第十八話 護衛長たちは斟酌します
「藍悠様。しばらく華月堂へ行くのは、お控えください」
華月堂を出てしばらく、飛燕がささやいた。
輿には乗らず徒歩で凛冬殿へ向かっている。徒歩ならば随従を伴う必要がなく、こうして藍悠護衛長・飛燕とごくごく内密な話もできる。
「女官の変死の件か?」
「はい。あの件で白司書が有力容疑者と騒いでいるのは、暗赫の残党です。奴らは未だ、内侍省武官の中で発言権を持っているようでして」
「それならば、よけいに放っておくわけにいかない」
「しかし、今は立太子の前の大切な時期。白司書の容疑が晴れるまでは、関わらないほうがよろしいかと」
「容疑を晴らさなければずっと花音に会えないままではないか!」
冷静な藍悠に珍しく、声が荒がる。
飛燕が、これも珍しく溜息を吐いた。
「お調べになるのですね?」
「当たり前だ」
「……そう言われると思いました」
藍悠が、意外そうに眉を上げて飛燕を見た。
「なんなりと、お申し付けください」
「珍しく食い下がらないな」
「白司書が絡むと、藍悠様はお人柄が変わったようになられる。私に秘密で何かをされるくらいなら、私も御尽力させていただいた方が気が楽です」
「そうか……すまない」
「ただし、白司書との直接的な関わりは極力避けてください。よろしいですね?」
「う……」
「よろしいですね?」
「ま、まあ……善処する」
じろっと藍悠を疑いの目で見た飛燕に、藍悠は軽く咳払いした。
「とりあえず、事件のあらましを知りたい。飛燕、僕が凛冬殿へ滞在している間、内侍省へ行ってくれないか」
「御意」
ほどなく、主従の影は凛冬殿の門をくぐった。
――同じころ、 東宮、水明殿。
「紅壮様。そろそろお召替えの時間です」
露台で書を読んでいる紅壮は、顔を上げずに返した。
「袁鵬からの品の礼を言いにいくんだろう? このままの格好で行けばいい」
紅はこのところ、以前よりは衣装も奇抜でなくなった。
変装用の宦官の緑袍か、今着ている白袍に紅い上衣を羽織っているか、だ。
「形式、というものがございます」
この氷の美女――紅壮護衛長・柊にぴりゃりと言われては、紅壮も言い返せない。
「はいはい」
しぶしぶ部屋へ戻り、紅壮が衣装に袖を通すのを手伝いつつ、柊は主にささやいた。
「紅壮様。しばらく華月堂へ行くのはお控えください」
主従の動きは止まらない。機械的に着替えをしつつ、紅壮の双眸が鋭くなった。
「なぜだ」
「おわかりでしょう。昨夜の凛冬殿の事件です」
「それとこれと何の関係がある」
「内侍省が……暗赫の残党が、白司書を取り調べましたよ」
「なに?!」
「
紅壮は舌打ちする。
「ただの逆恨みだ。花音がそんなことをするはずがない」
「おそれながら紅壮様。殺人というのは意外な人物が犯人であることが多いものです」
「花音じゃない! あの時間、花音はオレと一緒にいたんだから――」
言いかけて紅壮はハッと口を押さえる。めったに表情を変えない柊が、にやっと笑んだ。こういう駆け引きは、やはりこの妙齢の美女の方が一枚上手だ。
「やはり、昨夜お姿が見えなくなったのはそういうわけだったのですね。さすがでございます。この柊の監視網をかいくぐるとは」
七夕の夜以来、柊の監視は以前にも増して厳しい。
せっかく貴妃と親交を深める機会だった七夕を、爽夏殿で双六をした以外は、ほとんど儀礼的に終えて紅壮が姿を消したからだ。
「紅壮様。白司書は一官人です。妃嬪として召し上げるには相応の手続きが必要となりましょう。その手続きに、白司書が敵う女人であれば、ですが」
柊は遠回しに、花音が庶民の出であることを言っているのだ。
柊がやみくもに花音を目の仇にしているのではないことは、紅壮にもわかっている。後宮という場所において、身分の差や後ろ盾というのは、妃嬪が幸せになれるか否かにどうしても関わってきてしまう。
紅壮と藍悠の母が、そうであったように。
「今はとにかく、立太子のために大切な時期。つまらぬことで青の皇子派の貴族共に足をすくわれてはなりません。白司書のことも、立太子されてからお考えになってもよろしいでしょう」
「……わかっている」
「では、ほとぼりが冷めるまで華月堂にも、白司書にも、しばらくお近づきになりませぬよう」
そう、父の跡を継ぎ龍帝になるためには、まず立太子をする必要がある。
藍悠も紅壮も、紫瞳。それは龍玉を宿せる身であることを示していて、つまり二人は素質的には同等なのだ。
あとは貴族たちとの駆け引きなど、外部要因を固めなくてはならない。
今のところ、多くの貴族は藍悠を推しているが、花祭りや七夕での紅壮の姿や、朝議での紅壮の発言に、目を瞠る貴族も増えてきた。
花音のために、と思えばもちろん耐えられるが、そのために花音に会えないのも……つらい。
昇龍の刺繡の紅衣。それを見事に着こなした自分の姿を鏡に見て、紅壮はそっと嘆息した。
「――とまあ、そう申し上げても、お調べになるのでしょう?」
驚いて振り返ると、柊はいつもの無表情のまま、膝を付く。
「黙って動かれるよりいいです。なんなりと、お申し付けください」
「柊……いいのか」
「そのかわり、白司書との直接的な関わりはできるだけ避けてくださいませ。真実が明らかになるまでは。よろしいですね?」
「わかった」
本当は、今すぐ花音に会いたい。
けれども、仕方ない。
自分が玉座に着くとき、花音を専属司書として傍に置きたい。
後ろ盾がなくとも、官としての立場が後宮の中で確立されていれば、妃として召し上げやすい。花音を周囲からの誹謗中傷から守れる。
そのためにも――今は足をすくわれている場合ではないのだ。
「さっそくだが柊、調べてほしいことがある」
「は。なんでしょう」
「におい、についてだ」
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