすぐに手に入れることができる時点で、王太子殿下はとんでもないやり手だ。


 ――だってわたくしは五年探しても、手に入れることができなかったんだから!


「だけど、なぜ?」


 眉根が寄る。ここまでされる義理がない。


「父があなたを招くつもりだと聞き、クリビンスさんのことを調べました。その過程で、本がお好きだと知り――それはお詫びの印です。私なりに、申し訳ない気持ちがありまして」


「申し訳ない……ですか」


「だってこれは家族内で解決すべき問題でしょう? 通常の夫婦カウンセリングとは違いすぎる。この結婚は、メイヴィスがやらかした醜聞の後始末なんだから」


 王太子殿下顔には苦い感情が浮かんでいた。


「父が提示した報酬のブルーソルトでは、足りないと思ったんです。――ただ、あの塩は貴重なものだし、これ以上量を増やしてお渡しすることはできない。だからせめてそれを」


 クリビンスはしばらくのあいだ黙って古書を眺めおろしていた。


 やがて顔を上げ、にっこり笑う。


「ありがとうございます! 大事にします」


「一応言っておきますが、私は『メイヴィスの矯正は無理』という考えです。ですからクリビンスさんは、できる限りのことをしてくだされば、それでもう大丈夫ですよ。決められた期日は仕事をして、結果的に駄目なら駄目で、あとは私が父に、なんとかするよう強く言いますから」


 かなり図太い自覚のあるクリビンスが、これには言葉を失った。


 ――これまではバランスを見て、国王陛下との対立を避けてきた王太子殿下が、外部に迷惑をかけるくらいならと、痛み覚悟で行動を起こそうとしている。


 とはいえ、メイヴィス王女殿下とペイトンの婚姻をなんとか纏めることができれば、直近での対立は防げるかもしれない。


 クリビンスは王太子殿下の部屋を出ながら、『国王陛下のためではなく、王太子殿下のために、力になりたいわね』と考えていた。




   * * *




 本当は次男の第二王子殿下にもお会いして話を聞きたかったのだけれど、それは叶わなかった。


 というのも彼は、クリビンスが滞在している期間、王宮を不在にしていたからだ。


 なんでも第二王子殿下は近々ここを出て、自領に居を移す予定なのだとか。その前に王都の友人宅を順に訪ね、挨拶周りをしているとのことだった。


 ――調査の過程で、第二王子殿下はとても素敵な方だというのを耳にした。


 聞いた話の断片を繋ぎ合わせ、なんとなくクリビンスは、森の奥の空気を想像した。静かで心地良く、澄んでいる。


 対面できなくて残念だ。


 あの王太子殿下の弟君がどんな人なのか、ものすごく興味があったのに。




   * * *




 ――調査三日目。


 一番の山場を迎えている。


 これから話を聞くのは、騎士のペイトンだ。


 面談のため、王宮から温室を借り受けた。湿っぽい話になるかもしれないので、せめて植物でもあれば、気晴らしになるかと思ったためだ。


 鮮やかな緑の中に、白いガーデンテーブルがあり、それを囲むいくつかの椅子――クリビンスとペイトンのふたりは、テーブルを挟み、向かい合う形で着席した。


 初めは雑談から入った。彼の家族の話や、子供の頃どんな遊びをしていたか、など。


 ペイトンはひどく緊張していた。背筋をピンと伸ばし、騎士らしく武骨な物腰――何も知らなければ彼を見て、『実直そう』という印象を受けただろう。


 ――さて、始めますか。


 クリビンスは対面の彼を見つめ、本題に入ることにした。


「わたくしの滞在期間は明日までです。本来、カウンセリングというのは時間をかけて、互いの信頼関係を築きながら進めていきます。――けれどペイトンさん、今回は時間に限りがあるので、じっくり進めることができません」


「そうですね」


「わたくしは他国の人間で、きっともう会うこともない――そう考えると、少し気が楽になりませんか? それにわたくしはこういったことの専門家だから、情報の取り扱いには慣れています。だからペイトンさん、あなたの気持ちを、ありのまま正直に話していただけないかしら」


