ブルーソルトが濁っている理由


 アドルファス王太子殿下はパスカリス塩湖に佇んでいた。


 日中ならば、塩湖の水は濁りを含んだ青灰に見えたことだろう。


 そして雨季であれば、場所により、フワフワした塩の塊が蛇の背のように連なって伸びる光景を見ることができたはずだ。浄化前のブルーソルトはクリアではないので、それもまた濁った色合いになっている。


 乾季になりかけであれば、塩類平原の上に薄く張った水が、鏡面のように景色を反射したことだろう。


 さらに水が干上がれば、塩類平原のひび割れた文様を見ることができたはず。


 今は夏の乾季であるはずなのに、なぜか雨季の景色が広がっていた。


 夜闇の中、雪が降り出した。


 あっという間に吹雪になる。


 前方にひとりの少女が現れた。こちら側とは景色の境目がぼやけていて、向こうは昼間だ。ゆえに、あの少女は遠い昔の幻影なのだと分かった。彼女は現在のパスカリス塩湖ではなく、澄んだ湖のきわに佇んでいる。


 青みがかった黒髪の少女――あれはアレックスだろうか? 『夜明けの卵』探しで進行役として我々の前に現れた。


 背後から足音が近づいてきて、アドルファス王太子殿下の隣にアロイスが並んだ。相変わらず長い黒髪を下ろし、優美な佇まいだ。前時代的な一枚布の長衣を纏っているのも変わりない。


 彼が静かに語り始めた。


「遠くに見えるアレックス――アレグザンドラは王族の娘だった。僕の婚約者でね」


 アレックスというのは愛称で、『アレグザンドラ』が正式な名前のようだ。


 彼女のことを語るアロイスは寂しそうな笑みを浮かべている。彼は二十代半ばに見えるけれど、遠景で湖のきわに佇んでいるアレグザンドラは十三、四歳に見えた。


「ずいぶん年が離れているね?」


「当時は同い年だったんだよ」


 肩を竦めるアロイス。


「アレグザンドラはもともと陽気な女の子だった。けれど勝気な姉と競い合ううちに、性格がどんどんキツくなっていった。怒りを抑えられずに周囲に当たり散らしてばかりいるなら、人ではなく獣と一緒だ――姉妹は憎しみをぶつけ合い、行き着くところまで行ってしまった」


 赤毛の少女が横手から現れ、アレグザンドラと向かい合って立つ。ふたりは罵り合いを始めた。


 双方、怒りの目つきで、口元はのたうつように動く。声は聞こえない――けれどふたりとも興奮しきっていた。


 やがて赤毛の少女が刃物を取り出して、アレグザンドラの腹を刺した。


 零れ出る鮮血――アレグザンドラはのたうち回りながら湖に入っていった。なぜ湖のほうに向かったのかは分からない。苦しくてそうしたのだろうか。


「我々の王国は湖の神を信仰していた。王女たちふたりは、どちらが聖女になるかで揉め、最後はああなった」


「殺されたアレグザンドラがパスカリス塩湖の起源なんだね。彼女にはそれほどまでに強い魔力があった?」


「それはどうだろう」アロイスは考えを巡らせる。「パスカリス塩湖があった場所は、もともとは普通の湖だったんだよ。ところがある時期にプレート同士が衝突し、地下で築かれていた塩の鉱床が地上に浮上してきた。だからアレグザンドラがすべてを作ったわけじゃない」


「けれど彼女は確かにパスカリス塩湖と一体になっている」


「そう――プレートが衝突した際の莫大なエネルギーと、アレグザンドラの怒れる魂が結合したのだろうか――それがすべての始まり。アレグザンドラはパスカリス塩湖の神であり、悪魔だった」


「君はアレグザンドラが死んだあとも、しばらく生き続けたんだね」


「そうだ」


 アロイスは目を伏せる。


「私はアレグザンドラが姉に刺されて死んだことを知らなかった。湖に入った彼女の死体は出てこなかったから」


「そう……」


「アレグザンドラの婚約者だった私は、様々な事情から、姉のほうと結婚することになった。アレグザンドラを刺した、あの赤毛の少女と」


「アレグザンドラの恨みは深いだろう」


「だからパスカリス塩湖のブルーソルトはずっと濁っている」


 アロイスの瞳は悲しげだった。


「私は二十代半ばで流行り病にかかって死んだ。そして死したあと、魂がパスカリス塩湖に取り込まれたんだ。その時になって私は初めてアレグザンドラが殺されたあの出来事を見させられた――アレグザンドラの怨念がそうしたのだ。彼女は何千年も怒り狂っている――君も『夜明けの卵』探しの時に感じただろう? アレグザンドラの怒りの深さを」


「人を憎んでいるのが伝わってきた」


 『夜明けの卵』探しに参加させられたキッチンメイドのデボラは普通の人間だった。一点の非もなく清らかか……?  と問われれば、そんなことはないかもしれないけれど、悪人ではなかった。見るにたえないほど卑しい性格をしていたわけではない。


 けれどアレグザンドラはデボラの心の揺らぎを少しも許さず――ちょっとしたズルさをあげつらって、天下の大罪人のように扱い、はずかしめた。


「アレグザンドラは愛を信じていない。それは私のせいだ」


 生前のアレグザンドラはアロイスを愛していたのだろう。愛していた男が、自分を殺した姉と結婚したのだから、アレグザンドラは死んでも死にきれなかった。なまじ魔力があったのが悪いほうに出た。


