【コミカライズ決定&電子書籍化】初恋相手の王女の心配ばかりしている婚約者と、スッキリさよならしました ~隣国の王太子に見初められ溺愛が始まりました~

山田露子☆10/10ヴェール小説3巻発売

1.婚約破棄ざまぁ編

(1)初恋相手の王女の心配ばかりしている婚約者と、スッキリさよならしました


 好きな人に振り向いてもらえない。


 それってものすごく悲しいわよね。


 私の場合は好きになった相手が婚約者だったから、状況はかなり悲惨だった。


 いっそ婚約破棄してくれればいいのに――そうすれば顔を合わせることがなくなるから、気持ちを切り替えられる。


 だけど彼はそうしなかった。『これは政略結婚なのだから、愛は不要だろう』という考えのようで、それは確かにそうなのかもしれないけれど。


 彼が少しずるいのは、ふたりきりでいる時は、私のことをそれなりに丁寧に扱うところだ。虐げるわけでもなく、冷たくするわけでもなく。だけど根底に愛はない。


 ――何をしても好きな人に振り向いてもらえない。


 もういい加減、疲れてしまったわ。


 ――なんと四年間。


 婚約者は四年間、私を傷つけながら、別の女性を愛し続けた。




   * * *




 自己肯定感が低くなり、私の十代は散々だった。


 けれどそんな私に二カ月前、転機が訪れた。


 もしかするとこれはビッグチャンスかもしれない。


 たぶん私は今、それを掴みかけている。




   * * *




 気持ちが前向きになったおかげか、以前より柔軟にものを考えられるようになった。


 ――私もつらかったけれど、彼もやはりつらかったのだろう。


 今は素直にそう思える。そう思えるようになったというのは、裏返すと、彼への愛が冷めたということなのかも。


 没頭していた状態から抜けたから、『彼も大変よね』と冷静に考えられる。




   * * *




 そもそも彼は、私より先に、王女殿下と出会っているのだ。


 ふたりの出会いは、彼が九歳、王女殿下が八歳の時。


 騎士団長子息である彼は、父親に連れられて王宮に行き、王女殿下と引き合わされたらしい。


 王女殿下はなんというか、スイレンみたいな女性だ。――ほら、あの、水に浮かぶスイレン。


 凛として綺麗だけれど、水の中にあるせいか、見た側は感嘆よりも別の感情を刺激される。容易には近寄れない、異質であるという、不思議な感じ。


 黒髪で、華奢で、妖精のように可愛らしい彼女。保守的かと思えば、前髪を短くパツンと切り揃えていて、そういうところが妙に印象に残る。アンバランスで気を惹かれる、というか。


 せっかく可愛らしいのに、いつも困ったように眉尻が下がっているところも、彼女のトレードマークだ。


 あんなふうに心細そうな顔をされたら、一緒にいる男性は、『護ってあげなければ』と庇護欲をかき立てられるに違いない。


 当時九歳だった彼は、出会ったその日に、王女殿下に恋をしたらしい。


 これは彼本人から聞いたわけじゃない。有名な話で、皆知っているのだ。


 ふたりの出会いを見た大人が、面白可笑しく誰かに語って、それが広まってしまったみたい。


 彼って一途なのよね……初恋相手の王女殿下を、それからずっと、ずっと、変わらず愛し続けた。


 ふたりが結ばれていれば、誰も不幸にならなかったのだろう。


 けれど。


 想い合うふたりを引き裂く悲劇が起こる。


 王女殿下に聖女の力が発現したのだ――それは彼女が十三歳の時だった。




   * * *




 この国の『聖女』という概念は少し変わっている。


 聖女といっても怪我や病気を治す力はなく、『塩湖の浄化』という、たったひとつの限定した能力しか持たない。


 当国の西には大きな塩湖が接していて、その塩湖自体は隣国の領土になる。


 そこで採れる塩は青みがかかっており、ものすごく高価なものだ。


 ただ、塩湖から塩をそのまま採取すると、青のほかに違う色が混ざっていて、口に入れると舌が痺れるような刺激があるらしい。猛毒というわけではないけれど、人体に有害であり、そのままでは食用にならない。


 それを浄化して、クリアなブルーに変え、食用に格上げできるのが聖女の力だ。


 どういう訳か、聖女は当国の人間からしか生まれない。塩湖は西の国の領土なのに、あちらの国では聖女が生まれないらしいのだ。


 塩湖は当国の領土ではないけれど、近接しているから、影響される何かがあるのだろうか。――原理は分からないが、土地が持つ磁気だとか、地下水だとか――そういった何かが一方的にこちら側に影響を与えているとか? それが聖女という特殊な存在を発生させているとか?


 まぁ『なぜか』は我々にとってはどうでもいいことだ。現象として塩湖を浄化できる聖女が生まれる――もうそういうものだから、国はそれを管理する必要がある。


 当国では十五歳前後になると、少女は教会に行き、聖女判定を受ける。


 判定方法はシンプルで、銀盆に載せられた塩湖の塩に手をかざし、浄化できるかどうかを試す。採取したままの濁った塩が盛られているので、それがクリアなブルーに変われば、その者が今代の聖女となる。


 王女殿下は十三歳でその判定を受けた。


 そして見事、塩をブルーに変えてみせた。


 ちなみに私は当時十四歳で、『一年後には受けるようだわ』と考えていたのだけれど、王女殿下が力を発現させ聖女に決まったので、そのまま受けずに終了となった。


 慣例的に聖女が決まったら、教会はそれ以上、判定式を続けないことになっていた。というのも長年ずっと、聖女は時代にひとりしか出現しなかったらしいし、また、ひとりいればそれで十分だったから。ちなみに新しい聖女は、二十年周期くらいで規則的に現れるのだとか。


 ――それで、聖女になった者はどうなるのか?


