第十七話 藍悠の心配ごと


 花音は猛烈に不機嫌な伯言を想像していたし、きっと今日も残った仕事を押しつけられて残業だろうな、と覚悟してが華月堂に帰ったのだが。


「あら、おかえり花音」


 事務室の長椅子から、弾んだ声で振りかえる伯言。


「と、藍悠様!」

「花音、久しぶりだね」


 今のいままで涼霞の眩しい美貌を前にしていたけれど、それでも藍悠の美しさにはハッと魅入られる。

 射干玉の艶やかな髪を結い、龍帝家を象徴する紫水晶の双眸が優しく花音を見つめている。その瞳と同じ色の紫袍が、藍悠の端整な顔立ちとすがすがしい雰囲気をよく引き立てていた。


「内侍省へ呼ばれたと聞いたけど、大丈夫かい?」


 花音が伯言の隣に座るなり、藍悠は身を乗り出した。


「まさかとは思うけど、拷問とか……」

「まさか! ただの事情聴取でしたよ」


 花音が笑うと、藍悠はホッと大きく息をついた。


「よかった……内侍省からもどってすぐ、お昼も食べないで出ていってしまったから拷問された傷を医官に診せに行ったのでしょう、と伯言が言うから心配したんだ」

「ええっ?! 伯言様! どうしてそんなことを」


 花音がジト目を向けると、伯言は嫌味たっぷりに言った。


「本当のことしか申し上げてないわよ。仕事をぜーんぶほったらかしてまでどっか行くんだから、よほどの事情があったと思うのはしょうがないわよねえ?」

「う、すみません……」

「で? 仕事をぜーんぶほったらかして今までどこで何をしていたわけ?」


(ほったらかして、って二度言った……)


 これは相当怒っているな思った花音は、姜涼霞の自室で素敵にお茶をいただいたところは省いて、一部始終を話した。


「じゃあなに、ぬれぎぬを晴らすために凛冬殿へ潜入していたの? 見つかったらそれこそ不審者扱いなんだから、よけい怪しまれるじゃない」

「いえ、あのっ、そこはなんとか見つからずに、なんとか」

「ふうん」

 伯言はじいっと花音を見ていたが、

「で? 何かわかったわけ?」

 と話を前へ進めてくれたので花音は姜涼霞のことに触れずに済んでホッとする。


「はあ、それがあまり。蘇奈さんの遺体があった場所には、立ち入りを禁止する帯が張られていましたけど」

「それじゃあ、内侍省はまだ調査をしているってことだね」

 藍悠が言う。

「ということは、もしかしたら何か遺留品があるかもしれない」

「ええ、あたしもそれを狙って行ったんですけど……」


 見つける前に涼霞りょうかに声をかけられたので、周辺を観察することができなかったのだった。


「あ、そういえば花音、『宝玉真贋図譜ほうぎょくしんがんずふ』は?」

 花音は肩を小さくする。

「それが……貴重な状況証拠なので、返せない、と」

「なんですって?! 華月堂の本を返さないなんてあたしに喧嘩を売ってんの?!」

「ちょ、ちょっと落ち着いてください伯言様っ」

 花音の肩をゆさゆさやっていた伯言はハタと動きを止めた。

「そうだわ。あたし、今から内侍省に行って『宝玉真贋図譜』を返してもらってくるわ!」

「え? ちょっと、伯言様仕事は」

「もう全部終わってるわよっ。戸締りお願いね!」


 では失礼いたします藍悠様、と伯言は打ってかわって貴公子のごとく(貴公子なのだが)揖礼ゆうれいをすると、風のように華月堂を出ていった。


「伯言は行動が早いからね」

 笑って伯言を見送っていた藍悠が、いつのまにか卓子越しに花音をのぞきこんでいた。

 花音は思わず目をそらしてしまう。


(そ、そんなに見つめないでーっ)


 藍悠が綺麗すぎて、ちんちくりんな自分が恥ずかしくて消えたくなってしまう。

 

「花音、七夕の夜、どうして華月堂に来てくれなかったの?」

「そ、それは……」


 そう、わかっていた。

 藍悠が華月堂で一緒に星を見ようと言ってくれたことも、頭の隅でちゃんと気になっていた。

 けれど、あの夜。

 花音は手を引かれるまま、紅と一緒に夢のような時間を過ごしてしまったのだ。


「申しわけございません」

 花音がこうべを垂れると、衣擦れの音がして、ふわり、と爽やかな芳香が隣に座った。


「あやまられると、なんだか惨めになるなあ」

「す、すみませんっ」

「だからあやまらないでって」


 藍悠はくすりと笑って、花音の肩に手を回した。

(藍悠様?!)

 距離がぐっとせばまる。吸いこまれそうな紫水晶の瞳は、すぐ目の前にある。


「来てくれなかったことは、もういいんだ。でも、七夕の夜に誘った意味は、わかってくれているよね?」

「え、ええと、あの、藍悠様。あたしはその……」

「禁軍十五衛に同郷の者がいるそうだね。林簾りんれん、といったかな。彼とは、どういう関係なの?」

「え……? 簾ですか?」


 簾、と花音が言うと藍悠の秀麗な眉がひそめられた。


「抱擁したりして、ずいぶん親し気だったけど……」

「み、見ていらしたんですか?!」

「まさか、故郷の許嫁とかじゃないよね?」


 吸いこまれそうな瞳。

 天帝もかくやと思うほどの麗貌。


 それを目の前にしても花音は――吹きだしてしまった。


「花音?!」

「だ、だって……藍悠様ったら、冗談やめてください。あたしと、簾が……許嫁?! そんなわけありませんって」


 ひーひーお腹を押さえて笑う花音に、藍悠はむすっとする。


「僕は真面目に言ってるんだよ!」

「だってあんまりおかしくって。だいたいあたし、簾の家から嫁入りを断わられているんですよ!」

「えっ?!」


 これには藍悠も驚いたらしい。二の句が継げず、口をばくぱくしている。


「簾とは家が隣で、幼馴染なんです。だから泰平門広場でばったり会ったときはびっくりしました!」


 簾が禁軍十五衛に入軍してきた経緯を知らない花音は、あのとき本当にぴっくりしたのだ。

 簾が禁軍十五衛に入軍してきた経緯をやはり知らない藍悠は、花音の言葉にホッと胸をなでおろした。


「そうか。彼は、ただの幼馴染だったのか。それにしても……あのときは許せなかったな」

「え?」

「あんなに花音を抱きしめて……」


 花音の肩にかかる手に、力が入る。

(え、え、ええーっ)

 そのまま抱き寄せられていく。心臓が耳の奥で高鳴った。


「―――藍悠様。そろそろ御時間かと」


 黄昏たそがれの薄闇に、いつの間にかそっと影が浮き上がる。


「飛燕さん!」


 現れた黒装束に花音はホッとした。藍悠は不機嫌げに大きく息を吐く。

「もうそんな時間か」

「はい。白司書にも、ご歓談中申しわけない。藍悠様は今宵、凛冬殿へ御渡りになることになっておりまして」

「渡りといっても、冬妃の父・袁鵬殿が後宮へ納めてくれた品のお礼を言いにいくだけだよ」

 藍悠は言い訳するように言うと、名残惜しそうに立ち上がった。


「花音。凛冬殿でそれとなく、僕も事件のことを聞いてみよう」

「そ、そんな! 藍悠様にお気遣いいただくなんてとんでもない!」

「花音にぬれぎぬが掛けられているのに僕が黙って見ていられるわけない。また近いうちに会いにくるよ」


 藍悠の大きな手が、花音の頬をそっとなでた。


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