痴漢に遭う
馬車を降りると、エルゼ嫗の住む煉瓦造りの小屋が目の前にあった。
パスカリス塩湖の果てから森のほうに少し入り込んでいるので、塩湖の様子はここからは見ることができない。
ここまで近衛騎士たちが騎馬で警護してくれていたのだが、ルードヴィヒ王弟殿下が、
「小屋の中には我々だけで入る」
と告げたので、馬を下りた近衛騎士たちは外で待機することになった。
玄関外に立ちルードヴィヒ王弟殿下がノックすると、すぐに中から扉が開いた。
現れたのは、白髪の小柄な女性だった。
……この人がエルゼ嫗だろうか?
その女性は真顔で一同を眺め回したあとで、
「いらっしゃい、よく来たね」
と言った。平坦な声ではあるが、常識的な台詞である。特別歓迎している感じでもないけれど、怒っているふうでもない。
意地悪好きな、ものすごい人が出て来る……と覚悟していた私は拍子抜けした。
昨晩ヘルベルト国王陛下から伺った話とずいぶん違うわ。まともそうな人じゃないの。
「お久しぶりです、エルゼ嫗(おうな)」
ルードヴィヒ王弟殿下が改まった口調で挨拶する。
「ああ、久しぶりだね」
「私以外とは初対面ですよね? 紹介を――」
「必要ない。分かっているから」
「え?」
「このくらいは事前に把握できているようじゃないと、パスカリス塩湖の番人は務まらないさ」
それを聞いたルードヴィヒ王弟殿下が呆気に取られる。
言っている内容がものすごくハイレベルなのに、エルゼ嫗は得意気でもないし、冷静そのものだ。
エルゼ嫗が一同を眺め回し、ハキハキと言う。
「当ててやろうか――端から、『口悪子(くちわるこ)』、『メルヘン王子』、『モラハラ男とサヨナラした女』――どうだ、合っているだろ?」
ユリア、アドルファス王太子殿下、私の顔から表情が消える。……まぁアドルファス王太子殿下は元々表情らしきものが浮かんでいなかったのだが。
ルードヴィヒ王弟殿下がゾッとした顔で口を開いた。
「あだ名のつけ方、どうにかならんのか」
「でも当たっているだろう?」
「当たっているけれども!」
ちょっと、ルードヴィヒ王弟殿下、隣を見て――私はヒヤリとした。
ユリアさんが人殺しみたいなすごい顔であなたを睨んでいますよ。ルードヴィヒ王弟殿下はユリアさんの婚約者なのだから、『口悪子』の部分には抗議を入れるべきでした。「当たっているけれども!」の返しは絶対にアウトでしょう。
「冗談だよ」エルゼ嫗が肩を竦めてみせる。「秘書のユリア、アドルファス王太子殿下、ディーナだろ」
「最初から普通に名前で呼んでくださいよ」
「かましだよ――最初にピリッとさせておかないとね。相手に好かれても百害あって一利なしだが、ビビらせておくとスムーズに嫌がらせに移行できるから、メリットが大きい」
全員がなんとなく俯いてしまう。この人は小さい子供に会わせてはいけないタイプの、だめな人種だ……おそらくこの場にいた全員がしみじみと悟った。
「話をする前に、あんたとあんた」
エルゼ嫗が玄関から外に出て来て、ルードヴィヒ王弟殿下とアドルファス王太子殿下を順に眺めて、顎をしゃくる。
「一緒に裏庭まで来ておくれ。薪を中に運んでほしいんだ」
少し離れて待機していた近衛騎士たちが慌てて進み出て来た――王族に薪を運ばせるわけには、と考えたからだろう。
しかしルードヴィヒ王弟殿下が手でそれを制する。
「ああ、いい、大丈夫だ」
ここで近衛騎士に薪を運ばせようものなら、エルゼ嫗がなんと言うか……ルードヴィヒ王弟殿下の瞳にはそんな考えが滲んでいた。エルゼ嫗は自分が指定した人間に運ばせたいのだから、言うとおりにしておいたほうが無難だ。
エルゼ嫗が私に視線を移す。
「お嬢ちゃん、あんたは客間に行ってなさい――廊下をちょっと進むと右側に扉があるんだけど、そこが客間だよ。棚の上にティーセットがあるからさ、テーブルに持って行って、カップだのなんだのを適当に並べておいてよ。お茶はあたしがあとで淹れてやるからね」
「承知しました」
「あ、それと、この本を持って行って、テーブルに置いておいて」
エルゼ嫗は左手に緑の皮装丁の本を持っていたのだが、それを手渡してきた。
「お預かりします」
本を受け取り、返事をする。
最後にエルゼ嫗はユリアへと視線を移した。
「あんたも私たちと一緒に来て。ちょっと訊きたいことがある」
「訊きたいこと?」
「王宮のルールというか、事務的なことさ。そういう細かいことは、あんたに訊くのが早いだろ?」
そんな訳で、エルゼ嫗が小屋の裏手に三人を導き、私だけが建物の中に入ることになった。
小屋の中は清潔にしてあって、私に安心感を抱かせた。衣食住がちゃんとしている人はなんとなく信用できる気がする……それはただの思い込みかもしれないけれど。
廊下を少し進むと、エルゼ嫗が言ったとおり右側に扉があった。
ノブを捻った瞬間、奇妙な感覚に襲われる。