 取り決めで、その者は隣国に嫁ぐことになっている。『適材適所』というやつだろう。


 隣国は豊かで広大な領土を持つ、当国とは比ぶべくもない大国である。互いの力関係からして、こちらが聖女を差し出すのは当然の流れだった。


 そしてその政略結婚は、こちらの国にとってもメリットが大きい。


 聖女を差し出すことで、塩湖で採れた塩を、優先的に譲ってもらえる。


 食用の塩はとても貴重だ。料理の味が良くなるし、保存食を作る際にもかかせない。


 そしてただでさえ塩は貴重なのに、隣国で採れる塩湖の塩は、ブルーに色づいた特別なもので、栄養価も高く、この上なく美味なのである。




   * * *




 王女殿下が聖女に決まり、騎士団長子息の彼は打ちひしがれた。


 というのも、ふたりは婚約する予定であったらしいのだ。


 婚約前に念のため聖女判定式を受けなければならず、教会に行き、王女殿下は塩の色を変えてしまった。


 それでふたりの婚約は『なし』になった。


 聖女に決まった王女殿下は、本来すぐに隣国に嫁ぐはずであるが、彼女が当時十三歳とまだ年若く、また先方の王太子殿下もふたつ上の十五歳と若年であったので、婚約はもう少し待とうということになった。それは先方からの強い要望であったらしい。隣国の王太子殿下は海外留学する予定があったとかで。


 こちらのほうが立場は弱いので、当然、すべて相手方の都合が優先された。王女殿下と隣国の王太子殿下は、顔合わせしないまま、互いに十代を過ごすことになった。


 ――ただ、それにより宙ぶらりんの状態に置かれたのが、騎士団長子息の彼だ。


 王女殿下との婚約がだめになったので、別の相手を探さなければならない。


 そこで急遽お相手として選ばれたのが、私だった。


 私は、彼とも、そして王女殿下とも、それまで会ったことがなかった。


 婚約が調い、彼と顔合わせしたのが、私が十六歳、彼が十五歳の時。


 初対面の印象は悪くなかった。


 私のほうがひとつ上ということもあるのか、彼は恐縮していて、少し照れていたように思う。


 日頃から鍛錬しているせいか、十五歳のわりに精悍な印象が強かったのだけれど、シャイな部分があるおかげで、それが中和されていた。彼は顔も整っていた。


 ――それで彼はなんというか、少し思わせぶりなところがある少年だった。


 私が話しかけると、頬を赤らめて口元に笑みを浮かべたり、手のひらで太腿をこすったり、そんな可愛らしい仕草をするのだ。


 当時私は王女殿下と彼が恋仲であったことを知らなかったので、彼の態度を見て、ときめきを覚えた。


 結婚する相手が自分に対して良い意味で緊張してくれているのは、素直に嬉しかったから。


 嬉しく感じると、今度は彼の好ましい点に、あれこれ目が行くようになり。


 ――話し方が実直だわ、とか。


 ――鍛錬が好きなのね、努力家なんだわ、とか。


 ――弟さんを可愛がっているの? そういう優しい人っていいな、とか。


 ――武骨なのにピアノを弾けるなんて、ギャップが素敵、とか。


 私、すぐに好きになってしまったの。……ああ、馬鹿だった。


 半年ほどかけて、私の心が彼でいっぱいになった頃に、自分がとんでもない勘違いをしていたのだと思い知らされた。


 それは王女殿下、婚約者、そして私――三者でお茶を飲んだ時のことだ。


 ……そもそもなぜこんな馬鹿げた茶会が催されたのか?


 なんでも、王女殿下に同性の友達がいないので、それを心配した国王陛下(彼女の父)が、私の父にお願いをしたらしいのだ。――娘同士で話をする機会を作ってくれないか、と。


 それでいきなりふたりきりにするもなんだからと、王女殿下とは古い付き合いの、私の婚約者も同席することになり。


 国王陛下の頼みとあれば、断ることはできなかった。


 この依頼を受けた時には、私はすでに『婚約者と王女殿下が昔、両想いであったらしい』という噂を耳にしていた。だから気は進まなかったのだけれど、それでも茶会に参加するまでは、それほど深刻に悩んではいなかった。だって今の彼は私のことを好いてくださっていると信じていたから。


 そして茶会当日。


 席を囲んでいる三人の中で、私だけがまるでピエロの役割だった。


 王女殿下を愛おしそうに見つめる彼を、私は悲しい気持ちで眺めることになった。


 私が喋っていても、彼はずっと王女殿下を見ている。


 そして王女殿下が、


「三日後、ちょっと買いものに付き合ってほしいのだけれど、大丈夫?」


 と彼に尋ねた時、婚約者は私を裏切った。


 その日は私と会う予定が入っていたのに、


「もちろん大丈夫です。あなたを優先します」


 と即答したのだ。こちらを一切見ずに。


 私は胸が張り裂けそうに悲しくなって。


 あまりにショックすぎて、「私と先約があるわよね?」と問うことすらできなかった。……まぁ口にしていたところで、結果は同じだったでしょうけれど。


 王女殿下が「ふふ」と可憐に微笑んでいるのを見て、彼女のことが嫌いになりそうだった。


 ……どうして私の婚約者を目の前で誘うの?


 せめてこっそりやってくれればいいのに。




   * * *




 そんな感じで月日は流れていった。


 彼はいつだって王女殿下を優先し続けた。


 私との約束があっても、王女殿下に誘われれば、こちらの先約は簡単に破棄する。その際に申し訳ないという顔すらしない。


 一度、勇気を出して、


「先に私と約束していたのに、それをなかったことにされて悲しかった」


 と言ってみたことがあるけれど、


「でも君との約束はその後別の日にちゃんとずらしたし、会えなくなったわけじゃないよね? どうしたの? 機嫌悪い?」


 そんなふうに怪訝に返されて、絶句してしまった。まるでこちらが我儘を言っているかのような扱いをされたから。


 彼は王女殿下のことが別格で好きすぎるから、彼女を何より優先するのが『当たり前』のことなのだ。


 せめて私に対しては、「身分的に、王女殿下の頼みは断れないよ」と上手く言い訳してくれたなら、まだマシだったかもしれない。その気遣いすらされないことで、なんとなく彼から、「二番目の女(君)を、二番扱いして何が悪いの?」と言われた気がした。


