死ぬほど愛してる


 アドルファス王太子殿下はこの時、たぶん怒っていた。


「どうして水に入ったの?」


 こんなふうに私を責める彼は珍しい。


「怒っている?」


 氷水の中に浸かっているのに、私の問い返しはどこか呑気に響いた。


 アドルファス王太子殿下はもどかしそうに伝える。


「怒っているよ、だって君は全然言うことを聞かない」


「本当に怒っている?」


「……怒っている」


「じゃあ私の話を聞いて」


 冷たい水の中にあって、髪が濡れて乱れていても、頬から血の気が引いていても、絶望的な状況でも、私には譲れないものがあった。


「あなたが死んでしまうと思ったんだもの」私の頬を涙が伝った。「気づいた時にはもう飛び込んでいた」


「君が死んだらなんにもならない。僕は君に生きていてほしいんだ」


「私、死んでもいい」


「いいわけないだろう――」


「だけど死ぬほど愛してるの、あなたを」


 初めて『愛してる』と言った。それはふたりにとって特別な言葉だ。


 以前、大好きと言ったことはある。アドルファス王太子殿下のほうも大好きだと言ってくれた。


 けれど『愛している』はまだだった。


「なんで今言うんだ、ディーナ」


 口調は責めているのに、アドルファス王太子殿下の纏う空気は物柔らかで、『もう降参だ』と訴えている――見ようによっては、彼の口角は微かに笑んでいたかもしれない。


「愛してる」


 私は真っ直ぐに彼を見つめて告げる。


「ディーナ」


「愛してる」


「うん」


「あなたは言わないの?」


「……絶対に言わない」


 ふたりは顔を見合わせて笑った。


 アドルファス王太子殿下は小さく息を吐く。


「ああ……心臓止まりそう。物理的な意味で」


 氷水の中に落ちてから、もう何分たった? 鼓動が弱まっている。


「え、どうしよう」私は焦り出した。「絶対に助けてあげるから」


「どうやって?」


「泳ぎは得意なの――もう少しで氷が張っている部分に届くから、氷が崩れないよう腹這いでそっと上がれば――」


 体が冷え切っている。アドルファス王太子殿下はこちらの言葉に耳を傾けながら、


くすりと笑みを漏らした。


「どうして笑うの?」


 私は思わず眉根を寄せる。


「だってディーナ……君は野性味が一切ない優美な見た目なのに、僕を助けようとしている。どうなっているんだ、まるでヒーローじゃないか……」


「――姉さん! アドルファス王太子殿下!」


 頭上からマイルズの声が降って来て、私もアドルファス王太子殿下も小さく息を呑んだ。


 ああ……天の助けだと思った。来てくれた……。


 普段は気弱で可愛いのに、マイルズはいざとなったら頼りになる。


 マイルズが淵ギリギリのところまで身を乗り出して、手を差し出す。私はその手をしっかりと握った。


 でも――マイルズがいるあたり、氷にヒビが入りかけている。私はハッとして手を離そうとした。


「逃げなさい、マイルズ! あなたまで落ちてしまう」


「だめだ、僕は逃げない」


「マイルズ」


「諦めないでくれ、姉さん、アドルファス王太子殿下! 死んじゃ嫌だ!」




   * * *




 こんな大声を出しているマイリーくん、レアだな……アドルファス王太子殿下はそんなことを考えていた。


 そうだなぁ……君たちを死なせるわけにはいかないよ。


 覚悟が決まれば、進むべき道が見えてくる――たぶんそれはかつて、本能的におそれていた道だ。枠組みを越えてしまうことに対して、ずっと後ろめたさを感じていた。


 自らに限界を設定するのは、ある意味、生物としては正しい。


 自分は普通の人間でいたかったのだ。


 だけど皮肉なことに――僕が一緒にいたいと願った、愛しい人たち――ディーナもマイルズも、たぶん普通じゃない。


 だから、もういいかな。


 おそれるのをやめて、僕は進むよ、前へ。


「――アロイス、契約しよう」


 氷上に佇むアロイスに呼びかける。


「なんだ」


 アロイスが静かに尋ねた。


 アロイスは胸の痛みを自覚した――悲願だったけれど、その時が来れば切ない――これで数千年縛られてきたものから解放される。縛られ続けているあいだはずっと苦痛だったけれど、やはりそれは愛だったのだと思う。


 ――私は確かにアレグザンドラに愛されていた。


 けれどこれで自由になれる。その愛を永遠に失うことで。


 アドルファス王太子殿下が続けた。


「パスカリス塩湖を浄化してやる。代わりに僕たちを助けろ」


「いいんだな?」


「ああ――すべてを清算してやるよ」


 そう宣言した瞬間、アドルファス王太子殿下にかけられた記憶のロックがすべて外れた。


 十年前、アロイスが言った――次の条件を満たせば、二十歳以降も君は生きられる。


『ひとつ目は、君が愛する女性を見つけること。そしてふたつ目は、君が心から愛したその人が、■■■■■■■■■■■■■■■■こと』


 実際のところ、アロイスはこう言ったのだ。


『そしてふたつ目は、君が心から愛したその人が、君のために命を捨てる覚悟を見せること』


 彼女は僕のためにためらいなく湖に飛び込んだよ――これが見たかったんだろう? アレグザンドラ――いや、アロイス。


 ――愛は見つけられたか?