あら、何かしら、これ――一瞬グニャリとノブが歪んだ気がした。けれどそんなことがあるわけない。
扉を開く――すると目の前に思いもかけない人物が立っていた。
私よりも頭ひとつ大きい。目の前の人物が、こちらに向かってぬっと腕を伸ばして来た。
呆気に取られているうちに、腕を掴まれ客間に引きずり込まれてしまう。
気づいた時には、左横の壁に背中を押しつけられていた。
覆いかぶさるようにその人物が迫って来る――二の腕を強く拘束されていて逃げ場がない。ゾッと鳥肌が立つ。
「離してください!」
はっきりと言ったつもりなのに、実際に喉から出た声はか細く震えていた。
心臓が破裂しそうだ。私は恐怖のあまり身を縮こませた。
相手は何も言わず、どんどんこちらに顔を近づけて来る。
私は恐怖に目を見開いた。そして金縛りが解けたかのように、やっと大きな声が出た。
「――離してくださいと言ったでしょう、やめてください、ペイトンさん!」
迫り来る、元婚約者の顔。
彼は切羽詰まった顔でこちらを凝視するばかりで、何も言わない。離してくださいと警告したのに、どんどん距離が近づいて来る――私は悲鳴を上げて相手を突き飛ばした。
彼がよろけて後ずさった隙に拘束から抜け出す。
すぐ目の前が扉だ――あそこを出て、廊下を進んで、それで――……後ろから肩に手がかかった。やだ、怖い、触らないで!
足がもつれた瞬間、アドルファス王太子殿下が客間に駆け込んで来た。
私は涙ぐみながら彼の懐に飛び込む。
アドルファス王太子殿下は私を抱き留め、そして――。
右手でペイトンの顔をガシッと鷲掴みにした。武闘派の印象がなかったアドルファス王太子殿下であるが、一連の動きにまるで無駄がない。
彼に抱え込まれたまま私が振り返ると、顔を掴まれた男が痛そうに表情を歪め、アドルファス王太子殿下の指を引きはがそうとしている。
「――お前、誰だ」
アドルファス王太子殿下の言葉はゾッとするほど殺伐として響いた。彼がここまでピリついているのを、私はこれまで一度も見たことがなかった。
混乱しながらもアドルファス王太子殿下に告げる。
「誰って、アドルファス王太子殿下――ペイトンさんです」
聞こえていないのだろうか? 私を抱き留めているアドルファス王太子殿下の殺気が治まらない。こちらに視線を合わせてくれず、彼は男を冷たい目で眺めおろしている。
「どうしてくれようか、こいつ」
「あの、アドルファス王太子殿下――」
「腹の虫が治まらない」
無表情なだけにとにかく怖い。圧がすごい。
驚いたことに、平和主義者のアドルファス王太子殿下が激怒している。
顔を鷲掴みにされた男が、アドルファス王太子殿下の腕を弱々しくタップして、『降参!』と訴えている。そして屈するようにそっと膝立ちになり、涙目になっているので、どう見ても逆らう気はなさそうだ。
私はアドルファス王太子殿下の襟元を引き、注意を促した。
「ね、もう大丈夫。離してあげて」
「どうしよう……ディーナに頼まれても、嫌なものは嫌だ」
「あの、でも」
「こいつはディーナに触れた、乱暴に」
「そうね、怖かった。でもあなたが助けてくれた」
アドルファス王太子殿下がやっとこちらを見た。私が視界に入った途端、彼の美しい瞳が揺らぐ。
「ごめんね、ディーナ……怖い思いをさせちゃった。そばを離れるんじゃなかった」
「あなたは何も悪くないわ。悪いのは乱暴なことをしたペイトンさんよ」
「こいつはペイトンじゃない」
「え? でも」
「違う」
アドルファス王太子殿下がふたたび男を見おろす。神がかっているというか、どこか超然とした顔つきだった。
やがてアドルファス王太子殿下の手のひらが光り――……。
ペイトンの見た目をしていた男が、別の顔に変わった。
アドルファス王太子殿下が男の顔面から手を離す。
私は驚きのあまり目を見開いた。
変化した顔を改めて見直してみると、年齢は三十歳前後だろうか。ペイトンとは似ても似つかないので、以前ルードヴィヒ王弟殿下がクマ男に変わっていたような、姿形を変える呪いのアイテムが作用していたのかもしれない。
今の光はアドルファス王太子殿下が解呪を行ったのだろう。それで本来の見た目に戻った。
今目の前にいるのは、茶色の髪をした素直そうな顔つきの男性で、草食系タイプといったらいいのか、乱暴なことをしそうなタイプに見えない。
アドルファス王太子殿下が尋ねる。
「もう一度訊くが、お前は誰だ」
「わ、私はゲオルクと申します……! よ、よかった、やっと喋れるようになった……! 解呪くださって、ありがとうございます……!」
ゲオルクは床に膝をついたまま、涙ながらにアドルファス王太子殿下を拝み、両手のひらをこすり合わせて礼を述べたのだった。
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