第十九話 捜す人々



 終業の鐘も鳴り終わり、宦官たちが寮へ帰っていく。

 その和やかな終業の空気の中、内侍省玄関近くの取次室から、上品だが大きな声が外まで聞こえてきた。


「『宝玉真贋図譜ほうぎょくしんがんずふ』は華月堂の本なの。すぐに返してちょうだい!」


 いぶし銀の扇子を手の中でぴしゃりと叩いたのは――伯言はくげんだ。


「はあ、そういわれましても……もう取次時間は終了しておりまして」

 対する宦官は、八の字眉毛の尻をよけいに下げる。ほとほと困った、という顔だ。今にも泣きそうだ。


「貴殿が持ってきてくれればいいわ。武官が使う保管庫にあるはずよ」

「そ、そういうわけにはいきません。規則ですので」

「規則、ね」

 扇子の内側で伯言は舌打ちする。

「たいへん申しわけないのですが、明朝またいらしてください」


 これ以上、この泣きそうな宦官を責めてもしょうがない。

「朝一での取次をお願い申し上げます」と念を押し、伯言は取次室を辞した。


「絵に描いたようなお役所仕事ねっ。融通がきかないったらありゃしない!」

 内侍省の灰色の階段を下りていた伯言の足が、止まった。


 正面から、人がやってくる。

 青碧の袍がその凛とした佇まいによく似合った、長身の人影だ。


 伯言と並んでもあまり身長の変わらないその人物は、すれ違いざま会釈をした。伯言も雅やかに会釈を返す。

 その優美な微笑みに、伯言はふと思い当たった。


(なるほど。この方が噂の元・騎兵将軍、姜涼霞きょうりょうか殿か)


 さすがに元・軍人だけあって、まとう空気に隙がない。

 けれど、端整な容姿と優美な微笑みは、麗人そのもの。


(凛冬殿の花形が、なぜこんな時間に内侍省に?)


 真っすぐ伸びた後ろ姿を、伯言は肩越しに見送った。



――同じ頃、凛冬殿。


『立入を禁ずる』と記された赤帯の近くで、何かがごそごそと蠢いていた。

「ない……ない……」

 黄昏時の薄闇に、低い呟きが不気味に溶ける。

「どこへいったのだ……あれが明るみに出てはまずい……」


 下草をかきわける音は、しばらく続いた。






「うーん……決めた。じゃあ、龍髭糖ロンシュータンと交換ね!」

 ごく薄い紫襦裙の女官が、食後のお茶が載った盆を璃莉へ渡した。


「ありがとう」

 璃莉りりは、美しい麻紙に包まれた龍髭糖を女官に渡す。

「それにしても璃莉は熱心ねえ。昼間も涼霞様にお茶をお持ちしたでしょ?」

「ええ……」

 璃莉は頬を赤らめる。

「まあ気持ちはわかるわよ。だってあんな麗しい方なら、たとえ女性であってもときめいてしまうもの!」

 女官はうっとりと言ってから、ぺろっと舌を出した。

「でもあたしは花より団子かな。なんてったって龍髭糖だもの」


 龍髭糖は国民的人気を誇るお菓子だ。

 けれど高級で、それなりの家柄の出である女官たちでもめったに食べられないので、凛冬殿で配られることがあると皆大喜びする。


「わかるわ。私も龍髭糖は大好きよ」

「ふふ、でもそれより涼霞様をお慕いしているんでしょ」

 がんばってね、と女官は仕事に戻っていった。


 璃莉は茶器の載った盆をしっかり捧げ持つと、客間のある殿舎へ向かった。

 涼霞の居室に近付くにつれて、だんだん心臓の音が大きくなる。顔が熱くなる。


(これをときめいている、っていうのかしら……)


 正直、璃莉には恋やときめきというものがわからない。

 けれど涼霞の姿を見ると、声を聴くと、言葉を交わすと、体中から熱いなにかがわいてきて、とても幸せな気持ちになって、胸が甘くしめつけられる。


(これをときめいているというのなら、私は涼霞様に恋しているということだわ)


 璃莉はこれまで、誰かをこんなにも想ったことがない。男性を好きになったこともない。


(それなのに女性に恋するなんて、私どこか変なのかしら……いいえ)


 璃莉は、毅然と顔を上げる。髻に差した水晶の簪が、しゃらり、と優しい音をたてた。

 その音で涼霞の姿を思い出し、璃莉はまた甘く切ない気持ちになる。


(こんな素敵で幸せな気持ちになれることが、いけないことなはずはない。お相手が男性であっても、女性であっても)


 世間では恋や結婚は異性とするもの、という向きがあるようだが、そうじゃなければいけない、ということわりはないだろう。

 何度も考えて同じ結論に達したことを頭の中でまた繰り返し、璃莉は涼霞の居室の扉をそっとたたいた。


「涼霞様、食後のお茶をお持ちしました」


 返事はない。

 いつもなら、一拍と待たずに返事があるのに。


「涼霞様……?」


 気になってそっと扉を押すと、扉は開いていた。

 窓際の吊灯籠にも、卓上の燭台にも、明かりが入っている。

 読みかけの本もある。涼霞がここにいた気配はある。


「何かご用事があって、席を立たれているのだわ」


 璃莉はひとまず盆を置き、茶葉のえぐみが出ないうちに一煎目を入れておくことにした。

 そのとき、卓上にあった本に、ふと目がいく。


「この本は」


 涼霞が開いたままの歴史書の下に、もう一冊、本がある。

 目に留まったのは、その本が凛冬殿ではよく見かける本だからだ。


「これは華月堂の本で……最近どこかでも見かけて……そうだ、思い出した!」


 三人で宝物庫に忍びこんだ夜、なぜか宝物庫にあったのだった。


「あの本が、どうしてここに……? あ、そういえば」

 璃莉は、懐をさぐって小さな紙片を取り出した。

 あの夜、蘇奈が宝物庫でこの本を見つけたとき、本の間から落ちた紙片だ。

 人が来る音がして、あわてて拾って懐にねじこんだまま、忘れていた。


 璃莉はなんとなく、紙片を開いた。


「なにかしら、これ」

 書付だ。

「誰かの調べ物かしら……? でも……」


 その書付を食い入るように見ていた璃莉の顔色が変わった。


 璃莉は名残惜しそうに湯気の上がる茶器を見つつ、急いで涼霞の居室を辞した。

 書付の意味はわからない。

 でも、なにやら胸騒ぎがする。南梓なんしをつかまえて、今すぐ約束しなくては。

 明日いっしょに華月堂に行こう、と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る