 アレグザンドラはとっくの昔にいなくなっている。我々の前に現れた『あれ』は実体のない――アロイスが作り出した幻影だ。


 ずいぶん振り回してくれたものだ。けれどそれも終わる。




   * * *




 気づいた時には、アドルファス王太子殿下も私もマイルズも、乾いた塩類平原の上にいた。地中に深く穴をあけていた湖面は底が上がっている。


 吹雪もやみ――空気は乾いている。そう、今は冬の雨季ではない。乾季だ。


 びしょ濡れのはずのアドルファス王太子殿下と私の服も乾いていた。


 深く息を吸う……ああ、死ぬかと思った。


「――夜明けだ」


 マイルズが東の空を眺め、呟きを漏らした。


 藍と赤が混ざり、その幻想的な光が、雲に、そして塩類平原に反射する。


 私は手のひらを目の前にかざした――視界が刻々と閉ざされていく。やがてまた見えなくなるだろう。


「大丈夫だよ、ディーナ」


 アドルファス王太子殿下が口の端に淡い笑みを浮かべる。


「君にかけられた呪いも今浄化する」


「アドルファス王太子殿下」


「手を繋ごう」


 ふたり手を取り合い、笑みを交わした。


 そしてアドルファス王太子殿下はマイルズのほうを振り返った。


「マイリーくん、君の手も借りたい」


「え」


 マイルズが目を丸くする。手を貸せるものなら貸したいけれど、果たして助けになるのかどうか……? 弟の顔には戸惑いが滲んでいた。


「手を、僕の肩に置いて」


 マイルズが言われるまま左手をアドルファス王太子殿下の肩に置く。


「マイリーくんには浄化の力があるよ」


「ええ?!」


 仰天しているのはマイルズだけじゃない。私は弟とずっと一緒に暮らしてきたけれど、彼が超常的な力を発揮したことはこれまで一度もなかったので、私もまた戸惑いを覚えていた。


 アドルファス王太子殿下がどこか悪戯に続ける。


「僕も今気づいた――君は僕の同類だね」


「そうなんですか?」


「聖女はブルーソルト限定の浄化能力を持つが、君と僕は呪い全般を浄化できる」


「えー」


「じゃあいくよ」


 促すその声はリラックスしていた。気負ってもいない。


 アドルファス王太子殿下が塩類平原に右手を突くと、そこを起点として、地底から光が湧き上がってきた。


「うわぁ……!」


 感嘆の声を上げたのは、マイルズだったのか、私だったのか……。


 変化は段階的に、波のように展開していった。


 放射状に光が広がって行く。


 濁っていた塩類平原が白く光り、天空の朝焼けと溶け合うように混ざって、青く煌めいた。


 美しく荘厳な眺めだった。


 塩類平原の灰がかった濁りがクリアに変わる――……大地を照らす淡く美しい光。


 朝日が闇を払う。広大なパスカリス塩湖全体が一層強い光を放った。


 闇に沈みかけていた私の視界がふたたび開けていく。


 ああ――世界は美しい。


 私が視線を巡らせると、対岸の向こうにエルゼ嫗がひとり佇み、この光景をじっと眺めているのが見えた。


 浄化の光はパスカリス塩湖すべてに行き渡った。


 余韻のように光が溢れ、踊る。


 やがてそれも静かに収まり……。


「――終わった」


 アドルファス王太子殿下の優しい瞳が私を絡め取った。


「アドルファス王太子殿下――日が昇っているのに、あなたの顔が見えるわ」


「よかった。ああ、そうだ……もう一度やり直していい?」


「何を?」


「――愛している、ディーナ」


 アドルファス王太子殿下が手を伸ばし、私の頬に触れる。繊細な手つきだった。


 私の胸がドキリと震える。


 そういえば……冷たい水の中で私が「愛している」と告げたのに、彼は私が自ら危険に飛び込んだことを怒っていて、先ほどは言葉を返してくれなかった。そのやり直しということらしい。


「もう一度言って」


「愛してる」


「もう一度」


「――死ぬほど愛してる、愛してる、ディーナ」


 彼のゴールドの髪が朝日を反射し、キラキラと綺麗に輝いている。私が大好きな薄青の瞳とパスカリス塩湖の青――ふたつが溶け合い、心に沁みた。


 私はとびきりの笑みを浮かべ、愛しい人に抱き着いた。


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