 そう伝えたものの、「はい、分かりました」とすんなり納得してもらえるとは思っていなかった。


 これから探り探り、質問の仕方を変えながら……なんて考えていたのだけれど。


 想定外のことが起こる。


 ペイトンが少し前のめりになり、縋るように喋り始めたのだ。


「はい、全部正直に話します。俺――あ、いえ、私は――」


「俺、でいいわ。そのほうが飾っていない、素の言葉が出るでしょう」


「はい……あの」


 ペイトンは一度言葉を切り、奥歯を噛んでから、ふたたび口を開いた。彼なりに勢いをつけているようだった。


「俺、これがチャンスだと思っていて」


「チャンス?」


「俺は口下手だし、メイヴィス王女殿下の前に行くと、どうしてだか自分の考えを一割も話せない。だからプロのクリビンスさんに聞いてもらって、それを国王陛下に伝えてもらえれば、もう一度やり直せるかもしれない」


 おっと……?


 クリビンスは歯痛でも起こしたように、口角の片側だけを上げ、素早く視線を巡らせた。


 ……なるほど、彼はまだそういう認識でいるのね。


 まぁ、でも、いいわ。話すことに前向きになっているのだから、それを利用する。


 とりあえず今は全部吐き出させることを優先しましょう。


「じゃあ――子供の頃の記憶を呼び起こしてもらえます? あなたは確か……九歳? その頃に、メイヴィス王女殿下と出会いましたね? あちらはひとつ下の八歳――初めて彼女を見た時、どんな印象を受けました?」


「可愛いな、と思いました」


 ペイトンはすぐに答えた。


「お淑やかで、あまり喋らないけれど、一緒にいた時間はずっと微笑んでいて、ヒラヒラの綺麗なドレスを着ていた。……俺が知っている女の人とは全然違って、花の妖精みたいだった」


「そういえば、ペイトンさんのお母様は、ハキハキしていて力強いタイプでしたっけ?」


 先ほど家族の話が出た時、彼はそう言っていた。


 ペイトンがふっと笑みを零す。


「はい、そうです。うちはとにかく、母、姉が強くて。悪い人たちじゃないんですけど、常に自信満々で『ああしなさい』『こうしなさい』と一方的にハキハキ言われると……こちらは、何も言えなくなっちゃうんです。全部正論だから、逃げ場がなくて。骨格も骨太で筋肉質というか、母は元々女性騎士だったので、とにかく丈夫で、背も高いし、肩幅も広い。ふたりの姉もそっくりなんだ」


「なるほど……格好良くて、無敵のお母様、そしてお姉様に囲まれて育ったのね」


 ペイトンの手前『格好良い』という言い方をしたが、彼の母親は過干渉の傾向がある。――子供の人生は、子供のものだ。親のものじゃない。


 悪いことをしたら叱るのは当然だが、常に上から抑え込めば、このとおり歪みが出る。


 クリビンスは手帳を相手に見えないよう少し立てて、ペンで走り書きをした。


『溜め込むタイプ。女性に対する強いコンプレックス。それが反転し、女性を下に置きたい願望がある?』


『メイヴィス王女殿下は彼にとって理想の女の子だった。しかしそれは幻影』


『メイヴィス王女殿下のほうが身分的には圧倒的に上である――そのことに彼は敗北感を覚えた? これにより、母に対する畏怖の念、服従の心が、メイヴィス王女殿下にも向けられた?』




