第三十一話 殺人は甘い匂いと共に
ひとつひとつ扉の脇に書かれた名を確認して、花音は病棟の二階、一番奥の部屋の前で立ち止まった。
「ここが南梓さんの部屋なのね」
木の札に『凛冬殿 南梓』を書かれている。間違いない。
他の部屋の扉は開けてあるのに、この部屋だけ扉が閉まっている。
「よほど怪我が重いのかしら」
心配に顔をしかめた花音は、扉に訪いを入れようとして動きを止めた。
中で何か、物音がする。
衣擦れのようなもみ合う音。
続いて、どすん、という大きな音がして、花音は反射的に扉を開けた。
「この匂い……」
どこかで嗅いだ匂いだ。
どこだったか――。
「そうだわ、蘇奈さんの遺体の傍だわ」
痛ましい状況に似合わないほどの甘い匂い。
だから記憶に残っていた。
衝立を押しのけるようにして室内に入り、花音は凍り付いた。
「南梓さん?!」
一つしかない寝台の上で押さえつけられているのは南梓に間違いない。
そして南梓を押さえつけているのは。
「冥渠様……!」
「まったく人の邪魔をするのが得意な小娘だ」
冥渠は憎悪のこもった目を鋭く細めた。
そのとき、恐怖で顔をゆがませながらも南梓が必死に叫んだ。
「花音ちゃん! 逃げて! そ、うし、な、いと……」
冥渠の下で身をよじっていた南梓がぐったりと動かなくなった。
「南梓さん?! どうしたの?! しっかりして……うっ」
急にくらり、と眩暈がした。
「動かないほうが身のためだ。この薬はよく効くのでねぇ」
冥渠は素早く寝台と花音の間に立ち、花音に短刀を突きつけた。
「こ、後宮の中で帯刀するのは、罪になりますよっ」
ぼう、とする頭で考える。どうして冥渠は平気でいられるのだろう。
花音にもわかっていた。原因は、この甘い匂いだ。
「あいにく罰する者がいなければ罪は罪とならない」
「最低だわ……!」
「なんとでも言うがいい。後宮では生き残った者が勝ちだ。まあ、ありがたく思え。最初の娘と違ってラクに死なせてやる。この娘共々な」
「なんですって……じゃあ、蘇奈さんを殺したのは貴方なのね?!」
「入るなと言われている場所に入るのが悪かろう」
冥渠は短刀を突きつけ、花音を寝台に追いやった。
「本来なら蠟蜂様の仇として
上から見下ろしてくる細い双眸の闇に花音は戦慄する。
「そうしない代わりに答えよ。『宝玉真贋図譜』に挟んであったものを華月堂が回収しているはずだ。出せ」
(あの書付のことだわ)
燐灰石と碧雷の重量と一貫あたりの値が記された書付。
とんでもない火種となり得るあの書付は、今、花音の懐にある。
「し、知らないわ、そんな書付!」
「ほう。私は書付、とは言ってないのだがねえ」
冥渠がニタリと口の端を上げた。しまった、と思った瞬間、ぼんやりとした花音の脳裏に稲光が走った。
「そう……そうだわ!!」
昨日、涼霞の発言に違和感を覚えたのは。
知らなくては知り得ない事実を知っている。
今の花音のように。涼霞は。
たぶん、知っていたのだ。
冥渠が南梓を襲ったことを。
だから言ったのだ。「後ろから殴りつけるなど卑劣極まりない」と。
(やっぱり涼霞様は関係ないわ! それどころか涼霞様は冥渠の行動を知って、止めようとしていたんだ)
それを璃莉に伝えてやらなくては。
そう思って必死に抗おうとするが、甘い匂いが鼻腔から頭へと侵入するように広がって、思うように力が入らない。冥渠の腕力にも到底かなわない。冥渠はやすやすと片手で花音を押さえつけ、短刀の切っ先を花音の鼻先に突きつけた。
「ふふふ、そろそろ、薬が身体中を回る。痺れて身体を動かぬであろう?」
「くっ……」
悔しくて身体をよじろうとするが、うまくいかない。
冥渠の絡繰り人形のような顔が、残忍に笑んだ。
「あれを見たのだな、おまえは。ならば、あの書付が莫大な富を生み出すことがわかったであろう。この本の内容を知っている司書ならばなぁ」
「それは……『宝玉真贋図譜』!」
ぼんやりとしてきた視界に移る、黒い装丁の本。
ずっと捜していた本が、目の前にある。
「返して……この本は華月堂の大事な本なんです……!」
「ふははは! 己が死ぬるというときまで本の心配とはな! 司書としてのその心意気は褒めてやろう」
「あんたなんかに……褒められたくないっ……本を悪事に使う人なんかの……」
「なんとでもぬかせ。おまえは死ぬのだ。この娘と一緒に、蘇奈という女官を殺した罪の意識に苛まれてなぁ」
低い声が呪文のように耳に流れてくる。
冥渠が、花音の結った髪の毛の中に手を入れてきた。背中を毛虫が這うような寒気が全身を駆け抜けるが、身体に力が入らない。
――あたし、死ぬんだ。
死の直前には、幻聴が聞こえるという。
いつも花音の心を落ち着かなくさせ、そわそわさせ、ときめかせるあの声。
いつも笑んでいるような、心地よく低くて、甘い声。
あの声が、あたしを呼んでいる――。
「花音!!」
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