第三十二話 幻じゃなくて
――少し前。
病棟に、ひと気がなさすぎる。
「明らかに意図的な人払いだ。こんなことができるのは――」
内侍省。
嫌な予感がした。
足を速めたそのとき、肩に手がかかった。
「!」
とっさに振り向き、身構える。
元・武官の涼霞にとって、こんなに至近距離からの接近に気付かなかったのは初めてだった。よほど訓練された者にちがいない。
そのことに驚き、自分より長身な相手に驚き、相手が男性であることに驚いた。
ここは後宮だ。男性は、限られる。
目の前の青年には、何度か謁見したことのある帝の面影があった。
「まさか……貴方は……」
「そなたは噂の女将軍だな? さすがの身のこなしだな。柊が欲しがりそうだ」
まったく構えたところがないのに隙がない。
端麗に整った顔立ち、無造作に結った艶やかな髪、無造作に着流した袍。噂通りの、飄々と飾らない雰囲気。
そして、初めて間近で見る、神龍と同じであるという紫色の双眸。
「赤の殿下」
「しっ」
すぐさま平伏しようとした涼霞を押しとどめ、静かにしろ、と手で合図する。
「そなたも冥渠に用があるのだろう? 一緒に来い」
そう言って、赤の皇子――紅壮は扉を静かに開けた。
♢
「花音!!」
(あれ……? 幻聴にしてはやけにはっきりと聞こえるわ……)
そう思った瞬間、のしかかっていた重みが消えた。
「内侍省武官、冥渠。短刀を納めよ!」
「くっ……」
冥渠がゆっくりと短刀を鞘に収めるが、花音を押さえつけた手はそのままだ。
「即刻その女官から離れよ。いろいろと問いたいことはあるが、とりあえず後宮内における帯刀の現行犯だ。言い逃れはできんぞ!」
「くそうっ……」
花音の上から黒い影がずり落ろされていく。
「
「はっ」
きびきびと室内の窓を開けていくのは涼霞だ。
そして、花音をのぞきこんだのは。
「紅……!」
こんなときなのに、甘い痛みが胸を襲う。
「うそ……幻?」
相変わらず整った美麗な顔が心配げに花音を見つめる。
「幻なわけあるか、馬鹿め。だが……間に合ってよかった」
伸びてきた指が花音の頬に触れようとした――そのとき。
「璃莉……なぜここに!」
涼霞が叫んだ。戸口に、璃莉が立っていた。
「涼霞様こそ……どうして」
そして、紅を見てハッとする。
「あ、あなた様は、まさか」
「ちょうどいい。そなた、この二人を介抱せよ」
璃莉はあたふたと室内に入る。
「南梓! 花音ちゃんも……!」
「あたしはまだだいじょうぶ。南梓さんが」
南梓はぐったりとしたまま動かない。
「ああ……私はなんてひどい……」
「璃莉さん?」
璃莉は苦しそうに顔を歪めている。
紅が胸元の笛を吹いた。
「警笛……」
紅と久しぶりに華月堂で再会した夜にも聞いた音。周囲を最警戒し応援を要請する、という音。
「姜将軍。冥渠を見張っていてくれ。じきに衛兵は来るが、この女官たちは応急処置が必要だ。冥渠が人払いしたせいでこの棟には誰もいないのだ。隣の棟からすぐに医官を呼んでくる。オレが行った方が話が早いだろう」
「かしこまりました」
「この甘い匂いは睡眠薬の一種だ。姜将軍は武人ゆえ耐性もあろうが、気を付けよ」
「はっ」
紅に敬礼し、涼霞は璃莉と南梓と花音を寝台で護るように背にかばった。
「冥渠殿。
瞬間、弾けた絡繰り人形のように、冥渠が笑った。
「ふ、ははははははは! 何を言い出すかと思えば」
「おそらく玉の密売。そして、それに気付いたかもしれない女官たちを殺そうとした。蘇奈を殺したのも貴方なのでは」
「推測で話をしていいのなら姜殿、貴女こそ蘇奈を殺したのでは?」
璃莉が息を呑む。それを見て、冥渠はニタリと嗤った。
「貴女はたいそう女官たちの間で人気があるそうですなあ。男装の麗人などと女官たちが騒いでいる。貴女は蘇奈に言い寄られて困り、とっさに殺してしまったのでは? いわば、痴情のもつれといやつで、後宮ではよくある話だ。私が玉の密売をして挙句女官を殺したなどという証拠不十分なでっちあげより、よほど信憑性がありますなあ」
「何を馬鹿なことを……!」
「それに、私が密売をしていたとして、貴女はなぜそれを今まで放置していたのです? 荷を運んでくる貴女が何か疑わしいと思ったのなら、もっと早くに私を糾弾するべきだったのでは? なぜ今なのです?」
「そ、それは」
「蘇奈を殺してしまったことを私になすりつけるためのでっちあげなのでは? ひどい話ですなあ。とんだ悪党だ」
(なんて奴なの……!)