   * * *




 さて、次はディーナの話題。


「では、ディーナさんと初めて会った時、どう感じましたか? あなたが十五歳、ディーナさんが十六歳、でしたっけ」


「その……とても綺麗な人、だと」


 ペイトンが口ごもる。ディーナの話題になると、彼の頬にサッと朱が差したように感じられた。……とはいえ日焼けしているので、はっきりとは分からなかったのだが。


 クリビンスは小首を傾げ、尋ねる。


「彼女は大人っぽかった? あちらのほうが、ひとつ上ですものね」


「はい、すごく……俺、緊張してしまって」


 語りながら当時のことが蘇ってきたのか、滑舌(かつぜつ)が悪くなる。


「彼女から、すごく良い匂いが、しました。その……何を話したのか、あまり覚えていません。戦闘訓練より、緊張したかも」


「そう……」


 メイヴィス王女殿下と出会った時、彼は九歳。――『ドレス可愛い、にっこりした顔が可愛い』――その程度で『大好き!』となったとしても、別におかしいことではない。


 そしてディーナと出会った時、彼は十五歳。異性の好みもある程度はっきりしてくる頃合いだろう。それでここまでの反応を見せているのだから、ディーナは彼の理想に近い女性だったということか。


 しかし、だとすると。


「当時の話、ね? あなたはメイヴィス王女殿下とディーナさん、どちらが好きでしたか?」


「それはもちろん、メイヴィス王女殿下です」


 え。


「なぜ?」


「だって……九歳からずっと好きでした。一途じゃない男は、駄目な男だ」


「それ、誰が言ったの?」


「皆が」


「皆って?」


「ええと、母が――その、母は一度、父に浮気されたことがあるらしく、よく言っていました。『愛した女がいるのに、簡単に目移りするのは、騎士の風上(かざかみ)に置けない男だ。どうしようもないロクデナシだ』と。だから俺も……メイヴィス王女殿下を一度好きになったら、ずっと愛し続けないといけない」


「皆が、とさっき言いましたね? ほかにもあなたに『一途であるべき』と言った人がいるの?」


「メイヴィス王女殿下です。彼女はよく、『一途な人は素敵だし、そういう殿方はみんな成功している。その反対に、簡単に心変わりして、不幸になった方も多いみたい』と話していました」


 なるほど……分かったような、分からないような。


「では、あなたはディーナさんに恋をしなかった?」


「はい。俺は――彼女が大人びていたから緊張しただけで、好き、とかじゃなかったです。でも、婚約者であるディーナを大事にするのは、それはそれで立派なことだから、ふたりきりの時は彼女に喜んでもらえるよう努力しました」


 なんとまぁ……クリビンスは考えを巡らせる。


 当時十五歳だったペイトン少年は、どう考えても、ディーナ嬢に一目惚れしている。


 しかし『心の移り変わりは、軽薄』という考え(というより、周囲からの圧)があり、彼は『自分はメイヴィス王女殿下を愛し続けている』という元の思い込みを強化させた。


 まぁ……短期間ならば、そういう勘違いもありえるかもしれない。


 しかしそれが四年も続くものだろうか?


 何かがおかしい。




   * * *




「茶会の話をしましょう――ディーナさんと婚約したあと、半年ほどたって、三人で話をしたんですって? ペイトンさん、メイヴィス王女殿下、ディーナさんの三人で」


「はい、国王陛下からの依頼でした」


「娘にお友達が少ないのを心配した国王陛下が、ディーナさんのお父様に頼んだのよね? メイヴィス王女殿下の話し相手になってくれ、と」


「そう聞いています」


「でも、あなたはその茶会で、ディーナさんにひどい態度を取らなかった?」


「その……」


 ペイトンの顔が歪む。――痛いところを突かれた――彼の顔にはそう書いてある。


 クリビンスはさらに尋ねた。


「国王陛下は『話し相手になって』と言って、わざわざディーナさんを呼び出したのでしょう? それなのになぜ、あなたは場が和やかになるよう、努力しなかったの? ディーナさんが喋っている時、あなたは何をしていましたか?」


「彼女を無視……しました。一切見なかった」


「どうして?」


「それは」


 ペイトンは俯き、手のひらで目元を覆う。


 ――彼は恥じている。


 クリビンスはこれを興味深く感じた。


 無意識に残酷な態度を取ったのではなく、彼は意図的にディーナを無視したのだ。


 それはなぜなのだろう?


