第八話 逢瀬のち警笛


「なぜ逃げる」

「に、逃げてなんか――」


 書架を背に立つ花音の脇を紅の両腕が囲い、端麗な顔がいたずらっぽく笑んだ。

「捕まえた」

「そ、そんなっ、あたしは虫では――」

「ははっ、たしかにな」


 瞬間、大きな手のひらが、そっと花音の額に触れる。


「――!」

 ただそれだけ。ただそれだけのことなのに。

 心臓の爆音が、頭の中で響く。

 紅に聞こえるんじゃないかと恥ずかしくて気が気でない。


「だいじょうぶ。熱はないな」

「だっ、だから大丈夫だって言って――」

「てことはつまり、オレに会えたうれしさで顔が赤い、って思っていいのか?」

「なっ……」


 ド図星なことを言われ、花音は返す言葉もない。

 切れ長の双眸が、愛おしげに笑んだ。


「花音。会いたかったぞ」

「紅……」


 大きな手が、花音の額から頬へ動く。

「七夕の日は、待ち合わせていた女官に会えたのか?」

「へっ?! あっ、うんうん会えた会えた!」

 紅の顔が近付いてくるので、思わず素っ頓狂な声が出てしまう。

「そうか、よかった。でもあの時、オレはもう少し花音と一緒にいたかったぞ」

(ちちち近い!! 紅近すぎるって――っ)

 紫水晶のような双眸はもう、鼻の先にある。

 花音の心臓爆発寸前――そのときだった。



 鋭く、高い音に紅の動きが止まる。

 異質な音に、花音は眉をひそめる。



「……何の音?」

 紅は「ちっ」と舌打ちして高窓の傍に寄った。

「せっかくいいところだったのになんなんだ……あれは警笛じゃないか」


 紅は、じっと耳をすませ、すぐに眉間を険しくした。


「この音は――周囲を最警戒しろという警笛。そして、応援要請の警笛だ」

「ええ?!」

「近いな」


 紅は一瞬迷って、花音の手を取った。


「オレは様子を見に行く。だが、近い場所で危険な何かあったなら、おまえをここに置いてはいけない。一緒に来い」

「で、でも仕事が」

「最警戒の警笛が鳴ってるんだ。じゅうぶんに伯言への言い訳にはなるだろう。来い」


 月明かりの中、紅と花音は、華月堂を出た。

「警笛は――凛冬殿の方向からだ」





――警笛が後宮の月夜に響く、少し前。


 凛冬殿の薄暗い回廊で、女官が溜息をついていた。

「はあ、宿直って一晩中なんですもの。ヘンな時間に厠へ行きたくなって困るわ」


 貴妃の殿舎のため、回廊には吊灯籠がいくつもさがり、夜でもまばゆいばかりの明るさだ――いつもなら。


「いくら月が明るいからって、こんなに暗くすることないでしょうに」

 今夜は満月で明るいので、節約のために回廊の吊灯籠を少なくするように、と欣明が命令したのだという。

 おかげで、申しわけ程度にしか吊灯籠に灯火石が入っておらず、月明かりが遮られるような場所では視界がとても悪い。この、厠近くの場所のように。

「欣明ってほんと、腹立つわよねっ。どうして清寧様はあんな奴を次官の一人にされているのかしら。もっとふさわしい方が他にも――」


 女官は言葉を止めた。

 回廊の外の暗闇で、がさ、と何か音がしたからだ。


「誰かいるの?」


 もちろん冬妃の私室から遠くない場所なので植栽は整えられているのだが、 この辺りは厠に近いため、他の場所よりも草木が生い茂っている。


「もしかしたら、晶峰山から下りてきた妖獣かも……」


 宝珠皇宮の中、特に四季殿や帝のおわす遍照宮、皇子殿下の住まう東宮には、晶峰山から下りてきた美しい妖獣が姿を見せることがあるという。


 女官は気になって回廊を下りた。


 茂る下草をかき分けて、近くの大きな木へ向かう。何か、そこに影のようなものが見えた気がしたからだ。


 そのとき、女官は眉をひそめた。


「……なに? このにおい」


 何か、嗅いだことのないにおいがする。それは闇に溶けて、身体にまとわりついてくるような、甘いにおい。


 と同時に、暗闇の中に何かが仄かに白く見える。


「あら?」

 それは、自分と同じごく薄い紫色の裾ではないか。

 木に寄りかかっているのは、見たことのある女官だ。

 奇妙なのは、いつもきちんと結ってある髪が、綺麗に下ろされている。


「蘇奈……蘇奈でしょ?」


 女官はそっと話しかける。

 蘇奈は、こちらを見ていた。

 しかしその双眸は、瞬き一つしない。虚ろな穴のような、光の消えた漆黒の双眸。



 死んでいる――そう思ったとき、悲鳴が喉からほとばしった。

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