 そしてパーティに出席した際は、彼は初めだけ私に見惚れる素振りをするものの、王女殿下が現れると、もうそちらしか見なくなる。


 ……私も馬鹿かもしれない。こんな目に遭っているのに、彼を愛し続けたのだから。


 けれど彼、ふたりきりの時は、私に恋をしているような顔をするのよ。だから期待してしまって。


 いつか――王女殿下が手に入らないと諦めがつけば、私だけを見てくれるようになるかも、って。


 でも、さすがにもう疲れてしまった。


 もう、いらないわ。


 私、彼と結婚したくない。




   * * *




 ――現在。


 彼が十九歳、私が二十歳。


 王女殿下が十八歳、隣国のアドルファス王太子殿下が二十歳。


 さすがにもうそろそろ王女殿下の婚約を進める必要があり、隣国から使者を迎えることになった。


 アドルファス王太子殿下本人は所用が立て込んでいて来られないということで、彼の叔父であるルードヴィヒ王弟殿下が代わりにやって来るそうだ。


 先方の希望で、少人数の落ち着いた環境で話をしたいとのこと。


 ――そしてその場に、私も呼ばれた。


 呼ばれた経緯は、またもや国王陛下からの依頼だった。


 王女殿下は内気で初対面の人とうまく喋れないから、気心の知れている私が同席し、場の空気を和やかにしてほしいとのこと。


 私はこの会合がかなり重要であると考えていた。


 先方のルードヴィヒ王弟殿下は、国王陛下との交流は別途行うはずで、この茶会の目的は、『花嫁の人となり』をじっくり見極めるためではないだろうか。


 というのも、本人の性格を事前に把握しておかないと、花嫁を隣国の王宮内でどう扱うのか、方針を決められないだろうから。


 茶会は王宮のサンルームで開かれた。


 当国の出席者は、王女殿下、そして私。


 先方の出席者はルードヴィヒ王弟殿下、そして秘書の女性。


 私の婚約者も警護と称して、部屋の隅に立ち、じっと様子を窺っている。




   * * *




 ルードヴィヒ王弟殿下の顔を見た途端、私はなんともいえない複雑な気持ちになった。


 ――たとえば急な坂道の途中に台車を置いて、ストッパーもせずにその場を離れようとしている人を遠目で見たら、『危ない!』と感じるだろう。『それ、勝手に転がり落ちて行きますよ!』と。教えてあげられる距離にいて、事故を未然に防げればいいけれど、自分にはどうにもできない時もある。


 まさにそんな気分だった。


 これからマズイ事態になりそうな気配があり、私はそれに気づいている。


 だけど私には到底、王女殿下を救うことはできそうになかった。だって彼女は勝手に落ち込み、自分から不幸になっていくに違いないから。


 ルードヴィヒ王弟殿下は三十歳と聞いていたが、見た目はもっと上に感じられた。


 クマのような外見……といったら、クマに失礼だろうか。


 理由はよく分からないのだが、彼と対面した際、背筋がゾッとするような、奇妙で嫌な印象を受けた。下卑ていて、不浄で、邪悪で、醜悪に感じられた。


 王女殿下は『この人、気持ち悪い』というのを露骨に態度に出し、サッと視線を下げると、モジモジとドレスの布地を弄り始めた。


 私はそれを横目で眺め、冷静になることができた。


 ……いけないわ。


 初対面でまだどういう人か分かっていないのに、そんなあからさまな態度を取っては。


 しかも相手は大国の王族で、格上も格上だ。そんな人を見下すなんて、外交上、とんでもなく失礼な行いに当たるだろう。『外見が気持ち悪いから、顔も見たくない、なるべく関わりたくない』なんてことは到底許されない。


 挨拶を終えて一同着席し、テーブルを囲む。


 ……私がしっかりしないと。


 深呼吸をして、改めてルードヴィヒ王弟殿下を眺めてみると、不思議なことに、先ほどの嫌な感じがしなかった。


 私は上辺だけの愛想笑いではなく、自然と和んだ笑みを浮かべていた。


「こちらへいらっしゃる途中、コーツ渓谷には立ち寄られましたか?」


 隣国からここへ来るには、ふたつルートがあるのだが、コーツ渓谷を通るのは南回りのルートだ。


 ルードヴィヒ王弟殿下は片眉を上げ、私の問いに丁寧に答えた。


「いえ、興味はあったのですが、急いでいたので北回りのルートで来たのですよ。コーツ渓谷に立ち寄ったほうがよかったですか?」


「眺めは綺麗です。――ただ、私が今お尋ねしたのは、コーツ渓谷の名物料理を召し上がったかどうかを知りたかったもので」


「名物料理?」


「生芋を原料とした食べものなんですが、味がすごく不思議なんです」


「美味しいのかな」


「すごく美味しいというわけでもないですね。でも食感と風味が変わっているので、面白いというか、食べて損はないものです」


 ルードヴィヒ王弟殿下は声を立てて笑った。


「それは気になるなぁ! 帰りに寄って、ぜひ食べてみますよ」


 少し話してみて、楽しい方だわ、と思った。すごく話しやすい。


 彼が続ける。


「実はね――コーツ渓谷にはもともと行くつもりではあったんです」


「あら、そうでしたか」


「といっても、目当てはオカルト関係なんですが」


「え」


 私は目を丸くした。……聞き間違いかしら? と思えば、そうでもないようだ。


「コーツ渓谷の教会に、人魚のミイラがあると聞いたんですよ」


「そうなのですか? 初耳です」


 当国のことなのに、ここで暮らしている私よりも、隣国のルードヴィヒ王弟殿下のほうが詳しいとは。


「私は世界各地に伝わる呪いや、不思議なアイテムを研究して歩いているんです。――ほら、物事って意外なところからヒントを得られることがあるでしょう? 私はオカルトを研究して、そこから何か治世に役立てるアイディアが得られないかと考えているんですよ。実際に自分の体で呪いを試したりもしますし」


 考えてみれば、『聖女』の力――塩湖の浄化などは、オカルトの最(さい)たるものだ。


「まぁ……なんだか、聞いているだけでワクワクします」


 ルードヴィヒ王弟殿下はこれまでに会ったことのないタイプの人で、存在そのものが驚きに満ちている。私は目の中に星が散ったかのような衝撃を受けた。


 ただ、私は他人事なので楽しんでいられるけれど、ずっと近くで仕えている人はどうなのだろう。視線を転じると、ルードヴィヒ王弟殿下の隣に腰かけている秘書の女性は、『ああ、まったく』とげんなりした顔をしている。