 百歩譲って『メイヴィス王女殿下を愛し続けていた』のだとしても、複数人参加の社交の場で、話をしている人に視線を送るのは、当たり前のマナーだ。その人をまるで見ないというのはありえない。礼儀の問題である。


 しばらくペイトンはじっとしていたのだが、やがて身じろぎし、目元を覆っていた手を外した。


 そして小さな声で答えた。


「――ディーナを罰したくて、そうしました」




   * * *




「罰する? ディーナさんは何か悪いことをしたのですか?」


「いいえ」


 ペイトンの声は消え入るように小さい。


 けれど話をする気はあるようで、ボソボソと続ける。


「茶会の数日前のことです……その、俺……彼女に質問したんです……婚前交渉について、どう思うかを」


 ん?


 クリビンスは呆気に取られた。思わぬ方向に話が飛んだ。


「ええと……この国は、結婚前の性行為を認めていますか?」


「いえ、表向きはよくないってことになっています。でも……婚約関係にあるふたりなら、暗黙の了解で、しても構わないという考えもあって」


 ……という考え『も』あって? ニュアンスがなんとも。


「その考えは、一般的ではないのね?」


「はい」


「あなたは、したかった?」


「……はい」


「それでディーナさんはなんと?」


「びっくりした顔をしていました。驚きすぎて、赤面もしなかった。たぶん彼女にとって、俺と結婚前にそういうことをするのは、想像もできなかったのでしょう」


「そもそもあなた、どういう質問の仕方をしたの?」


「友達の話をしました。――結婚前に、婚約関係の段階で、そういうことをしたやつがいる、と。それについて、どう思う? って」


 ずいぶん回りくどい質問ね……そう問われても、ディーナさんは『彼は私としたがっている』とは考えられないのでは? 初心(うぶ)な十六歳の貴族令嬢が、そういうことを生々しく想像できないのは、無理もないでしょうに。


 ペイトンが続ける。


「彼女は『よく分からないわ』と素っ気なく答えました。『分からない? それはちょっと、自分の意見がなさすぎるのでは?』とさらに尋ねると、『だって本当に……分からなくて。うちは保守的で、父も母もそういう話を私にしないの。それに私は……結婚前にするなんて、ありえないと思う。キスとかも……駄目だと思うわ』と言ったんです。俺は……なんだか拒絶された気分になって。彼女は俺のことが好きで、もしもこちらが求めたら、恥じらいながらも受け入れてくれるに違いないと信じていた。だけど彼女に『ありえない』と言われて、すごくショックで」


 クリビンスは頭痛がしてきた。


 ペイトンは大変な困ったちゃんだが、ここでまず問題になるのは、怒りを感じた結果、理由も言わずにディーナを無視したことだろう。


 これは誰しも意外とやりがちな行動なのだが、無視されたほうは『嫌われた』と感じるし、心に深い傷を負う。


 やるほうは『別にこのくらい』という軽い気持ちであっても、やられたほうはたまらない。


 怒ると相手を無視するタイプの人は、大抵、人間関係で重大なトラブルを抱えている気がする。


 本人の言い分としては、『相手は無視されるだけのことをした』になるのだろうが、もしも自分が何かしでかした時に、相手から同じように無視をされたら、おそらく怒り狂い、同時にものすごく落ち込むのではないだろうか。自分がされて嫌なことは、やはりすべきではない。


「――ねぇ、ペイトンさん」


 クリビンスは手帳を閉じ、まじまじと彼を見つめた。


 凪いだ表情で続ける。


「茶会の時点では、あなたはディーナさんを愛していたのね」


 彼の顔が歪んだ。


「……はい、たぶん」


「では、なぜ」


 それを問うクリビンスはやりきれなかった。


「茶会の経緯は分かったわ。でも、その後もメイヴィス王女殿下を優先し続けたのは、なぜ? ずっと婚前交渉の件を引きずっていたわけでもないでしょう」


「それは……気持ち……良かったから」


「え?」


「俺が傷つけると、彼女が……俺だけを縋るように見る……たぶん、それが気持ち良かった。俺がいないと彼女は駄目なんだって、実感できた。結婚するまで、体では彼女と繋がれないから、心だけは……もっと深く……傷つけて、自分のものにしたかった。……ああ、でも」