身体はまだしびれる。
しかし怒りが、花音の身体を突き動かした。
「……悪党はあなたよっ」
力をふり絞り、花音は寝台から身を起こそうと懸命に腕を動かす。
「花音ちゃん!」
「白司書、動くのはよくない!」
璃莉と涼霞が花音を支え、花音はやっと身を起こす。頭がクラクラするが、怒りの方が強かった。
「涼霞様が痴情のもつれで蘇奈さんを殺すはずない! そうやって暗示にかけて、周囲から既成事実を作って……同じようにあたしにも罪を被せようとしたじゃないっ」
肩で息をする花音に、璃莉が横から水筒を近付けてくれる。一口飲んで、花音は続けた。
「蘇奈さんが倒れていた場所に『宝玉真贋図譜』があったのは、あなたがわざと落としたんだわ!」
「ふん。何を言い出すのかと思えばくだらない。あの本は華月堂の蔵書であろう。私は華月堂で本を借りたことなどない。事件の証拠品として手に取ったまでのこと」
「借りなくても読むことはできますよ。凛冬殿の人たちもよくそうしていました。人気のある本は誰かが借りて、みんなで回して読むんです。つまり、凛冬殿の中にあなたに本を貸した人がいる」
「共犯者というわけか。想像力がたくましいことだ。本の読みすぎだな」
「さっきあたしに言いましたよね、この本の内容を知っているならあの書付が莫大な富を生むとわかるって。ということは、あなたも『宝玉真贋図譜』の内容をよく知っているということ」
「やれやれ、事件の証拠品として持っていただけなのに熟読しているかのような言われようだ。心外だねえ」
「熟読しているでしょう、あなたは。なぜなら、燐灰石と碧雷のことは別の頁に記されていて、どちらも読まないと二つの石が酷似していることがわかりにくいからです」
冥渠の顔色が変わった。
「蘇奈さんの遺体は、髪が解いてありました。おかしいと思ったんです。女性にとって、人前で髪を解くというのは裸になるのと同じくらい恥ずかしいこと。もし、涼霞様と蘇奈さんがあの場で会っていたとしても、蘇奈さんが髪を解くはずありません。そのことだけでも涼霞様が犯人だなんて考えられない。それに、髪が解かれていたのは違う理由があったからでしょう」
花音は寝台にぐったりとしている南梓を見た。
「南梓さんも同じく、髪が解かれた状態で倒れていた。そしてさっき、あなたはあたしの髪の毛を探りましたよね? 書付の話をしていたときです。つまり、蘇奈さんと南梓さんの髪が解かれていたのはあの書付を探すため。つまり蘇奈さんを殺し南梓さんを襲ったのは、あなたです!」
「……はあ、本当に小賢しくて邪魔な小娘だ。華月堂の司書女官め」
冥渠が笑みを張りつけたまま、花音を睨んだ。
「おまえが推理などしなければ、余計な死人が出なくて済んだものを」
「?!」
一瞬だった。
何かが視界をかすめたと思った。
「う……」
花音の横にいた璃莉が、崩れ落ちる。その様子はやけにゆっくり見えた。
「璃莉さん?!」「璃莉!!」
璃莉の身体に、短刀が突き刺さっていた。
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