 けれど彼女、あるじのことを心から尊敬しているようで、対面した当初から、私にはそのひたむきさがひしひしと伝わっていた。


 たとえば当国の王女殿下がルードヴィヒ王弟殿下に失礼な態度を取った際、秘書の女性はとても鋭い視線でそれを眺めていたからだ。


 その凛とした佇まいを見て、私は彼女に好感を抱いた。――『愛する人を侮辱された』――彼女の視線の真剣さからそれを読み取れたので、真っ直ぐな人だなと思った。


 たぶんこの女性は、ルードヴィヒ王弟殿下のことが好きなのだ。二十代半ばに見えるので、ふたりの年齢はそう離れていない。


 なんだか微笑ましかった。


 それに、私が先ほどコーツ渓谷の話を持ち出した際、『なんとか空気を和らげよう』という意図を察したのか、秘書の女性が感謝したようにこちらを見つめてきた。


 私は長いあいだ、こういう『察することができる人』に出会いたいと願っていた。『察することができない人たち』にずっと心を踏みにじられてきたから。


 だから目の前のおふたりと会話できていることが、素直に嬉しくて。


 私がにっこり笑って秘書の女性を見つめると、それに気づいて相手もにこりと笑みを返してくれる。


 ああ……心弾むわ。




   * * *




「アドルファス王太子殿下はどんな方ですか?」


 すっかりリラックスして私が尋ねると、


「ああ、甥っ子は私にそっくりですよ」


 とのルードヴィヒ王弟殿下の答え。


「そうなのですか」


 それなら楽しそうな方ね……きっと。


「見た目はすごく似ているんですがねぇ……ああでも、性格はあいつのほうが、ちょっと気取っているかな」


「まぁ」


 この野性味溢れる見た目で、性格が気取っていると、なんだか生きづらそうだわ。


 すると視界の端に、はっきりと顔を顰めている王女殿下の顔が映った。美しく小作りな顔も、あんなふうに機嫌が悪そうにしていると台無しである。


 ……ああ、ちょっとは我慢してください……私のほうが顔を顰めたくなってきた。


 王女殿下は、アドルファス王太子殿下の外見が、目の前の叔父に似ていると知り、すっかり投げやりになっている。


 ――ただこれはやはり、私にとってチャンスかもしれない。


 ここ最近狙っていたことが、実現する可能性が高まった。


 王女殿下は心細さを感じているはずで、私がこれからする提案におそらく飛びつく。


 それはつまり。


「あの」


 少し改まった口調で切り出す。


「ルードヴィヒ王弟殿下――私、そちらの国で何かお役に立てないでしょうか。事務官として働きたい希望がありまして、言語のほうも、日常で困らない程度には習得済みです。私も王女殿下の嫁入りの際、一緒に付いていけたら嬉しいのですが――王女殿下のことも心配ですし、近くにいれば色々サポートできるかと」


 これは賭けだ。


 隣国に行ければ、婚約者との繋がりを円満に切ることができる。国益になるなら、婚約破棄もペナルティなしで処理してもらえるだろう。


 とはいえ、いつまでも王女殿下の面倒を見るのはごめんなので、隣国に渡ったら、事務官として一生懸命働いて、それで生きていけるように頑張りたい。価値を示せば、王女殿下のおもりをさせておくにはもったいないと思ってもらえるかも。


 ――私は新しい扉を開ける。


 もうここで足踏みはしない。


 王女殿下がこれに飛びついた。


「え、ディーナが一緒に来てくれるなら、嬉しい! 私、ひとりでは心細いわ! ひとりじゃ絶対無理だもの!」


 ちょっとそれは……私は呻き声が漏れそうになる。心で思ったとしても、隣国のルードヴィヒ王弟殿下の前で言っていい台詞ではない。


 本来ならば彼女は、『ディーナは優秀なので、お役に立つと思いますし、ぜひ帯同したいです』くらいの表現に留めるべきだっただろう。話をスムーズに通すために私が有用であると保証した上で、控えめに『連れて行きたい』という自身の希望を述べれば十分だ。『ひとりじゃ絶対無理!』と断言してしまう女性を、一体誰が歓迎するだろう。


 少し場が荒れたのだが、問題なのは王女殿下だけではなかった。


「え……!」


 想定外のところから悲鳴のような声が上がった。


 ――私の婚約者だ。


 壁際で警護をするという役割のはずなのに、彼自身が一番の危険人物になってしまっている。


 彼は愕然とした顔で、ふらりと近寄って来ようとした。ただ、職務上ありえない行動であるので、近くにいた騎士に止められている。


 私はすぐに視線を逸らし、『気づきませんでした』というフリをした。


 ――四年間、あなたにこうされてきたわ。たくさんされたから、存在を無視するやり方はちゃんと分かっているの。


 ルードヴィヒ王弟殿下は眉根を寄せて私の婚約者を眺めたあと、改まった顔でこちらに向き直った。


「ああ、だが……あなたは確か婚約しているのでは?」


「ですが、単なる政略結婚の相手です。互いにとてもドライな関係でして。私が隣国でお役に立てるなら、それは当国の貴族として、重要な役目を果たせることになります。国王陛下もお喜びになられるでしょう」


「おお……なるほど?」


「それに彼はほかに愛する人がいらっしゃるようなので、別々の道を歩むことは、互いにとって良いことのように思えます。私はパートナーになる人とは、誠実に向き合いたいのです。そのため婚約者を尊重できない彼とは、やっていけないと思っていました」


 とはいえ彼は私と婚約解消しても、愛する王女殿下と結婚できるわけではない。だけど彼はどうせ愛のない結婚をするのなら、私のように伴侶と愛し合いたい人間ではなく『互いに愛人を作って楽しんでやる』くらいに割り切れる相手を選ぶべきだ。


 私が今したことは、決して褒められたことじゃない――重々承知している。ここまで公の場で洗いざらいぶちまけてしまうのは、はしたないかもしれない。


 けれど私はこのチャンスを何がなんでも掴むつもりだった。


 その覚悟が伝わったのか、ルードヴィヒ王弟殿下が口角を上げた。


「――では、ぜひお願いしたい! 歓迎しますよ!」


 やった!