「――アドルファス王太子殿下!」


 その時、後ろから声が響いた。


 振り返る前に分かっていた――ディーナの声だ。吹雪の中、寝衣にガウンを羽織ったディーナが駆けて来る。


 かたわらのアロイスが呟きを漏らす。


「ここは現実でもあり、異界でもある。ふたつの世界が重なっているといってもいい――空間をつなげて君の愛しい人を呼んだんだ」


 アドルファス王太子殿下は説明を聞いていなかった。すでにディーナのほうへ向かって走り始めていた。


 吹雪がひどくなる。見る間に塩湖の表面に氷が張っていった。塩が混ざっているのに水が凍っていくのだから、凝固点降下により、零度よりもずっと低いことになる。


 走り寄って来たディーナが足をついた部分――その氷が割れた――落水――。


 氷水の中で溺れる彼女が縋るようにこちらを見上げた。視線が絡む。


「――アドルファス王太子殿下、助けて!」


 彼は一瞬たりとも迷わなかった。氷塊の浮いた湖に飛び込む。パスカリス塩湖は中心部でもここまで水深がないはずだが、アロイスが現実を捻じ曲げているのか、はたまた太古の時代はこうだったのか、底なしのように深かった。


 ふたり、死人の世界のように冷たく澄んだ水中で抱き合う。


 至近距離でディーナがアドルファス王太子殿下と視線を絡ませ――……嘲笑った。


「愛しい人の区別もつかないのかい? アドルファス王太子殿下」


 彼女の口角は皮肉げに上がっている。


 顔立ちはディーナのまま、髪色が青みを帯びた黒に変わった――アレグザンドラだ。


 アドルファス王太子殿下は凪いだ瞳でアレグザンドラを眺める。一片も悔いていない、綺麗な瞳だった。


「君の言動から、ディーナじゃないのはすぐに分かったよ」


 なんだって……? アレグザンドラは眉根を寄せる。不快でムカムカした。穢れなきものが現れると、腹が立って仕方がない。ただ恵まれているからそんなふうに呑気でいられるのだろう、綺麗なままでいるなんて許せない、ズルをしている証拠だ、もっとドロドロに膿んで腐ってしまえばいい――アレグザンドラの腸が煮えかえる。


 ――お前を見ていると反吐(へど)が出るよ、アドルファス王太子殿下。


「負け惜しみだろう? お前は愛する人を見間違えて湖に飛び込んだ愚か者だ」


「先ほど湖に落ちた君は、『助けて』と言った。けれどディーナだったら『来ないで』と言ったはずだ」


「くそが! お前もディーナもくそだ! 見ていると本当に反吐が出る」


 悪態を吐くアレグザンドラは相変わらずディーナの姿を模している。


 その姿を注意深く観察し、アドルファス王太子殿下はやっと安堵の息を吐いた。


「よかった……ディーナの体を操っているわけじゃないんだね」


 その不安があったからこそアドルファス王太子殿下は躊躇いなく水面に飛び込んだのだ。自身の命に危険があったとしても関係ない。彼にとってはディーナのほうが大事だ。


 アレグザンドラは深い怒りを覚えた。この期に及んで、まだ綺麗事を言うのか。


「お前の負けだよ、アドルファス王太子殿下――偽物のディーナのために命を賭けた愚か者。全部無駄だったな。絶望の中で死ぬがいい」


 アレグザンドラが変化(へんげ)を解いたので、ディーナの姿がかき消える。


 すぐ近くで吊り目のアレグザンドラがこちらを睨み据えている。


 アドルファス王太子殿下は彼女の体を放した――ディーナでないのなら、助ける義理もない。それにアレグザンドラは人ですらなく、このパスカリス塩湖の一部である。


 冷たい水が刻一刻とアドルファス王太子殿下の体を冷やしていく。生命活動の危機だ。あと数分で意識が落ちるだろう。氷が張っているところまで泳いで戻りたいが、体が強張って動かない。


 体の感覚はもうほとんどないのに、左腕だけが激しく痛んだ――ああ、呪いか?


 帰国すると同時に、左腕に文様が刻まれた。当初、それは手首の上十センチくらいから肘にかけて、だった。麻の葉を組み合わせたような、青の文様――それは日に日に上へと伸びてきて、今や肩の辺りまで刻まれている。


 これはアドルファス王太子殿下の魂をパスカリス塩湖に取り込むための仕かけなのかもしれない。呪いというものは、段階を踏んだほうが強い効果を発揮する。


 アレグザンドラが呪いの言葉を吐いた。


「君の自己犠牲は意味があったのか?」


「アレグザンドラ?」


「ほら――本物のお出ましだ」


 アドルファス王太子殿下が振り仰いだ時には、氷上を駆けて来たディーナがすぐ近くまで迫っていた。


 彼女はもうすぐ湖面の割れ目に到達する。


 アドルファス王太子殿下は恐怖に目を見開き、大声で制した。


「だめだ、ディーナ、来るな!」


 ディーナは言うことを聞かない――いつもそうだ。


 彼女はこれっぽっちもためらわずに湖に飛び込んで来た。


 なんてこと……!


 アドルファス王太子殿下は奥歯を噛みしめる。


 ディーナが勢い良く飛び込んで来たというのもあるけれど、驚いたことに彼女は泳ぎが達者で、すぐにこちらの懐に入り込んできた。


 ふたりは抱き合い、至近距離で見つめ合った。


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