 ペイトンが苦しげに眉根を寄せ、茫然と視線を彷徨わせる。


「こんなこと……考えたこともなかったな。ずっと俺は……ディーナに対する気持ちに、蓋をしていたのかも。自分の狡さ、残酷さに気づきたくなかったし……メイヴィス王女殿下を愛し続けている自分なら、一途で立派な男でいられるから」


 ディーナを傷つけることで快感を得ていたというのは、今この場だから言語化できたけれど、彼自身が長いあいだ、感情の動きを把握できていなかったということか。


 だからこそ彼の行動は一貫性を欠いているように見えた。


「メイヴィス王女殿下に、『あなたと結婚したい』と具体的に言ったことはありますか? 隣国のアドルファス王太子殿下の前で、メイヴィス王女殿下はそのような発言をしていますね――ペイトンさんからそう言われていた、と。ディーナさんと婚約していたのに、それはちょっとひどくありませんか?」


「いえ」


 ペイトンの顔が歪む。


「自分はそう言ったつもりはありません。でも……メイヴィス王女殿下と一緒にいると、こちらが『はい』としか言いようのない質問をされることは、よくあります」


「たとえば?」


「あなたは九歳の時、すごく優しくしてくれたわね? 私は当時、あなたからの愛情をすごく感じたし、幼いながらに結婚も意識したけれど、あなたのほうはどうだった? 好意は持ってくださっていたのかしら? とか」


「それは『はい』としか言いようがないわね」


 鬼気迫る口調で問われたらさすがに警戒するだろうが、昔の思い出話……というていでサラリと尋ねられたら、事実から外れているわけでもないから、肯定するしかない。




   * * *




「……ディーナさんが新しい聖女に決まった時、どう感じました?」


「ありえない――そんなの納得できない、と思いました」


 ペイトンの声が乱れる。叩きつけるような、激しい口調だ。


「ディーナの婚約者は、俺だ――こんなのは間違っている」


「だけど彼女はもういない」


「でも」


「隣国に行ってしまったんです、ペイトンさん」


「でも」


 ペイトンが縋るようにこちらを見てくる。


「まだ入籍していないでしょう? 彼女が俺の気持ちを知れば、考え直してくれる――たぶん、そうだ。だって彼女は俺を愛しているからこそ、傷ついたんだ。愛していないなら、傷つかなかったはずだ」


「傷ついた結果、愛がなくなったとは考えないの?」


「でもきっと元に戻る」


 でも、でも、でも……彼は先ほどから無理矢理、現実を否定している。


 でも、じゃない。


 でも、の余地はもうない。


「ヒビ割れたカップを思い浮かべてみて――『割ってしまって、惜しいことをした、ヒビよ消えろ』――そう願うだけで、元どおりになるかしら?」


「四年ですよ! 四年、ディーナと婚約関係にあった!」


「だけどペイトンさん……メイヴィス王女殿下とは、出会ってからもう十年の付き合いでしょう? どうしてあなた方は、今さらギクシャクしているんです? 去った者を惜しむのはやめて、初恋相手の王女と結婚すればいい」