 たとえ口頭であっても、契約は契約。当国の誰よりも圧倒的に立場が上の人が認めたのだから、これは法的文書以上の効力を持つ。


 目の前のルードヴィヒ王弟殿下が私を受け入れた時点で、私と婚約者の婚約解消は決定した。あとは後日、書類にサインするくらいのことはするようだろうが、それはもう事後のあと片づけみたいなものだ。


 私はホッとして頭を下げた。


「ありがとうございます。精一杯頑張ります」


 婚約者が壁際でよろけているようだけれど、極力視界に入れないようにしていたので、彼どんな顔をしていたのか、私は確認していない。




   * * *




「――今日、当国の関係者がひとり、遅れてこちらに到着する予定です。そろそろ着くはずなので、一緒に打ち合わせできますか? このまま別室に移って始めたいのですが」


 ルードヴィヒ王弟殿下からそう誘われ、


「はい、問題ございません」


 私の喜びは顔にそのまま出ていただろう。


 このまま彼らと一緒に移動できるなんて、とてもラッキーだ。これで婚約者と話さなくて済む。私の中ではもう終わった関係なので、これ以上婚約者とは何も喋りたくなかった。


 もしも彼が四年間、誠意をもってこちらに向き合ってくれていれば、私も別れる際は誠意を見せただろう。けれどそうしてくれなかったから、私もそれ相応の対応をする。(……もっとも、彼に誠意があったなら、そもそも私は別れを告げなかったわけだが)


 ルードヴィヒ王弟殿下、秘書の女性、私――三人は連れ立って王宮の離れに向かった。


 ルードヴィヒ王弟殿下のため、離れは棟ごと貸し切りになっている。


 屋外に出ると、気持ちの良い風が吹いていた。


「あの壁際にいた騎士は、あなたの婚約者でしょう」


 歩きながらルードヴィヒ王弟殿下にそう指摘され、私は気まずい思いをした。


「はい、そうです。あのような場面をお見せしてしまい、お恥ずかしいです」


「それは別にいいですよ、ただ」


 ルードヴィヒ王弟殿下が眉根を寄せている。


「彼、あなたに惚れていると思うが」


「え」


 私は目を丸くした。――ありえない、強くそう思った。


「それはないです」


「なぜ?」


 ええと……なんと言ったものか。


 とはいえ今さら秘密主義もおかしいだろう。私は正直に伝えることにした。


「彼は王女殿下のことが好きなのです。私のことは眼中にありません。ずっと二番目という扱いをされてきました」


「いやぁ、どうかな」


 なぜかルードヴィヒ王弟殿下が口角を上げ、なんともいえない意地の悪い笑い方をした。下品と上品のちょうどあいだというか、絶妙に味のある顔つきだった。


「彼は思い込みが激しいタイプだな。『王女殿下が好きだ』という自己暗示にかかっているだけで、実際のところ絶対に君に気がある」


「……長いあいだ婚約者として同じ時間を過ごしましたが、愛されていると感じたことはなかったです」


 答えながら、嘘は言っていないけれど、『本当に?』と疑問が湧き上がってきた。


 そう、確かに……彼はふたりきりでいる時は、私を意識しているような素振りをしていた。


 ただ、王女殿下が一緒にいる時の、私に対する態度がひどすぎたので、そういうことを繰り返された結果、彼を信じられなくなった。私だけに見せる照れたようなあの顔も、演技だとしか思えなくなり。


 ルードヴィヒ王弟殿下が可笑しそうに笑う。


「これで彼は王女殿下と結婚できるようになったわけだが、だからといって、ふたりの結婚生活がうまくいくとは思えないねぇ……。おそらくこれからは、逃してしまった君の面影を追い続けるはずさ」


 ……え? 王女殿下と結婚できる?


 どういう意味だろう。


 私は眉根を寄せる。王女殿下は聖女として隣国に嫁ぐから、彼らはどうあっても結ばれないはずでは?


 尋ねようとした、その時。


「――叔父上、どうも」


 後ろから声をかけられ、私たち三人は振り返った。


 フードを深くかぶった青年がこちらに歩いて来る。身のこなしがとても綺麗な男性で、品があった。


 うつむきがちに歩いていた彼が顔を上げたので、面差しが目に入る。


 とても美しい人だ。クリアな青の虹彩が印象的で、ハニーブロンドの髪がフードの隙間から覗いている。


「ああ、彼がね、聖女を娶る予定のアドルファス王太子殿下ですよ」


 軽い口調でルードヴィヒ王弟殿下がそう言うので、私は呆気に取られてしまった。


 アドルファス王太子殿下は所用で来られないという話だったのでは? 都合がついて、間に合ったということ?


 ええと、それより、もっと問題な点が。


「でも、アドルファス王太子殿下は、あなたにそっくりだと――」


 ルードヴィヒ王弟殿下は先ほどサンルームで雑談していた際、「甥っ子は私にそっくりですよ」と言っていたではないか。


「瓜ふたつ、そっくりでしょう?」


 まるで悪びれない!


「いえ、そっくりじゃないですよ!」


 私は愛想を言うのが苦手なので、キッパリとそう主張した。


 ふたりは対極にいるくらい違うと思うわ。


 とはいえルードヴィヒ王弟殿下の見た目は、初めこそ戸惑いを覚えたものの、今では愛嬌があって魅力的だと思えるようになった。けれどやはり違うものは違う。


「――叔父上、こちらの女性は?」


 彼の青い虹彩がこちらに向いた。クールであるのに、なんだか面白がっているような、不思議な感じがした。馴れ馴れしくはないのに、拒絶するような冷たさはないというか。


 ルードヴィヒ王弟殿下が私のことを紹介してくれ、


「こちらのディーナ嬢が君の花嫁だ。――まぁそれは彼女がOKしてくれれば、の話だが」


 と訳の分からないことを言い出した。


 私は驚きすぎて固まり、何も言えない。


 アドルファス王太子殿下も無言だった。


 やがて彼が口を開いた。


「えー……そうなの?」


「そうだよ、どうだ?」


「どうって、彼女のこと、よく知らないし。会ったばかりだ」


 アドルファス王太子殿下がもう一度こちらを見る。


 私たちはしばらく無言で見つめ合った。


「で、どう?」


 ルードヴィヒ王弟殿下は完全に悪ノリしている。ニヤニヤ笑いを抑える努力すらしていないもの。


「――ああ、顔は好き。優しそう」


 アドルファス王太子殿下はシレッとものすごいことを言う。


 私は表情を変えず、口も開かなかった。


 何を言ったらいいのか分からなかったからだ。




   * * *




「君、本名で王宮に入ったのか?」


 尋ねられ、アドルファス王太子殿下が眉根を寄せる。


「そりゃ当然でしょ。他国の王宮に、偽名で入るのは問題がある」


「じゃあ、あまり時間がないなぁ」


「時間?」


「君ね、今すぐ行動しないと、こちらの女性と結婚できないよ。必死で頼んで、花嫁になってもらうべきだ。そうしないと、別の、わりと嫌な性格の女性と結婚するはめになる」


「……いや、いきなり訳の分からないことをまくし立てられても」


 アドルファス王太子殿下の戸惑いはもっともだ。そして私だって戸惑っている。


 今ひとつノリが悪い私たちを眺め、ルードヴィヒ王弟殿下が腕組みをしてこう言った。


「この国の王女殿下は私の顔を見て、気持ち悪そうに顔を顰めたんだよ。どう?」


「それは嫌な感じだな」


 とアドルファス王太子殿下。


「君、そんな女性と結婚できる?」


「無理」


「ところが、だ――こちらのディーナ嬢は初対面からとても礼儀正しく、感じが良かった。――君さ、彼女の顔がタイプなら、もういいじゃないか。それ以上何を望むんだ」


「確かにそうだね。叔父上と気が合うなら、僕とも合うはず」


 アドルファス王太子殿下がこちらを向き、綺麗な動作で跪(ひざまず)いた。


「――結婚していただけますか」


 手を差し伸べられ、澄んだ瞳で見上げられ、私は目を瞠る。


 ……なんなの、ついていけない。


 困り果て、ルードヴィヒ王弟殿下をチラリと横目で見遣ると、


「――頼むよ。人助けだと思って」


 と懇願される。


「いえ、あの、私は聖女ではないので」


「それは問題ないから」


「あると思います」


「――大丈夫、問題ない」


 今度は跪いているアドルファス王太子殿下がそう請け負った。


 私は彼を見おろし……彼は私を見上げる。


「僕の顔、どうですか? 性格はまだ分からないだろうから、とりあえず見た目で判断してください」


 淡々と尋ねられたので、正直に答えた。


「……素敵だと思います」


「つまり、タイプということでOK?」


「ええと、はい」


 ……はい、でいいのだろうか?


 でも好きなタイプの顔であるのは事実だ。


 ずっと無表情だった彼が、にっこり笑って私の手を掬い取った。


「やった。僕は理想の花嫁をゲットした」


 彼が立ち上がり、私はしっかりと手を握られ……『これで結婚が決まったの?』と混乱した頭で考えていた。


 何も問題は片づいていないように思えるわ。




   * * *




「……叔父上、またなんか変な呪いのアイテムを試しましたね」


 アドルファス王太子殿下が半目になってそう言った。


「この腕輪をつけたら、こんな見た目になっちゃったよ」


 ルードヴィヒ王弟殿下が腕を差し出す。太い手首に、大きなルビーのついた腕輪が嵌っていた。


「いい加減にしてくださいよ」


「君、治せる? 腕輪を外しても、見た目が野性味溢れるクマ男のままなのさ」


「うーん……たぶんできる」


 アドルファス王太子殿下は叔父から腕輪を抜き取ったあと、彼の顔の前で手をかざした。


 すると光の粒子が舞い、ルードヴィヒ王弟殿下のクマのような顔が変わった。いえ――顔というよりも、全身のシルエットごと大きく変化する。


 ……驚いた!


 瞬きしたあとには、目の前にとても綺麗な男性が佇んでいた。


 たぶんアドルファス王太子殿下が十歳ほど年齢を重ねたらこうなるだろう、という麗しい見た目。


「どう? 僕の顔、治った?」


 ルードヴィヒ王弟殿下が傍らの秘書の女性を振り返ると、彼女が真顔でコクリと頷いてみせる。


「ええ。……ちょっと残念ですね」


「なんで?」


「あの見た目、私は結構好きでした」


「お……そうかい」


「あのままクマ男の見た目で、結婚式を挙げてもよかったですよ」


 彼女は頬を赤らめている。


 あ、やはりふたりは恋仲――というより、婚約者同士なのね。


「どうして姿が変わっていたのですか?」


 私はひとり状況についていけない。


「ほら、僕、世界各地の呪いの品を試して歩いているって言っただろう? ここへ来る途中で、呪いの腕輪を手に入れてさぁ」


 肩をすくめてみせるルードヴィヒ王弟殿下。


「女性に嫌悪される呪いっていうんで、面白そうだなと思って腕に嵌めたら、えらいことになっちゃったよ。まさか外見があそこまで変わるとは。そして自力では元に戻らなくなるとは。……まぁでもかえってよかった。君のところの王女殿下のことを、手っ取り早く嫌いになれたから」


 シレッと語っているが、毒舌というか、すごい切れ味だ。


 私は冷や汗が出そうになった。


 ……一応当国の王女殿下だ。身内として恥ずかしい気持ちになる。確かに彼女の態度は、一国の代表としてありえないものだった。


 ただ、初対面の際に、ルードヴィヒ王弟殿下の見た目には、私もゾッとする嫌な感じを受けた。あの奇妙な感覚は呪いのせいだったらしい。顔の造作が嫌だったというより、本能的に恐怖をかき立てられる、なんともいえない感じがしたのだ。