「……無理だ」


「どうして無理なの?」


「ああ、クソ」


 ペイトンは涙を零した。


「……俺はメイヴィス王女殿下を愛していない。これっぽっちも愛していない。全然好きなタイプじゃない」


 クリビンスはほう……と息を吐いた。


 たぶんね……メイヴィス王女殿下にその気持ち、伝わっていますよ。


 承認欲求が異常に強い少女が、多くのものを一気に失った。聖女の称号も、大国の妃というステータスも、ディーナより上だという女の優越感も。


 そして彼女の大きな支えだった、ペイトンから向けられ続けた、羨望の眼差し――それすらも失ったのだとしたら。


 彼女は壊れかけている。


 いえ――……もうすでに、壊れてしまっているのかも。




   * * *




 ――最終日、早朝。


 クリビンスは取り次ぎの人に頼み、ペイトンを呼び出してもらった。


 長話をするつもりはないので、待ち合わせ場所は柱廊の途中にした。そこは壁がなく、柱の向こうには庭が広がっていて開放感がある。


 中庭の芝生に朝の陽光が反射し、淡い輝きを放ち、美しい。


 ――ペイトンはすでに来ていた。


 柱に寄りかかり、ぼんやりと庭を眺めている。


 やって来たクリビンスに気づくと、彼は瞳を輝かせて足早に近づいて来た。きっと良い知らせを期待しているのだろう。


 ふたり、向き合って佇む。


 クリビンスは物柔らかにペイトンを眺めたあと、小さく息を吐いた。


 そして伝える、残酷な事実を。


「――ペイトンさん、これから私は国王陛下にお会いして、一連の面談を総括したリポートを提出します」


「そうですか、あの、俺の気持ちはちゃんと伝えていただけますよね? それで、もう一度ディーナをこの国に呼び戻していただいて、せめて話だけでも――」


「いいえ」


「え? だけど」


「いいえ、ペイトンさん」


 クリビンスは手に持っていた書類を差し出した。


「これが私の作成したリポートです。――最後の『結論』欄を見てください」


 彼が無言で受け取り、それを読み始める。すぐに彼は無表情になった。


『根本的解決は困難だと思われます。――ただし、ひとりを犠牲にして、その者にひたすら我慢を強(し)いるのであれば、なんとか結婚まではこぎ着けられるでしょう』


 クリビンスはその続きを自分の声で、淡々とペイトンに伝えた。


「犠牲になる人物は、メイヴィス王女殿下のお相手である、ペイトンさんです。メイヴィス王女殿下が折れないのだから、ペイトンさんが奴隷のように彼女に従うしか、解決方法はありません」


「なんで……なんで、こんな、ひどい……」


 ペイトンの顔がくしゃりと歪む。信用して色々話したのに、裏切られた――彼はおそらくそう考えていて、深く傷つき、今にも泣き出しそうだった。


 しかしクリビンスが同情を見せることはなかった。


 それがせめてもの、彼に対する誠意のような気がしたからだ。今さらいい人ぶるのは卑怯だと思った。


「――音(ね)を上げるのが、早すぎる」


「クリビンスさん?」


「あなたは四年間、ディーナさんを虐げ続けた」


「そんなつもりは……」


「自覚がないのですか?」


「それは……そうかもしれないけど、でも」


「傷つけた自覚があるのなら、あなたも四年は耐えなさい。――メイヴィス王女殿下と共にいることが苦痛だとしても、せめてディーナさんが耐え続けたのと同じ年月くらいは、我慢しなさいよ。あなたは立派な騎士様なのでしょう――あなたの考える立派な騎士様とやらは、自分でやらかしたことの責任も取らず、『あれは嫌だ、これは嫌だ』と駄々をこねるのですか」


 クリビンスは彼のほうに手を差し出した。


「リポートを返していただけますか」


 要求どおりクリビンスの手元にリポートが戻って来るまで、一分以上かかった。


 ペイトンはすっかり脱力していて、生きる屍のようになっている。


 彼を眺めるクリビンスの瞳は冷徹なほどにクリアだった。


「――では、さようなら、ペイトンさん。どうかお元気で」


 クリビンスは彼から視線を切り、歩き始める。


 ――今回、クリビンスが国王陛下から受けた依頼は、『結婚する気にさせればOK』というものだった。


 ペイトンに四年我慢させれば、約束は十分に果たしたことになる。


 多くのものを失ったメイヴィス王女殿下は、こうなってはもう彼を手放せないから、ペイトンが我慢をすれば丸く納まる。


 背筋を伸ばして進むクリビンスは、前だけを見つめ、後ろを振り返らなかった。


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