 だけど私の場合はあの時考えを巡らせ、冷静さを取り戻せたので、呪いの暗示が解けたのかもしれない。すぐにルードヴィヒ王弟殿下に対する嫌悪感は消え去ったから。


 だけど『気持ち悪い、こんな人と関わりたくない』という感情を制御できなかった王女殿下は、ずっとそのまま変わらずだった。


「――叔父上、この腕輪、たぶん役立ちますよ」


 アドルファス王太子殿下がそんなことを言い出した。


「ほら、見て」


 彼が自身の腕に嵌めると、今度はアドルファス王太子殿下の姿が邪悪なクマ男に変わった。体型もモッサリ大きくなったので、すごい効き目だ。


「叔父上も、もう一度」


 アドルファス王太子殿下は自らの手から腕輪を引き抜いたが、見た目はクマ男のままでキープされた。


 ……そういえば腕から抜いても、浄化の力を使わないと、もう元の姿には戻れないのか。


 アドルファス王太子殿下が叔父上の腕に嵌め、もう一度見た目を変えた。


 結果、この場にクマ男がふたりになった。


「さて」


 アドルファス王太子殿下が口角を楽しげに持ち上げる。


「関係者を一堂に集め、一気に問題を片づけますか」


「いいね!」


 ルードヴィヒ王弟殿下が陽気に声を上げる。


「せっかくだから、教会で『聖女判定式』をやり直すってのはどうだい?」


 そんな訳で、おもだった関係者――当国の国王陛下、私の父、王女殿下、婚約者(もう元婚約者か)などを招集し、改めましての『聖女判定式』が行われることとなった。




   * * *




 王宮内にある教会に移動しながら、彼が説明してくれた。


「当国の王族はずっと聖女を花嫁に迎えていたでしょう――そのせいか近年、浄化の力を宿した子供が生まれるようになったんだ」


 なるほど……生まれた子は母、つまり聖女の血を引くわけだから、その特殊な力を宿していても不思議はない。


 むしろ時代を重ね、新しい聖女の血を迎え入れ続けたせいで、本来塩湖の浄化しかできなかった能力が強化されたのではないか。


 だからこそアドルファス王太子殿下は腕輪の呪いも解くことができるのでは?


 しかしだとすると。


「ではどうして当国の聖女を迎え入れる制度を続けているのですか?」


 国力差を考えれば、圧倒的に立場が上の隣国が「もうやめよう」と言えば、それで済んだはずなのに。


「聖女の力が安定して発現するわけではないので」


 彼が肩をすくめてみせる。


「聖女の力を持って生まれるケースもあるが、そうではないこともある。一度交流をやめてしまって、次代の王太子が力を持って生まれなかった場合、『やはり聖女を娶ることを再開したい』というのも、国同士の取り決めで問題がある。だから続けておいたほうが無難だということになって」


 確かにそうだ。一度やめてしまえば、復活させるには結構面倒なことが多い。


 継続しておくほうが楽だったというのは非常に納得できる。


 アドルファス王太子殿下が私を眺めおろし、淡い笑みを浮かべた。


「だからね、君が無能力者でも別に構わないのさ。とりあえず今代は、僕が浄化の力を持っているから。あとは皆をペテンにかけてやればいい」


「どうやって?」


「君は僕に合わせてくれればいいよ」


 彼は見た目クールなのに、行動は直接的だ。


 さっと私の手を取り、指を絡めてくる。


 そうされても、軽薄だとは思わず、率直で好ましいと感じた。


 私は隣を歩く彼を見上げ、心からの笑みを零した。


「なんだか楽しくなってきたわ」


 彼は一瞬驚いた顔をして、私の笑顔をじっと見つめながら、頬を赤く染めた。




   * * *




 祭壇前に佇むのは、私、アドルファス王太子殿下、そして彼の叔父であるルードヴィヒ王弟殿下の三名。


 二十歳の女性を、獣感満載のふたりのクマ男が挟んで立っている形だ。


 会衆席には、国王陛下、王女殿下、私の(元)婚約者、私の父など、主要人物が揃っていた。隣国の秘書の女性も、会衆席の端に腰かけ、見物をしている。


 私の左隣にいるアドルファス王太子殿下が口を開いた。


「――皆さんはじめまして」


 その後彼は自己紹介をしたあとで、ひと息ついてから続けた。


「実はこちらにいるディーナ嬢にも、聖女の浄化能力が備わっていることが、先ほど判明しました」


「なんだって?」


 国王陛下が呆気に取られている。


「しかし、聖女はその時代にひとりしか現れないはずだが……」


「例外はいつでも発生します」


 アドルファス王太子殿下は落ち着いた声音で対応する。


 私は彼を見つめ、心の安らぎを感じた。……信用できる人は、どんな見た目でも関係ない。私、呪われた今の外見も好きだわ。


 視線に気づいたのか、彼がこちらを見た。


 視線が絡み、胸が高まる。――彼は私を見てくれる。私を尊重してくれる。


 ふたり、しばらくのあいだ見つめ合っていると、傍らにいたルードヴィヒ王弟殿下がごほん、と咳払いをした。


「君たち、話を進めたまえ」


「ああ、そうですね」


 アドルファス王太子殿下は鉄面皮なところがあるので、まるで照れずに頷いてみせた。


「ディーナ嬢に聖女の力が確認できたので、私は彼女と結婚したいと考えています。――話を聞いたところ、彼女が婚約しているお相手の男性は、王女殿下に恋しているとのことで、これにてすべて丸く収まる気がしますが、いかがでしょうか」


「いやしかし……そう言われましても」


 国王陛下は戸惑いを隠せない。


「ディーナ、それでいいのかい?」


 父が心配そうにこちらを見つめて声をかけてきた。父は私がまだ元婚約者を好きだと思っているので、混乱しているだろう。


「はい、お父様。私、愛のない結婚はしたくないの。アドルファス王太子殿下は親切な方ですし、私、彼のもとに嫁ぎたいわ」


「そうか、お前がそれでいいのなら」


 父は娘の瞳に迷いがないのを見てとり、納得したように頷いてみせた。


「――そんな馬鹿な話がありますか!」


 声を荒げたのは、私の元婚約者だ。


 驚いた……王女殿下が隣にいるのに、彼は私を見ているわ。


 この時、私が思ったのはそれだけだった。視線がこちらに向いていても、嬉しいとも、苦しいとも思わない。『驚いた』――ただそれだけ。


 王女殿下が横から口を挟む。


「私――だけど私は賛成だわ! ディーナが嫁ぐなら、そうしてほしい。ね、私たちこれで結婚できるわ――あなた、ずっと言っていたじゃない、私が聖女でなくなれば、ディーナと結婚しないで済むのに、と」


 呆れた。「ディーナと結婚しないで済む」ですって――……人を疫病神みたいに。


 冷ややかに元婚約者を眺めると、彼は必死で訴えてきた。


「違うんだ、ディーナ、俺はそんなことは言っていない」


「え、言っていたじゃない! 私と結婚したいって!」


「それは――それは確かに言ったかもしれないけれど、俺はディーナが嫌いってわけじゃ」


「でもタイプじゃないし、好きじゃないんでしょ? あなたはいつも私を優先してくれたわ」


 場が静まり返る。


 娘がどんなふうに扱われていたかを今初めて知った父は、顔を強張らせている。元婚約者は父の前では好青年を演じていたし、熱を込めた瞳で私のことを見つめていたから、父は娘がないがしろにされていたとは夢にも思わなかっただろう。


 私は私で父にそのことをずっと言えずにいた。私は自分が婚約者に愛されていないことが、恥ずかしいことのように感じていたのだ。――『お父様、婚約者から愛されない娘でごめんなさい』と思っていた。


 今になってみると、私にはなんの非もなかったし、恥じるようなことではなかったのに。


 国王陛下も顔色を失っている。王女殿下の振舞いは最低なものだったから、親として恥ずかしく感じているのではないだろうか。


 私は凪いだ気持ちで口を開いた。


「私は婚約者からずっと軽んじられてきました。その結果、今ではすっかり愛情がなくなっています。もう憎いとも思わないんです。どうでもいい。ですから私に聖女の力があり、アドルファス王太子殿下が私を求めてくださるなら、隣国に嫁ぎたいです」


 国王陛下が請け負った。


「……承知した。塩の浄化ができるなら、私がふたりの結婚を認めよう。今結ばれている婚約は速やかに破棄するよう、至急手続きする」


「ありがとうございます」


 私が頭を下げると、元婚約者がなんだかんだと文句を言っている気配があったが、やがて静かになった。目上の誰かからきつめに注意されたのかもしれない。




   * * *




 ルードヴィヒ王弟殿下が銀盆に盛られた塩湖の塩を差し出してくる。


 私はそれに手のひらをかざした。


 すると隣に寄り添っているアドルファス王太子殿下が、さりげなく私の手首を握った。それは自然な動作だった。


 銀盆が輝き、盛られていた塩がクリアなブルーに変わる。


 感嘆のため息がそこここで漏れた。


 王女殿下がこれを見て、はしゃいで手を叩いている。彼女は隣国の王族たちの獣じみた見た目が我慢ならないので、私に聖女の役目を押しつけることができて大喜びなのだ。


「さて」


 アドルファス王太子殿下が皆に聞こえるように声を張った。


「実は我々――私と叔父上は、このブレスレットの呪いを受け、姿が醜く変わっていました」


 彼が手首からブレスレットを外し、銀盆の上に放り出す。それは塩に埋もれ、ザクリと音を立てた。


「ディーナ嬢は稀代の聖女です。呪いを解いてくれるかもしれない」


 私は意図を理解し、彼の顔の前で手をかざした。


 彼はありがたがるように少しかがみ、目を閉じた。


 アドルファス王太子殿下の体が光に包まれる。彼は自ら体を浄化したのだ。


 皆が瞬きしたあと、そこには美しい貴公子が佇んでいた。クリアな青の虹彩に、ハニーブロンドのサラサラの髪。


 王女殿下があんぐりと口を開けている。「え、嘘……」彼女の瞳が激しく揺れていた。彼女と長い付き合いである私には分かるが、おそらくアドルファス王太子殿下の外見は、王女殿下の好みだ。


「ディーナ、叔父のほうも頼む」


 優しく囁かれ、私は頷いてみせてから、ルードヴィヒ王弟殿下の額の前で手をかざした。ふたたびアドルファス王太子殿下が私の手首を支えてくれる。


 ルードヴィヒ王弟殿下の呪いも解かれ、よく似た面差しの男性ふたりが、『新聖女』の私を挟んで立つ。


 アドルファス王太子殿下が私の腰を抱き寄せ、耳もとで悪戯に囁いた。


「見て、ディーナ――君の元婚約者殿は、君のことしか見ていない」


 そう言われても、私は元婚約者のほうに視線を向けなかった。


 私はアドルファス王太子殿下だけを見つめていた。


 クイ、と彼の顎に指を添え、こちらに顔を向けさせる。


 彼はびっくりした顔で私の瞳を覗き込んだ。


「――私以外を見ないで」


「ディーナ」


 名前を呼ばれ、心震える。私は彼を真っ直ぐに見つめた。


 愛おしさが込み上げてきた。


 私が微笑むと、アドルファス王太子殿下は夢見るように私を見つめ返した。


 私は背伸びをして、彼の首に腕を回し、ぎゅっと抱き着く。


「ああ――あなたって最高!」


 彼が私の腰に腕を回し、しっかりと抱え込んでくれた。


「……今の感じだと、キスしてくれるかと思ったんだけどなぁ」


 抱き着いているので顔は見えないのだけれど、聞こえてきたのがしょんぼりしたような声音だったから、私は笑い出してしまった。




   * * *




 そんなわけで、私を四年間傷つけてきた元婚約者と、綺麗さっぱりさよならすることができました。


 その後、私は隣国に渡り――……


 ルードヴィヒ王弟殿下が定期的に奇妙な呪いを外部から持ち込んで、厄介な騒動を起こし、夫がそれに巻き込まれるという、楽しく刺激的な日々を送ることになるのです。


 ――だけどそれはまた、別の話。


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